表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
3/5

栞を挟まない時間


 晩秋の雨は、世界から色彩を奪い去る。

 王立ラプラス魔導アカデミーの北の果て、そびえ立つ北塔の最上階にある古文書室は、その日、墓所のような静寂に包まれていた。


 レイモンド・アシュクロフトは、埃っぽい空気の中で、古い羊皮紙をめくる音だけを友としていた。

 ここは、大陸随一の魔導師を育成する最高学府。本来なら、没落したアシュクロフト家の生き残りである彼に、居場所などないはずだった。だが、持ち前の緻密な魔導理論と、あるお節介な男の強引な推薦により、彼は生徒会副会長という学園の要職に留まっている。


 そんな彼の目的は、没落したアシュクロフト家の再興だ。

 そのための手掛かりを探す日常は、常に焦燥と隣り合わせ。周囲の学生たちが談笑に興じる放課後、彼はあえてこの忘れ去られた場所を選んでいた。


(……ここなら、誰にも邪魔されない)


 そう確信して重い木製の扉を開けたレイモンドは、しかし、微かな光に目を細めた。

 窓際の長机。沈みゆく琥珀色の陽光と、冷たい雨の青が混ざり合う場所に、先客がいた。


「……セオドリック」


 思わず、その名が漏れた。

 そこには、ランカスター公爵家の嫡男であり、学園の頂点に君臨する生徒会長、セオドリック・フォン・ランカスターがいた。

 透き通るような金髪に、海より深い碧眼の瞳。そこにいるだけで絵になる男だ。

 彼は制服のジャケットを椅子の背にかけ、シャツの袖を少し捲り、一冊の分厚い古書に没頭していた。


 取り巻きも、崇拝者も、追従者もいない。

 ただ一人の青年としてそこに座る彼の横顔は、不気味なほどに静謐(せいひつ)だった。


「やあ、レイ。君もここへ来るなんて、僕たちはやはり波長が合うらしい」


 セオドリックは顔を上げず、ただ穏やかにそう言った。

 レイモンドは舌打ちを一つ。引き返すべきか迷ったが、結局、セオドリックから二つほど席を空けた場所に腰を下ろした。


「……あいにく、俺は仕事で来ている。お前のように、優雅な読書を楽しみに来たわけではない」

「僕も仕事だよ。未来の宰相として、過去の知恵を学ぶというね」

「お前が宰相か。……世も末だな」

「ははっ、じゃあ、代わりに君がやってくれる?」

「――遠慮する」


 それきり、会話は途絶えた。

 窓を打つ雨音が、次第に激しさを増していく。


 ふと、塔全体が微かに震え、激しい金属音が響いた。同時に照明が落ちる。

 落雷により、塔の完全隔離結界が自動作動したのだ。嵐が過ぎ去り、安全が確認されるまでの間、この部屋からは出られない。


「……閉じ込められたな。最悪だ」

 レイモンドは重い扉を睨みつけ、吐き捨てるように言った

「そうかな? 僕は、ようやく訪れたこの静寂を、気に入っているよ」

「お前はいつだってそうだ。自分の都合のいいように世界が動いてると思ってる」

「ははっ、そうか。君からはそう見えてるんだね」

「……何でもいいが、せいぜい邪魔をするなよ。俺は忙しいんだ」

「ああ、約束しよう。君の思考の邪魔をするほど、僕は無粋じゃない」


 セオドリックは微笑むと、指先で魔導灯を灯した。

 薄暗い部屋に、温かな、小さな円形の光が浮かび上がる。

 二人の間の距離が、その光の輪によって、奇妙に狭まったように感じられた。



 一時間、あるいは二時間経っただろうか。

 レイモンドは、自分の集中力が驚くほど研ぎ澄まされていることに気づいた。


 隣に、自分以上の魔力と存在感を持つ男がいるというのに、不思議と息苦しくない。それどころか、セオドリックがページをめくるリズム、その静かな呼吸の音が、自分の思考を補完するメトロノームのように心地よかった。


(……没落して以来、誰かとこうして静寂を共有したのは、初めてかもしれない)


 セオドリックは何も強要せず、ただ隣にいる。

 彼が放つ圧倒的な光が、この薄暗い部屋では、レイモンドという影を優しく包み込む毛布のように機能していた。


 レイモンドはふと、隣の男の横顔を盗み見た。

 魔導灯に照らされたセオドリックの瞳は、いつもより深く、どこか遠くを見つめているようだった。

 この男も、自分と同じように、光という名の檻に閉じ込められているのかもしれない。


 その瞬間、レイモンドの胸に、名付けようのない信頼が芽生えた。

 主従でもなく、ライバルでもない。ただ、冷たい秋の雨を凌ぐ二匹の獣のような、奇妙で、切実な共犯意識。


(……このまま、雨が止まなければいい。栞など、必要ない。この続きのない時間だけが、俺の唯一の――)


 だが、その安らぎが、やがて来る歪んだ情熱への前触れであることに、この時のレイモンドはまだ、気づいていなかった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ