学園守護の指輪
六月も半ばを過ぎる頃、降り続いていた雨は上がり、学園には初夏の陽気が満ち始めていた。
だが、レイモンドの日常は、欺瞞という名の薄氷の上を歩む日々へと変貌していた。
記念祭の準備に追われる学園内。
「副会長、この出展ブースの魔導配線、チェックをお願いします」
「アシュクロフト君、記念祭当日の警備魔導師たちの配置、君の案で最終決定として良いかね?」
行き交う生徒たちの信頼に満ちた声、教師たちの期待を込めた眼差し。それらを受け止めるたび、レイモンドの胃の奥にはどろりとした泥のような罪悪感が溜まっていった。
彼は事務処理の合間を縫って、学園に設営業者として出入りするベルツの手駒たちへ、結界の脆弱なポイントを記したメモを渡し、ログを改竄し続けた。夜、図書室の隅でベルツからの新たな指令書を灰に変えながら、レイモンドは鏡に映る自分を見るのを避けた。
自分の演算能力は、今や愛する学園を売り、セオドリックの理想を汚すためだけに消費されている。
そして、記念祭を三週間後に控えた、ある静かな夜のことだった。
学園は深い静寂に包まれ、冷たい月光が回廊の床を青白く照らしている。
生徒会執務室の窓際。セオドリックは、月を背にして立っていた。金色の髪が銀色の光を吸い込み、その姿は神話に語られる騎士のようにも、あるいは生贄を待つ怪物のようにも見えた。
「――レイ。最近、君は少し無理をしているね」
セオドリックが、穏やかに口を開いた。
レイモンドは書類を整理する手を止めず、冷淡に返す。
「……いつものことだ。お前のわがままを形にするには、これくらいの労働が必要なだけだ」
「ははは、相変わらずだ。……だが、そんな君だからこそ、僕はすべてを預けられる」
セオドリックが、ゆっくりと歩み寄ってきた。
彼は自分の右手を差し出す。そこには、銀碧の学園守護の指輪があった。
「レイ。これを、君に持っていてほしいんだ」
「……どういう意味だ」
レイモンドの声が、微かに震える。
セオドリックは、自らの左手でその指輪を――自らの体温と魔力を帯びたままのそれを――ゆっくりと引き抜いた。
セオドリックの指から外された指輪は、一瞬、頼りなげに月の光を反射する。
「記念祭の当日、僕は演壇に立ち、帝国の新時代を宣言する。その時、僕は無防備になる。……だから、僕の命であるこの学園の門を、君に守っていてほしいんだ。君以外の誰にも、僕の背後を預けることはできない」
セオドリックは、拒絶を許さぬ力でレイモンドの右手を掴んだ。
その薬指に、自分の指から抜いたばかりの、まだ熱い指輪を押し込む。
「……セオドリック。お前、おかしいぞ。……俺は、アシュクロフトだ。没落した俺に、こんな指輪――。俺に背後を狙われる可能性は考えないのか」
「君が僕の背後を狙う? ははっ、また面白い冗談だ! ああ、だがそれも悪くない。君の手で死ねるなら本望だ。……でも、君はそんなことはしない。誰よりも高潔で、不器用な僕の守護者。……だからね、レイ。そんな冗談を言って、自分を傷付けるのはやめるんだ」
指輪が嵌められた瞬間。
レイモンドの意識を、暴力的なまでの魔力の奔流が突き抜けた。指輪を通じて学園の巨大な魔導回路と精神が強制的に同期される。
本来なら技術者として恍惚を感じるはずのその全能感は、今のレイモンドには拷問でしかなかった。
重い。
物理的な重量以上に、指輪に込められたセオドリックの執着が、レイモンドの神経を焼き、魂を縛り上げる。
「……あ、あ。……わかった。預かっておく」
レイモンドは、指輪の感触を確かめるように拳を握りしめた。
脳裏には、ベルツ公の冷酷な言葉が蘇る。
『指輪の所有権が移る瞬間、認証が揺らぐ。その隙を突け』
レイモンドが指輪を預かるという事実は、ベルツにとって「学園の全権が手に入った」に等しい。
「ありがとう。……さあ、少し休憩しよう。今日はミレイが、君の好きなビターチョコレートのベニエを用意してくれたんだ」
セオドリックは満足げに椅子に座り、何も知らない幸福な子供のように微笑んだ。
レイモンドは、その笑顔から逃げるように、視線を窓外の暗闇へと投げた。
指輪が、脈打つように熱い。
彼は今、取り返しのつかない、裏切り者としての力を手に入れてしまったのだ。




