嵐の前夜
記念祭を翌日に控えた夜。帝都を激しい雷雨が襲っていた。
生徒会室の窓を叩く雨音は、まるで巨大な獣の咆哮のようだ。窓硝子が震えるたびに、不気味な稲光が、壁にレイモンドの影を浮かび上がらせる。
レイモンドは、自らのデスクで最後の『点検』を行っていた。
彼の脳内には、明日のスケジュールが冷徹な魔導演算のように展開されている。
(――午前十時、記念祭開幕のスピーチ。セオドリックが登壇すると同時に、第三結界塔に仕込んだバイパス回路を遠隔起動する。警備魔導師たちの網を一時的に休眠させ、ベルツの私兵を不審者排除の名目で壇上へ。……そして俺は、ベルツにすべての罪状を差し出し、セオドリックを『被害者』として切り離す。そして地下に仕掛けてある端末から、ベルツ腐敗の証拠映像を転送する。ベルツの抵抗に備えて、念の為あの術式も用意せねば)
数式にミスはない。隠蔽コードも完璧だ。
あとは、その時を待つだけ。
右手の薬指に嵌まった学園守護の指輪――その効力を押さえるために繰り返した隠蔽ジャミングの代償――による痣の疼きとも、明日でおさらばだ。
思考を止めれば、かつての記憶が雨音に混じって溢れ出しそうになる。それを、レイモンドは必死に押し殺していた。
暗闇の古文書室で、琥珀色の灯火を分かち合った安らぎ。
街でベニエを頬張り、世間知らずなセオドリックの世話を焼いた、あのもどかしくも愛おしい午後。
地下礼拝堂で『悪魔』に魅入られ、逃げ場を失った絶望さえも、今の孤独に比べればどれほど幸福だったことか。
――その時、重厚な扉が開く音が、雷鳴の合間に低く響いた。
「――レイ。まだ仕事を続けているのかい?」
廊下の明かりを背負って入ってきたのは、セオドリックだった。
彼は迷いのない足取りで近づくと、レイモンドの肩にそっと手を置く。その長い指先の熱が、制服を透かして、レイモンドの肌を焼いた。
「……明日が本番だ。完璧を期したいだけだ」
レイモンドは顔を上げず、努めて淡々と答えた。
だがセオドリックは、逃がさないと言わんばかりの強さで、レイモンドの右手を机の上から引き寄せた。
袖口が滑り、醜い痣が白日の下に晒される。
「……この痣、まだ治っていないのかい?」
セオドリックの碧い瞳が、レイモンドを射抜く。
「……気づいて、いたのか」
「もちろん。君の変化に、僕が気づかないはずがないだろう?」
セオドリックは、咎めるどころか、ひどく穏やかに微笑む。
「君が言いたくないようだったから、今日まで黙っていただけさ。……だって僕は、君を信じているからね」
それは、最悪の誤解であり、最高の信頼だった。
セオドリックにとって、この裏切りの代償である痣さえも、「自分を支えるために無理をした誇り高い傷」に見えているのだろう。
「セオドリック……。もしも……もしも明日、何かが起きて、お前がその理想とする光をすべて失うようなことがあっても……お前は、お前自身を信じられるか?」
レイモンドは、激しい自己嫌悪を押し殺し、最後の『警告』を投げかけた。
セオドリックは、レイモンドの痣がある手首にそっと唇を寄せると、慈しむように囁く。
「いいや。僕は自分なんて信じていないよ。……僕は、僕の理想を実現しようとする『君』を信じているんだ。だから、もし世界が僕を拒んでも、隣に君さえいれば、そこが僕の新しい王国になる」
セオドリックは、レイモンドの薬指にある指輪を、そっと撫でた。
「君がこの指輪を嵌めている限り、僕たちは一つだ。……さあ、もうお休み、僕の誇り高い守護者。明日、最高の景色を君に見せよう」
セオドリックが部屋を去り、再び静寂が訪れる。
一人残された執務室で、レイモンドはデスクに置かれた一枚の名簿を、指が白くなるほどに握りしめた。
そこには、明日『反逆者』として拘束されるべきリストの筆頭に、自らの名が記されていた。
窓の外で、一際大きな雷鳴が轟いた。
青白い閃光が、レイモンドの頬を伝う一筋の雫を、一瞬だけ白く光らせる。
「……ああ、お前は本当に、救いようのない馬鹿だな。――セオドリック」
崩れ落ちるように名簿に顔を埋め、レイモンドは独り、訪れるはずのない夜明けを待った。




