最初の嘘
六月の雨は、低く垂れ込めた雲から絶え間なく降り注ぎ、白亜の学園を灰色に塗り潰していた。
分厚い石壁に遮られた生徒会執務室の中には、暖炉の薪が爆ぜるかすかな音と、時計の針が時を刻む規則的な音だけが響いている。
本来なら、レイモンドにとって最も集中できるはずの静寂。だが、今の彼にはその一秒一秒が、処刑台への階段を上る足音のように聞こえていた。
レイモンドは、デスクに広げた『記念祭・結界防衛配置図』を凝視していた。
一週間前、あの漆黒の封書を受け取ってから、彼の眠りは浅い。瞼を閉じれば、ベルツ公の冷酷な瞳と、泥に塗れた父の遺影が、暗い海の底から彼を呼び戻すのだ。
「――レイ。そこ、三箇所ほど術式のバイパスを書き換えたね? 魔導騎士団の直通回線を外して、学生ボランティア用の低出力ラインに接続し直しているようだけど」
背後から、一切の淀みのない、穏やかな声が響いた。
レイモンドの背筋に、氷の刃でなぞられたような戦慄が走る。彼はペンを握る指に力を込め、表情を殺したまま、ゆっくりと振り返った。
「……よく気づいたな。当日は一般客の往来が激しい。騎士団の強力な魔力波形は、精密な魔導展示に干渉する恐れがある。ボランティアのラインを経由させることで、出力を平準化させるのが狙いだ。……何か、不服か?」
それは、致命的な技術的虚偽だった。
外された三箇所は、過激派……いや、ベルツの手駒が、結界の警報を鳴らさずに内部へ侵入するための『盲点』だ。
自らが心血を注いで構築した完璧な防衛網に、自らの手で穴を開ける。その屈辱に、吐き気がした。
「いいや、問題ないよ。君が言うなら、それが最善なんだろう。……ただ、少し意外だっただけさ。君はいつだって、効率を優先するリアリストだと思っていたからね」
セオドリックは、ティーカップを置いてレイモンドの側に歩み寄った。
雨の湿り気が、セオドリックの纏う高貴な香りを引き立てる。彼はデスクに両手をつき、逃げ場を塞ぐようにして、レイモンドの顔を覗き込んだ。
「顔色が悪いね。……寒いのかい、レイ」
言うが早いか、セオドリックはレイモンドの冷え切った左手を、自らの両手で包み込んだ。
セオドリックの体温。そして、彼の指に嵌まった学園守護の指輪から流れ込む、拍動のような魔力の波。
それはかつて、二人が防衛魔導具を共同開発した際、レイモンドが心地よいと感じた、あの信頼の熱と同じだった。
「……っ、やめろ。仕事の邪魔だ」
「嫌だね。君は自分の限界を計算に入れるのが、驚くほど下手だから。……レイ。何か困っていることがあるなら、いつでも言ってくれ。君の苦悩は、僕の苦悩だ。僕がこの指輪を預かっているのは、この学園を守るため……そして、君のような大切な人間を、僕の目の届く場所に留めておくためでもあるんだから」
セオドリックの瞳は、どこまでも澄んでいる。
その全幅の信頼という光が、今は何よりも恐ろしかった。
彼は、レイモンドが自分を裏切るなどという可能性を、微塵も、一分一秒も考慮していない。
レイモンドは強引に手を引き抜き、視線を虚空へ投げた。
内ポケットには、ベルツ公への承諾を記した返信が、数日前から入ったまま――それが、罪悪感を強める。
「……心配するな、セオドリック。俺は、俺のなすべきことをしているだけだ」
――お前を救うために、お前の理想を汚す。
レイモンドは心の中で、その言葉を飲み込んだ。




