二人の主人
深夜の密会から数日。六月の終わりが近づき、記念祭を目前に控えた生徒会執務室は、戦場のような忙しさに包まれていた。
「……副会長、差し入れです。これ、実家の領地で採れたハーブティーなんです。集中力が増すって評判で」
書記のミレイが、湯気の立つカップをレイモンドのデスクに置いた。
彼女の背後では、他の役員たちも「副会長、このクッキーもどうぞ」「少しは休んでください、当日倒れられたら困りますから」と、口々に声をかけてくる。
かつては没落貴族として遠巻きにされていたレイモンドを、今や彼らは、厳格だが信頼できるリーダーとして心から慕っている。
彼らの瞳にあるのは、セオドリックが作る新しい時代への希望と、それを支える自分たちへの誇りだ。
「……仕事に戻れ。浮ついている暇があるなら、配置図をもう一度見直せ」
レイモンドは視線を落としたまま、冷淡に突き放した。
だが、差し出されたハーブティーの温かさが、指先の紫色の痣をじんわりと疼かせる。
――お前たちが慕うこの場所を、当日に混乱の渦に突き落とすのは、俺だ。
セオドリックを救うため、彼が愛し、彼を愛する者たちの心を傷つける。自分が守ろうとしている日常を、自らの嘘で汚し続けている矛盾に、胸の奥で鋭い痛みが走った。
「……副会長?」
ミレイが心配そうに覗き込んでくる。
レイモンドはその無垢な善意に耐えきれず、一口だけ茶を啜り、無理やり仮面を締め直した。
「……悪くない味だ。だが、次はもう少し温度に気を配れ。……もう戻れ、時間が惜しい」
その言葉に、ミレイたちは「はい!」と嬉しそうに顔を輝かせて去っていく。その背中を見送るレイモンドの瞳には、戻ることのできない断崖に立つ男の、深い孤独が宿っていた。
――そして。学園を深い霧が包み込んだ朝。
ラプラス魔導アカデミーの正門前に、漆黒の馬車が音もなく停まった。
扉に刻まれているのは、双頭の蛇の紋章。帝国の法を司る男、ボリス・フォン・ベルツ公の象徴だ。
「……お迎えにあがりました、ベルツ閣下」
正門で出迎えたのは、セオドリックと、その隣に控えるレイモンドだった。
霧の向こうから、ゆっくりと馬車の扉が開く。
「おお、これはランカスター家の麒麟児。……それと、アシュクロフト家の生き残りか」
降り立ったベルツは、冷徹な法官そのものの眼差しでセオドリックと握手を交わした。
その瞳の奥には、かつてレイモンドの父を政争の泥に沈めた時と同じ、湿った愉悦が揺らめいている。
ベルツの視線が、次にレイモンドへと移る。その冷酷な質量に、レイモンドは背筋が凍るのを感じながらも、微塵も表情を動かさなかった。
「……変わりないようだな、副会長。学園の『防衛』は、万全か?」
それは視察官としての言葉でありながら、明確な確認だった。
数日前の深夜、地下保管庫で手渡した仕様書。あれが正しく実行され、学園の喉元に刃を添えられるのか、と。
「……ええ。閣下。一切の死角はありません。記念祭当日は、この学園が帝国の誇りであることを……身をもって証明できるでしょう」
レイモンドは深く頭を下げた。自分の声が、毒のように霧の中に溶けていく。
その横で、セオドリックが不敵に、そしてあまりにも優雅に微笑んだ。
「ええ、その通りです、ベルツ閣下。僕の副会長は、世界で一番有能ですから。……たとえ彼が何を企んでいたとしても、僕はそれを『最高の結果』に変えてみせる自信がありますよ」
セオドリックの言葉に、一瞬だけベルツの眉が動いた。
霧の中で、三人の視線が音もなく火花を散らす。
セオドリックの「信頼」という名の拘束。ベルツの「脅迫」という名の支配。
二人の主人の間で、レイモンドは震える指先を隠し、ただ一人、破滅へと続く祝祭を待つのだった。




