エピローグ.新生の祝祭(後編)
放課後の生徒会執務室。
西日が差し込む室内で、レイモンドは最後の一枚の書類に署名を終えた。ペンを置くと同時に、セオドリックから刺さるような視線を感じる。
セオドリックは先ほどから、一文字も書かずにレイモンドの横顔を、不機嫌そうな瞳で見つめ続けていた。
「……セオドリック。その顔はやめろ。書類仕事が嫌なのは今に始まったことじゃないだろう」
「……仕事のせいじゃないよ、レイ」
セオドリックは、皇帝の黒い蝋封がなされた一通の書状を、指先で乱暴にレイモンドの方へ弾いた。
「僕は君が望んだ通り、兄君にはアシュクロフト『侯爵』としての家督を継がせた。資産も領地も、ベルツから剥ぎ取った分をそのまま返還したよ。……彼らにとっては、身に余る名誉回復だろうね」
レイモンドは書状を手に取り、そこに記された兄の名と、侯爵の称号を確かめた。漆黒の瞳に、温かな安堵が宿る。
「……ありがとう、セオドリック。俺には過ぎた慈悲だ。これでようやく、アシュクロフトの名が……両親が守りたかったものが、歴史に繋ぎ止められた」
「……感謝なんて、聞きたくないね」
セオドリックが、椅子の背もたれを軋ませて立ち上がった。彼はレイモンドの背後に回り込み、逃げ場を塞ぐように両手を机に突く。
「君はいつもそうだ。僕がどれほど無理を言って、君を『公爵』として僕の隣に並ばせようと画策したか分かっているのかい? なのに君は……『自分には分不相応だ、兄に返してくれればそれでいい』なんて、つまらない謙遜で僕の愛を突っぱねた」
「……当たり前だろう。没落した末子の俺が、いきなり公爵なんて。……お前の立場だって危うくなる」
「危うくなる? 誰が。僕の意志に背く奴なんて、この国にはもういないよ」
セオドリックの冷たい指先が、レイモンドの首筋に触れた。そこから指輪を通じて、執着を帯びた魔力が流れ込んでくる。
「公爵位を拒むなら、もう、逃げ道は用意しない。……これを見るがいい」
セオドリックがもう一枚、机の上に叩きつけたのは、先ほどの書状とは毛色の違う『官職任命書』だった。
「『宮廷魔導技術卿』……兼、皇帝守護騎士補佐官? ……おい、これは何だ。業務内容が……お前のスケジュール管理に、共同研究の補佐、それに二十四時間の魔力同期……。これでは、学園での生活と何も変わらないじゃないか」
「変わらない? 違うよ。今までは君の『善意』に甘えていただけだが、これからは帝国の『法律』だ。君が僕の隣を離れることは、今日からこの国の法に背く大逆罪になる」
セオドリックは、レイモンドの肩に深く顔を埋め、独占欲を隠そうともせずに囁いた。
「君が家名よりも僕を選んでいれば、もっと自由を与えられたのに。……残念だよ、レイ。君は自ら、僕の用意した官邸に入ったんだ」
レイモンドは、溜息を漏らしながら目を閉じた。
セオドリックが不機嫌だった理由はこれだ。自分の用意した最高の贈り物(公爵位)を辞退され、結局、実務と権力を無理やり詰め込んだ『側に置くための役職』をひねり出す羽目になったことが、彼には屈辱だったのだろう。
「……自由、か。そんなもの、お前の側にいると決めた時から、とうに捨てているよ」
レイモンドは、己を縛るセオドリックの手に、そっと自身の手を重ねた。
「お前は、少し目を離せば勝手に人の人生を買い取り、国を捨てようとする暴走列車だ。……その手綱を握り続ける責任くらいは、取ってやる。……名誉なことだろう?」
セオドリックが、微かに喉を鳴らして笑った。
その笑い声は、どこまでも傲慢で、しかし愛を確信した幸福な王の響きだった。
*
学園を包んでいた蝉時雨は、夜の帳と共に静まり返り、代わりに涼やかな夜風がテラスを吹き抜けていく。
やり直しの創立記念祭が終わった夜。生徒会執務室のテラスには、二人の影があった。
下界の喧騒は遠く、見上げる夜空には、魔導の灯火さえ届かないほど鮮やかな満天の星が広がっている。
「……セオドリック」
手摺りに寄りかかったレイモンドが、夜空を見上げたまま、静かに口を開いた。
その右指には、セオドリックとの繋がりを示す指輪が、星光を反射して冷たく、しかし確かに熱を持って輝いている。
「一つ、聞いてもいいか。……お前は、どうしてそこまで俺に構う」
それは、セオドリックに出会って以来、ずっと胸に秘めていた問いだった。
自分は没落した家の末子で、根が暗く、愛想も悪い。ただ実務がこなせるだけの影に過ぎない。世の中にはもっと有能な、あるいはもっと光り輝く者がいくらでもいるはずなのに。
「……あの日も、今日もそうだ。お前は俺のために、自分の立場を危うくし、命さえ投げ出そうとする。……そこまでされる価値が、俺にあるとは思えないんだ」
セオドリックは隣に並び、レイモンドが見上げているのと同じ星空を見つめた。
「価値、か。……君はいつも、自分を数式のように計ろうとするね、レイモンド」
セオドリックの脳裏には、かつて二人で過ごした、静かな雨の日の記憶が浮かんでいた。
外の世界では公爵家嫡男として、完璧な光を演じなければならない自分。誰もがその光を崇め、あるいは畏怖して遠巻きにする中で、隣にいるこの男だけは、容赦なく自分の欠点を突き、呆れたように溜息をついてくれた。
「誰もが僕を『光』として、あるいは『力』として見る。けれど、君だけは僕を……ただの、扱いにくい一人の人間として扱ってくれた。君のその不敬な言葉や、皮肉な微笑みを聞くたびに、僕は自分が……一人の人間として、ここに存在していいのだと、呼吸を許されたような気持ちになれるんだ」
セオドリックは、レイモンドの右手を、そっと、重ねるように取った。
「君は僕を孤独から救い、僕は君に居場所を与える。……ずっと前から、決めていたんだ。君が自分を追い詰めすぎて壊れてしまわないように、僕が必ず、君の安らぎを守ってみせるとね。君が影に潜むなら、僕がその影ごと、すべてを照らす光になる」
「……お前、本気で言っているのか」
「本気だよ。……レイ。君には価値がある。少なくとも、僕という王が正気で生きていくために必要な、唯一無二の安らぎとしての価値がね」
レイモンドは絶句し、少しだけ気まずそうに視線を逸らした。
だが、その耳朶は微かに赤く染まっている。セオドリックは、その沈黙を逃がさないように、より深くその手を握りしめた。
「……傲慢な言い草だ。結局、俺はお前を地上に繋ぎ止めるための重石として、一生隣にいなきゃならないわけか」
「ああ。それは僕の権利で、君の義務だ。……逃がさないよ、レイ」
テラスを吹き抜ける風が、二人の髪を揺らす。
レイモンドは、隣に立つ男の圧倒的な熱量と、自分に向けられた一点の曇りもない慈愛を認め、ようやく静かに微笑んだ。
「……ふっ、いいだろう。……お前を人間として繋ぎ止めておけるのは、結局のところ俺くらいしかいないからな」
星々の瞬きの下、二人の影はテラスに長く伸び、重なり合って一つの色を落としていた。
新生アルカディア帝国の歴史は、ここから、この二人によって紡がれていく。
Fin.
これにて完結です。
最後までお読みいただきありがとうございました!
夕凪ゆな




