栞を挟まない時間
晩秋の雨は、世界から色彩を奪い去る。
王立ラプラス魔導アカデミーの北の果て、そびえ立つ北塔の最上階にある古文書室は、その日、墓所のような静寂に包まれていた。
レイモンド・アシュクロフトは、埃っぽい空気の中で、古い羊皮紙をめくる音だけを友としていた。
ここは、大陸随一の魔導師を育成する最高学府。本来なら、没落したアシュクロフト家の生き残りである彼に、居場所などないはずだった。だが、持ち前の緻密な魔導理論と、あるお節介な男の強引な推薦により、彼は生徒会副会長という学園の要職に留まっている。
そんな彼の目的は、没落したアシュクロフト家の再興だ。
そのための手掛かりを探す日常は、常に焦燥と隣り合わせ。周囲の学生たちが談笑に興じる放課後、彼はあえてこの忘れ去られた場所を選んでいた。
(……ここなら、誰にも邪魔されない)
そう確信して重い木製の扉を開けたレイモンドは、しかし、微かな光に目を細めた。
窓際の長机。沈みゆく琥珀色の陽光と、冷たい雨の青が混ざり合う場所に、先客がいた。
「……セオドリック」
思わず、その名が漏れた。
そこには、ランカスター公爵家の嫡男であり、学園の頂点に君臨する生徒会長、セオドリック・フォン・ランカスターがいた。
透き通るような金髪に、海より深い碧眼の瞳。そこにいるだけで絵になる男だ。
彼は制服のジャケットを椅子の背にかけ、シャツの袖を少し捲り、一冊の分厚い古書に没頭していた。
取り巻きも、崇拝者も、追従者もいない。
ただ一人の青年としてそこに座る彼の横顔は、不気味なほどに静謐だった。
「やあ、レイ。君もここへ来るなんて、僕たちはやはり波長が合うらしい」
セオドリックは顔を上げず、ただ穏やかにそう言った。
レイモンドは舌打ちを一つ。引き返すべきか迷ったが、結局、セオドリックから二つほど席を空けた場所に腰を下ろした。
「……あいにく、俺は仕事で来ている。お前のように、優雅な読書を楽しみに来たわけではない」
「僕も仕事だよ。未来の宰相として、過去の知恵を学ぶというね」
「お前が宰相か。……世も末だな」
「ははっ、じゃあ、代わりに君がやってくれる?」
「――遠慮する」
それきり、会話は途絶えた。
窓を打つ雨音が、次第に激しさを増していく。
ふと、塔全体が微かに震え、激しい金属音が響いた。同時に照明が落ちる。
落雷により、塔の完全隔離結界が自動作動したのだ。嵐が過ぎ去り、安全が確認されるまでの間、この部屋からは出られない。
「……閉じ込められたな。最悪だ」
レイモンドは重い扉を睨みつけ、吐き捨てるように言った
「そうかな? 僕は、ようやく訪れたこの静寂を、気に入っているよ」
「お前はいつだってそうだ。自分の都合のいいように世界が動いてると思ってる」
「ははっ、そうか。君からはそう見えてるんだね」
「……何でもいいが、せいぜい邪魔をするなよ。俺は忙しいんだ」
「ああ、約束しよう。君の思考の邪魔をするほど、僕は無粋じゃない」
セオドリックは微笑むと、指先で魔導灯を灯した。
薄暗い部屋に、温かな、小さな円形の光が浮かび上がる。
二人の間の距離が、その光の輪によって、奇妙に狭まったように感じられた。
一時間、あるいは二時間経っただろうか。
レイモンドは、自分の集中力が驚くほど研ぎ澄まされていることに気づいた。
隣に、自分以上の魔力と存在感を持つ男がいるというのに、不思議と息苦しくない。それどころか、セオドリックがページをめくるリズム、その静かな呼吸の音が、自分の思考を補完するメトロノームのように心地よかった。
(……没落して以来、誰かとこうして静寂を共有したのは、初めてかもしれない)
セオドリックは何も強要せず、ただ隣にいる。
彼が放つ圧倒的な光が、この薄暗い部屋では、レイモンドという影を優しく包み込む毛布のように機能していた。
レイモンドはふと、隣の男の横顔を盗み見た。
魔導灯に照らされたセオドリックの瞳は、いつもより深く、どこか遠くを見つめているようだった。
この男も、自分と同じように、光という名の檻に閉じ込められているのかもしれない。
その瞬間、レイモンドの胸に、名付けようのない信頼が芽生えた。
主従でもなく、ライバルでもない。ただ、冷たい秋の雨を凌ぐ二匹の獣のような、奇妙で、切実な共犯意識。
(……このまま、雨が止まなければいい。栞など、必要ない。この続きのない時間だけが、俺の唯一の――)
だが、その安らぎが、やがて来る歪んだ情熱への前触れであることに、この時のレイモンドはまだ、気づいていなかった。




