エピローグ.新生の祝祭(前編)
帝都から遠く離れた、北方の断崖にそびえる特別監獄『アイアン・メイデン』。
そこは、かつて法務大臣ベルツ自身が、法の正義を汚す、救いようのない大逆罪人のために設計し、その構造の隅々に至るまで自らの法哲理を反映させた、冷徹な石の檻であった。
鉄格子の向こうに広がるのは、一年中変わることのない、重く垂れ込めた灰色の空だ。
「……あり得ん。こんなことは、法理的に認められんぞ……!」
独房の硬い寝台の上で、ベルツは震える指先で、眼前に突きつけられた判決文を読み返していた。
彼を断罪したのは、他ならぬ彼自身がかつて起草し、帝国議会を通した『国家転覆予備罪に関する特別措置法』、および『魔導資産不当流用禁止令』であった。
セオドリックを陥れるために用意した魔導回路破壊装置。
レイモンドを脅し、過激派を動かした資金の流れ。
それら全てが、レイモンドが命懸けで転送した『ログ』という名の冷酷な数式によって証明された。
皮肉なことに、ベルツがこれまで完璧な統治のために磨き上げてきた法律の網は、一箇所の綻びを見せた途端、その考案者であるベルツ自身を絡め取り、逃げ場を失わせる迷宮へと変貌したのだ。
「私は……私は、この国の秩序を守ろうとしただけだ! ランカスターのような理外の怪物を野放しにすれば、法という名の理が崩壊する……! アシュクロフトの小僧、貴様……私を売ったな! 私という正義を……!」
叫びは、冷たい石壁に跳ね返り、空虚に消えていく。
かつて彼がレイモンドを追い詰める際に浮かべた、あの歪な笑みはもうどこにもない。そこにあるのは、自らが絶対と信じた論理の裏切りに絶望し、老いさらばえた敗北者の姿だけだった。
一方、帝都の新聞紙上では、連日、『記念祭の真実』が報じられていた。
法務大臣ベルツによる魔導回路破壊未遂と、過激派への資金援助。そして、それらを潜入調査によって暴き出した、副会長レイモンド・アシュクロフトの英雄的献身。
没落したアシュクロフト家に対する皇帝からの名誉回復と遺領返還の勅命が下されたというニュースは、瞬く間に帝国中を駆け巡った。
ベルツ派の貴族たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げ出し、あるいは掌を返してセオドリックへの忠誠を誓い始めている。
ベルツがかつてレイモンドに囁いた言葉。
『この国は、法という迷宮でできている』。
確かにその通りだった。
だが、その迷宮の出口は、もはやベルツには一生見つかることはない。彼は自らが積み上げた条文という名のレンガに囲まれ、その沈黙の中で、ゆっくりと、しかし確実に、歴史の塵へと変わっていくのである。
独房の外では、看守の冷たい足音が響いていた。
ベルツは、最後の一枚となった判決文を握りしめ、灰色の空を仰いだまま、枯れ果てた声を絞り出した。
「……セオドリック、フォン、ランカスター……。貴様は、法さえも……愛に、変えたのか……」
*
学園を包むのは、どこまでも突き抜けるような青空と、暴力的なまでに騒がしい蝉時雨だった。
あの大混乱に陥った記念祭から二週間。レイモンド・アシュクロフトは、かつてないほど重い足取りで、生徒会室の重厚な扉を押し開けた。
「……失礼する。今日から、生徒会に復帰して――」
「遅すぎます、副会長!!」
挨拶が終わるより早く、弾丸のような叫びがレイモンドを貫いた。
反射的に身を強張らせたレイモンドの視界に飛び込んできたのは、机の上にそびえ立つ、文字通り『塔』と化した書類の山。そして、その影から目の下に凄まじい隈を作って現れた、書記のミレイだった。
「……ミレイ。すまない、まだ少し……」
「『すまない』で済むと思ってるんですか!? 副会長が血を吐いて、右腕をあんなボロボロにして担ぎ出されていくのを見た時、私たちがどれだけ……どれだけ、生きた心地がしなかったか!」
ミレイの声が震える。かつて壇上で、裏切り者の汚名を被ったレイモンドを絶望の目で見つめた彼女。その直後の真実と、彼が負った代償の重さに、彼女ら生徒会メンバーは深い悔恨の中にいた。
「もう二度と、あんな真似はさせませんから。見てください、この書類! 記念祭の中止に伴う払い戻し、各部活動への始末書、それに……!」
ミレイは震える指で、部屋の最奥――逆光の中で泰然と座るセオドリックを指差した。
彼は優雅に脚を組み、一冊の古い魔導書をめくっている。だが、その周囲には一通の未処理書類もなく、それどころか彼は、レイモンドが部屋に入ってきたことさえ無視して本に没頭していた。
「会長はさっきから『僕が認める公爵が隣にいないと、ペンが重くて持てない』なんて、わけのわからないことを言って、一文字も書いてくださらないんです! おかげで全部、副会長のデスクに積み上げることになったんですよ!」
「……公爵、だと?」
レイモンドは、セオドリックの背中に漂う、隠しようのない不機嫌なオーラを察知した。
本来、公爵位は王族に連なる者にしか許されない。それを無理やりねじ込み、アシュクロフトを『侯爵』から『公爵』へ引き上げ、自分と対等の座に据えようとしたセオドリック。
それを「兄たちが正当に家名を継げれば、俺はそれでいい」と、実務的な理由で切り捨てられたことへの、あまりにも子供じみた抗議だ。
「……お前、まだそんなことを言っているのか、セオドリック。仕事しろ」
「ああ、やっと来たんだね、レイ。……ミレイがうるさくて困っていたんだ。君がいれば、ようやくこの部屋に静寂が戻る」
セオドリックは顔を上げず、冷ややかに、しかし執着を隠さずに告げた。
「僕の右手は、君の右腕を守るために無理をさせすぎたからね。……まだ、少しだけ感覚が鈍いんだ。……ねえ、そうだろう?」
セオドリックが、自身の右手に隠された『不可視の指輪』に意識を向けた。
その瞬間、レイモンドの右腕に、トクンと熱い拍動が走る。
「――っ!?」
反射的に右手に込めた力が制御を失い、持っていたペンがパキリと音を立てて二つに折れた。バチリと散った小さな火花に、ミレイが「ひゃっ!」と声を上げて飛び退く。
「もう! 副会長ったらどうしちゃったんですか! ほら、予備のペンです。今日はその書類の塔を半分にするまで、帰しませんからね!」
ミレイが膨れっ面で新しいペンを差し出す。そのやり取りは、かつての日常と変わらないはずなのに、今のレイモンドには、右腕を通じて流れてくるセオドリックの魔力が、目に見えない鎖のように感じられた。
「……わかったよ。やる。やればいいんだろう」
レイモンドは予備のペンを受け取り、山積みの書類に向き直った。
背後で、セオドリックが満足げに本を置く気配がした。
裏切り者。英雄。そして、誰よりも面倒な『学園の王者』の半身。
激動の果てに辿り着いたこの騒がしい日常は、あまりにも眩しく、そして逃げ場のないほどに温かかった。




