独りよがりの確信
記念祭まで、あと三日。
学園内は、最高潮に達した祝祭の熱気に浮かれていた。
廊下には色とりどりの旗が掲げられ、模擬店の設営に励む生徒たちの笑い声が、分厚い石壁を抜けて生徒会執務室にまで届いている。
だが、レイモンドの心は、その喧騒から遠く切り離されていた。
数日前の深夜、セオドリックが戯れに放った言葉が、呪いのように脳裏に刻みついて離れない。
――『君なら、僕を裏切る悪役をどんな風に演じるかな?』
セオドリックの無邪気な笑顔を思い出すたび、胃の奥が焼けるような不快感に襲われる。
「……あの、副会長。お手隙の際にお聞きしたいことが」
そんなとき、控えめに声をかけてきたのは書記のミレイだった。
彼女の手には、『防衛結界・魔導核の出力ログ』が握られている。
「……なんだ。今は手が離せない。そこに置いておけ」
レイモンドは顔も上げず、冷淡に突き放す。だが、ミレイは珍しく引き下がらなかった。
「……このログ、北西の第三結界塔だけ、一昨晩からバイパス回路への魔力漏れが起きています。副会長が昨日、メンテナンスに入られた場所です。……何かの間違いだとは思うのですが、このままでは祭典当日に……」
レイモンドのペン先が、紙面の上でピタリと止まった。
心臓が、警鐘を乱打するように跳ねる。
ベルツの工作員を手引きするために施した、極めて微細な回路のバイパス。専門の魔導師でも見落とすはずのその「綻び」を、目の前の少女は自力で見つけ出したのだ。
(……くそ。彼女の練度が、俺の想定を超えていたというのか)
激しい焦燥が背中を走る。だが、レイモンドはゆっくりと椅子を回し、凍りつくような穏やかさを顔に貼り付けた。
「……確かに、その通りだ。よく気づいたな」
「え……?」
叱責を覚悟していたミレイの顔に、驚きが広がる。
「……あそこは旧式でな。出力安定のためにあえてマージンを設けていたのだが、確かに微調整が必要な数値だ。……俺のミスだ。今すぐ、直接確認して修正してくる」
レイモンドは立ち上がり、ミレイの手から無造作にログを奪い取った。
「お前たちは他の実務を優先しろ。……ミレイ、君の今の洞察は、高く評価する」
「あ……はい! ありがとうございます、副会長!」
ミレイたちの誇らしげな笑顔を背に、レイモンドは執務室を飛び出した。
一歩外へ出れば、廊下は機材を運ぶ生徒や飾り付けに奔走する役員たちで溢れかえっている。レイモンドは、彼らの間を縫うように進んだ。
(……まさか、ミレイに気づかれるとは。他の塔は大丈夫か? 隠蔽コードを書き直さなければ……いや、その前にベルツ側に報告を……)
頭の中で最悪のシナリオが渦を巻く。急ぎ足で北西の第三結界塔へと続く渡り廊下を突き進む。
だが、人気のない廊下を曲がろうとした瞬間、不意に、半年前の冬の記憶がフラッシュバックした。
セオドリックから七日間の休養を言い渡され、生徒会を不在にした数日間。
学園は、生徒会は、何一つ滞ることなく回り続けていた。
「――ハッ」
乾いた声が、静かな廊下に虚しく響く。
自分が「俺にしかできない」と思い込んでいた実務のすべてが、実はもう、彼女たちの手で代行可能になっている。
(……俺は、もう、必要ない)
セオドリックの隣に立ち続ける唯一の資格――圧倒的な『有能さ』。それが今、自分の手から砂のように零れ落ちていく感覚。
自分が消えても、セオドリックの掲げる「光の王国」は、ミレイたち有能な部下の手で守られ、完成されていくのだ。そこに、自分という名の汚点は、もういらない。
思考が深い闇に沈み、世界の色彩が失われていく――その時だった。
「あっ、危ない――っ!」
激しい衝撃が走り、視界が揺れた。角から飛び出してきた女子生徒と激突し、彼女が抱えていた看板が派手な音を立てて床に散らばる。
「……っ、すまない」
レイモンドは反射的に手を差し伸べようとした。だが、相手の女子生徒は彼の手を取るどころか、悲鳴に近い息を漏らして身をすくめた。
「……ひっ」
彼女の瞳に映っているのは、優雅な副会長などではなかった。それは、蒼白な顔で亡霊のような眼差しをした、一人の男の成れ果てだった。
「ふ、副会長……? あの、大丈夫ですか? その……すごい顔をしていて……」
差し伸べた右手の痣が、陽光の下で醜く晒された。
彼女の怯えるような視線がその傷跡に触れた瞬間、レイモンドは自分の正体が暴かれたような恐怖に襲われ、咄嗟に手を引っ込めた。
「……何でもない」
謝罪もそこそこに、這うようにしてその場を逃げ出した。
辿り着いた北西の結界塔。重厚な鉄の扉が魔力認証を経て開き、彼を迎え入れる。扉が閉まった瞬間、祝祭の喧騒は遮断され、墓所のような静寂が訪れた。
刹那――レイモンドは、冷たい壁に背を預けて崩れ落ちた。
「……ハハ。そうか。そうだ、その通りだ」
乾いた笑いが漏れる。
ミレイはミスを見抜き、生徒たちは自分がいなくても祭典を楽しんでいる。そして自分は、もう無垢な生徒を怯えさせるだけの「異物」でしかない。
「……ならば」
レイモンドは、右手の痺れる指先で、ログを強く握りしめた。痣の痛みが、今の自分と闇を繋ぐ唯一の証のように思えた。
「……俺に残された『俺にしかできない仕事』は、もうこれだけか」
愛する者たちの完成を確信したからこそ、彼は独り、奈落への階段を降りる決意を固めた。
その背中を、夕刻の長い影が冷たく飲み込んでいく。
――これでいい。
――彼らが、セオドリックが……俺のいない光の中でも生きていけるのなら、俺は安心して地獄へ行ける。
歪んだ安堵を胸に、レイモンドは再び歩き出した。
その足取りには、もはや迷いも、救いへの期待も残されてはいなかった。




