夕凪の病室
激動の記念祭から数日。
学園の喧騒から切り離された医務室の特別個室には、初夏の穏やかな夕刻の光が、網膜を焼くような橙色で差し込んでいた。
レイモンドは、意識の底から這い上がるような感覚と共に目を開けた。
鼻を突く消毒薬の匂いと、窓の外から聞こえる蝉時雨。重い瞼を持ち上げ、ぼんやりとした視界を巡らせると、枕元の椅子には、いつものように完璧な制服姿のセオドリックが座り、一冊の騎士道物語に目を落としていた。
「……気がついたかい、レイ。……いや、今は『救国の英雄』と呼ぶべきかな?」
セオドリックが本を閉じ、穏やかに微笑む。その碧い瞳には、怒りも困惑もなく、ただ深い慈しみだけが湛えられていた。
(――ああ、俺は、生きているのか)
その顔を見て、レイモンドは心の底から安堵した。
セオドリックは無事だった。たった一人、あの壇上で特務班に囲まれていた友は、今、ここに平然と座っている。
だが同時に、地下で自らの回路を焼き切った際の、魂を削るような激痛が蘇った。
あの時、確かに右腕は炭化し、少なくとも、魔導師としての生命は尽きたはずだ。自分はもう二度と、魔法を使うことはできないだろう。友を守った『空殻』として、歴史の闇に消えるのだと――。
そう思った刹那、レイモンドは、失われたはずの右腕に奇妙な重みを感じた。
怪訝に思って視線を落とすと、そこには厚い包帯に巻かれた、確かに自分のものと分かる右腕が存在していた。
「……は?」
レイモンドは茫然とした。腕がある。神経が通っている。
夢でも見ているのかと、右腕を持ち上げようとしたが、その動きを制するように、セオドリックが静かに言葉を継いだ。
「駄目だよ、レイ。動かしちゃ。その腕は、まだ不完全なんだ」
「……不完全? どういうことだ。……そもそも、どうして腕がある……? それに……俺の回路は、あの時完全に……」
自分の体には、指向性魔導抹殺陣のエネルギーが直撃し、さらに禁忌の代償を支払ったのだ。肉体が残っていることさえ、理論上あり得ないはずだった。
なのに、腕があるどころか、焼き切ったはずの魔導回路まで復活している。
「どうして、だって? 君らしくもない。答えは、君の指にあるよ」
セオドリックが視線で示した先。包帯の隙間から、学園守護の指輪の銀の縁が覗いていた。
「指輪……? どうして、まだ、俺の指に……」
レイモンドの眉が動く。
これは学園の全権を象徴する、世界に一つだけの指輪。本来の持ち主はセオドリックだ。それに、あの地下の爆風と熱量の中で、指輪は腕ごと焼け落ち、奈落へ消えたはずだった。それがなぜ、今もなお自分の指に嵌まっているのか。
「……気づかなかったのかい? あんなに二人で共同開発に没頭していたというのに。……レイ、君に渡したその指輪は、僕が作らせた精巧な偽物だよ」
セオドリックが、自身の右手の薬指を空中で軽く動かした。すると、そこには何もなかったはずの空間から、波紋が広がるようにして『もう一つの指輪』が姿を現した。
セオドリックが不可視魔法で隠し持っていた、本物の学園守護の指輪だ。
「レプリカ、だと……?」
「そう。春の終わり頃だったかな。君の様子が少しずつおかしくなっていた。僕に隠れて何かを嗅ぎ回り、誰かに怯えている……。だから僕は、保険をかけたんだ。本物の指輪から権限だけを一部転移させたレプリカを作り、そこに僕たちの誇りである『不落の城塞』の理論を組み込んだ。……受けた攻撃を吸収し、自身の魔力へと変換する……あの回路だよ」
セオドリックは椅子を引き寄せ、レイモンドを追い詰めるように顔を近づけた。
「そのレプリカに巨大な負荷がかかった瞬間、その負荷の八割を、本物の指輪をはめた僕へと転送されるように調整しておいたんだ。僕は転送されたその莫大なエネルギーを魔力に変換し、君の細胞を死滅から救い、強引に温存した。……この術式を書き込むために、高価な指輪を二十個以上も灰にしたよ」
「……お前、……まさか、自分の魔力回路を予備のバッテリーにしたのか!? もし変換が追いつかなければ、お前の命が……!」
「ははは! 怒るポイントが相変わらずズレているね。……普段通りの君なら、渡された瞬間にレプリカだと気づいたはずだ。でも、君は気づかなかった。余裕をなくし、自分一人で全てを背負おうとするあまり、僕という存在を正しく視ることができなくなっていた。……僕はそれが悲しかったし、……少しだけ、腹も立ったんだ」
セオドリックは、レイモンドの包帯が巻かれた右手を、壊れ物を扱うように両手で包み込んだ。その手のひらから、暴力的なほどに純粋な魔力が流れ込んでくる。
「……それにね、レイ。残念だけど、君の言う通り……例え細胞が残っても、魔法を紡ぐための『回路』は二度と戻らない。……だから、僕は僕の回路を、君の右腕に直接繋いだ。……その指輪は、もうただの魔道具じゃない。僕と君を結ぶ、共有の血管だよ。……文字通り、君はもう僕なしでは魔法さえ使えない身体になったんだ。僕が供給を止めれば、その腕はまた動かなくなる。……悲しいことだ」
セオドリックの碧い瞳には、底知れない執着と独占欲が渦巻いている。
レイモンドは、自分自身の甘さを恥じた。セオドリックを救ったつもりでいたが、実際にはその掌の上で転がされ、救われ、そして永遠に逃れられない檻へと閉じ込められたのだ。
「……ねえ、レイ。どうして僕に相談しなかったんだい? ベルツの脅迫も、泥を被る決意も。それに……あの禁忌術式。……僕を信じていなかったのかい?」
セオドリックの問いは、静かだった。だが、その言葉は鋭い刃のように、レイモンドの傷口を正確に抉った。
「……信じていなかったわけじゃない。寧ろ、逆だ。お前に言えば、きっと解決してくれる。でもそれは、お前の犠牲の上に成り立つものだろう。……俺は、お前にも、お前の家名にも泥を塗りたくなかった。アシュクロフトの俺なら、汚れ役はいくらでも代われる。……だから」
「泥? 家名? 君はまだそんなつまらないものを気にしていたのか」
セオドリックは、レイモンドの顎を指先で掬い上げ、拒絶を許さない力でこちらに向けさせた。
「君を守るためなら、僕は家ごと国を捨てたのに。……君という精密な制御装置がなければ、僕の力はただの破壊の嵐だ。……ねえ、レイモンド。君を僕の隣から離さないためなら、僕は喜んで『悪の王』にだってなるさ。それが僕の生きる意味なのだから。……もう、どこへも逃がさない。君の寿命も、魔力も、その焼き切れた未来も、すべて僕が買い取った。……拒否権はないよ」
「……っ、……お前は、本当に……傲慢な男だ。……勝手に、人の人生まで買い取りやがって……」
毒づきながらも、レイモンドは目元を覆うようにして、セオドリックの胸へと顔を埋めた。
二度と光の中へは戻れないと思っていた。だが、この傲慢な友人は、光も闇もひっくるめて、自分という存在を丸ごと飲み込んでしまったのだ。
夕闇が迫る室内で、二人の魔力は指輪を通じて静かに、深く混ざり合っていく。
それは契約よりも重い、呪いのような、しかしこの世界で最も確かな救済だった。




