蒼い輝きと、沈まない男(前編)
暴力的なまでの夏が、帝都ラプラスの沿岸を焼き尽くしていた。
「……暑い。死ぬほど暑い。なぜ俺は、こんな無意味な場所で皮膚を焼かれなければならないんだ」
ランカスター家所有のプライベート・ビーチ。
レイモンド・アシュクロフトは、純白の砂浜に立てられたパラソルの巨大な影の、そのさらに最も濃い部分に身を潜めていた。
長袖のラッシュガードを首元までぴっちりと閉め、つばの広い帽子を目深に被るその姿は、海を愉しみに来た若者というよりは、日光を嫌う吸血鬼のそれである。
「いいじゃないですか、副会長! 見てください、あの入道雲! 夏ですよ、夏!」
目の前では、弾けるような笑顔のミレイが、これまた眩しすぎるオレンジ色の水着姿で波打ち際を駆けていた。庶務のリヴェールや他の役員たちも、バーベキューの火起こしやスイカ割りに興じている。
記念祭の激動を経て、彼らにようやく訪れた休息。それは喜ばしいことだったが、レイモンドにとっては、砂の不快感と湿度の三重苦でしかなかった。
「……帰りたい。今すぐ部屋に戻って、回路の洗浄でもしていたい……」
「おやおや、我が国の至宝がそんな隅っこで縮こまっているなんて。もったいないね、レイ」
その時、頭上から、陽光をそのまま凝縮したような眩い声が降ってきた。
レイモンドが忌々しげに顔を上げると、そこには、この世の贅を尽くしたような男が立っていた。
セオドリック・フォン・ランカスター。
完璧に整えられた金髪が潮風に遊ばれ、宝石のような碧眼が夏の輝きを反射している。素肌の上にさらりと羽織った高級絹のシャツは前がはだけ、鍛え上げられたしなやかな肢体を惜しげもなく晒していた。
「……セオドリック。お前は少しは『人目を引く』という自覚を持て。ミレイたちの作業が、さっきから完全に止まっているぞ」
「ははは! 僕はただ、皆に夏の喜びを分配しているだけだよ。……それより、レイ。君に、最高に涼しい提案があるんだ」
セオドリックは、周囲に聞こえないようわずかに身を屈めると、懐から一枚の古びた羊皮紙を取り出した。
「これを見てごらん。この別荘の裏手、断崖の下にある海蝕洞の地図だ。……君なら知っているだろう? かつて伝説の魔導師が、究極の絶縁体として愛用したという――『蒼星石』の原石が、この洞窟の最奥に自生しているという記録を」
レイモンドの眉が、ピクリと跳ねた。
「……蒼星石だと? 馬鹿を言うな。あれは数百年前に採り尽くされ、今や極北の深海にしか存在しないはずだ」
「僕もそう思っていた。けれど、昨夜、我が家の蔵書を整理していたらこれを見つけてね。……どうだい? もし本物なら、君が今手掛けている『高出力回路の熱暴走』の問題、一気に解決するんじゃないかな?」
セオドリックは、獲物を誘う悪魔のような、しかし無垢な少年のような微笑みを浮かべた。
レイモンドの脳内で、瞬時に演算が走る。
絶縁率800%超えの蒼星石。もしあれがあれば、右腕の負担をさらに軽減できる次世代の魔導衣が作れる。これ以上の戦利品はない。
「……その地図、本物だろうな?」
「さあ、それは僕たちの目で確かめるしかない。……行こうか、僕の誇り高い技術卿。二人きりの、夏の自由研究だ」
セオドリックが差し出した手。
レイモンドは、それが自分を逃げ場のない奈落へ引きずり込む罠である可能性を理解していながら――技術者としての業には勝てず、その手を取って立ち上がった。
この時、レイモンドはまだ気づいていなかった。
セオドリックが、なぜ水着の上にわざわざ「シャツ」を羽織っているのか。
そして、その碧い瞳の奥に、「溺れるような執着」ではなく「溺れることへの余裕」が潜んでいることに。
波の音が、遠い鼓動のように響いている。
崖下の入り口を潜り抜けた先、そこは外界の熱気が嘘のような、ひんやりとした静寂に満ちていた。
「……信じられん。本当に、自生しているのか」
レイモンドは、右手に持った魔導ランタンの光を、洞窟の壁へと這わせた。
湿った岩肌の随所に、星を砕いて散らしたような、鮮烈な「蒼」の結晶が顔を覗かせている。
蒼星石。純度が高いものは、魔導回路の熱を吸収し、完全な絶縁を実現する奇跡の鉱石だ。
「嘘は言わないと約束しただろう? さあ、存分に採取するといい、レイ。君のその、飢えた獣のような目を見るのは嫌いじゃない」
セオドリックは背後で腕を組み、満足げに微笑んでいる。
レイモンドは「……黙れ」と短く毒づきながらも、腰のポーチから精密採取用の小さなピックを取り出した。
この結晶は極めて脆い。周囲の岩を傷つけず、魔力の流れを乱さぬよう、慎重に切り出す必要がある。
カチ、カチ……。
静寂の中に、硬質な金属音が響く。
レイモンドの集中力は、すでにセオドリックという存在すら意識の外へと放り出していた。右腕の痣が微かに疼くが、今はそれさえも心地よいアクセントに過ぎない。
(……これだ。この結晶構造なら、増幅回路のノイズを完全にカットできる。そうすれば、セオドリックのあの暴力的な魔力を、より精密な術式へと変換できるはずだ)
無意識のうちに、その思考の終着点は常に隣の男へと繋がっていく。
セオドリックは、岩に腰を下ろし、熱心に作業を続けるレイモンドの背中を、蕩けるような瞳で見つめていた。
「……ふむ。やはり君は、暗がりの中の方がよく映える。その執念、その孤独な輝き……。誰にも邪魔させたくないと、改めて思うよ」
「……何をごちゃごちゃ言っている。それよりセオドリック、足元に気をつけろ。さっきから水位が――」
言いかけて、レイモンドの手が止まった。
いつの間にか、洞窟の床を洗う水の音が、高くなっている。
ザザァ……、ザザァ……。
冷たい海水が、レイモンドの足首を越え、ふくらはぎのあたりまで達していた。
「……おい。潮が満ちるのが早すぎないか? 計算では、あと一時間は余裕があるはずだ」
「ああ、言い忘れていたけれど、今日は数年に一度の『逆流満潮』の日だったらしい。地元の漁師が、入り口付近の海流が急変すると警告していたよ」
「なっ……なぜそれを先に言わない!!」
レイモンドが跳ねるように振り返った。
すでに、自分たちが通ってきた入り口は、押し寄せた白波によって完全に塞がれようとしている。
「急ぐぞ、セオドリック! 潜って出るしかない。この程度の距離なら、一息で――」
レイモンドは、慌てて採取ツールをしまい、セオドリックの手を引こうとした。
だが、セオドリックは動かない。
彼は水位が腰に迫っているというのに、優雅に髪をかき上げ、困ったように眉を下げて見せた。
「……それがね、レイ。君の素晴らしい計算に、一つだけ、物理的な致命欠陥を加えなければならなくなった」
「物理的な欠陥だと!? 崩落か? それとも結界の罠か!?」
「いいや。――僕、実はカナヅチなんだ。水の中では、ただの豪華な装飾品付きの石像として沈む自信がある」
「……は?」
レイモンドの思考が、一瞬、完全に停止した。
帝国最強の魔導師。戦場では嵐を呼び、学園では太陽として君臨するこの男が、今、何と言った?
「泳げない。浮かない。息の止め方も、あいにく家庭教師からは教わっていないんだ。……どうだい、面白いだろう?」
セオドリックは、満面の笑みで言った。
その瞳には、死への恐怖など微塵もなかった。あるのは、「ならば、君はどうやって僕を救ってくれるのか」という、底知れない、そして残酷なまでの期待だけだった。




