偽りの身分と、本物の好奇心
学園の正門から少し離れた、古びた守衛小屋の陰。
待ち合わせ場所に現れたその男を見て、レイモンド・アシュクロフトは、持っていた調査資料で自分の顔を覆いたくなった。
「……おい。その格好は何だ。正気か?」
「やあ、レイ。……どうかな? これならどこから見ても、ただの『セオ』だろう?」
そこにいたのは、いつもの隙のない正装を脱ぎ捨てた、セオドリック・フォン・ランカスターだった。
陽光を浴びて輝く金髪はわざと無造作に乱され、着ているのは、仕立てこそ良いが装飾を排した麻のシャツに、使い込まれた風合いの革のベスト。首元には、公爵家の紋章ではなく、街で売られているようなありふれたタイが結ばれている。
セオドリック・フォン・ランカスター。帝国中枢を担う公爵家の嫡男であり、次期宰相の座すら約束された、学園の太陽だ。
一方、それに対峙するレイモンドは、没落貴族の生き残りとして特待生の地位に噛みついているだけの、影のような存在に過ぎない。
本来なら交わるはずのない二人だったが、一年前の春、セオドリックが「君が必要だ」と一方的にレイモンドを生徒会副会長の椅子へ引きずり込んで以来、この奇妙な関係は続いていた。
「不気味だ。お前が普通を装うほど、その内側にある異常な魔力量と権力が浮いて見える」
レイモンドは、漆黒の瞳に嫌悪感を滲ませて毒づいた。
重く湿った夜を溶かしたような黒髪が、冬の終わりの風に揺れる。
彼はセオドリックの無茶ぶりを現実に繋ぎ止めるため、日々、膨大な実務と彼の独創的な理想の板挟みになっていた。今日の隠密調査という名目の街歩きも、その延長線上にある。
「ひどいな。僕は今日、君という最高のガイドを得て、一人の市民として世界を学びたいだけだよ」
セオドリックはそう言って、レイモンドの制服の袖を遠慮なく掴んだ。
没落し、何もかもを失った影と、帝国の未来を背負う光。
不平等な契約で結ばれた二人は、活気に満ちた学術街ヴィニョーラへと足を踏み出した。
学術街ヴィニョーラ。そこは、最新の魔導技術と、泥臭い庶民の活気が奇妙に混ざり合う街。
石畳の両脇には、焼きたてのパンやスパイスの香りを漂わせる屋台が並び、号外を配る少年の叫び声が響き渡っている。
「レイ! 見てくれ、あの機械を。……あれは、蒸気で自動的に果実を絞る装置かい? 非常に非効率で、実に愛らしい動きだ!」
「……放っておけ。ただのジュース屋だ。いちいち立ち止まるな」
レイモンドは、自分の服の裾をぎゅっと掴んで離さないセオドリックを、半ば引きずるようにして歩いた。
帝国の法律や経済理論を完璧に修めているはずの天才が、たった一枚の硬貨で買える娯楽に、幼子のような好奇心を注いでいる。その姿は、レイモンドにはひどく危ういものに見えた。
「おい、セオ! そっちは馬車道だと言っているだろう。……こっちに来い、この馬鹿!」
危うく荷馬車と接触しそうになったセオドリックの腕を、レイモンドは強引に引き寄せた。
掴んだ腕は、見た目よりも逞しく、それでいて驚くほど無防備に、レイモンドの導きに身を任せている。
没落し、独りで生きる術を身につけてきたレイモンドにとって、この男の無防備さはほとんど罪悪に近い。
「おっと……すまない、レイ。君が隣にいてくれると思うと、つい周囲への警戒を忘れてしまうね」
「……お前の理性とやらは、正門を出た瞬間に消滅したのか? 調査はどうした、調査は。不審な魔導波動を探しに来たんだろうが」
「もちろん、忘れていないよ。ただ、この街の空気そのものが、魔導素子の揺らぎ以上に僕を刺激するんだ。……あ、レイ、あそこにあるのは何だい? 最新式の魔導写真機じゃないか!」
セオドリックが指差した先には、木製の大きな暗箱を構えた、街のカメラマンがいた。
家族連れや恋人たちが、照れくさそうにレンズの前で足を止めている。セオドリックは、その「一瞬を切り取って銀塩板に定着させる」光景を、何かに打たれたように凝視していた。
「……ふん。あんなもの、今や珍しくもないだろう。没落した俺の家でさえ、十年前のモデルがあった」
レイモンドが瞳に寂寥を滲ませ、呟くと、セオドリックは、じっとレンズを見つめたまま、静かな声で言った。
「一瞬を、永遠にする……か。……素晴らしい技術だね、レイ。僕たちの『今』も、あんな風に形に残せたら、どんなにいいだろう」
「……言ってろ。さあ、行くぞ。これ以上お前の道草に付き合わされるのは御免だ」
レイモンドは、握っていたセオドリックの腕を離さず、むしろその力を強めて、人混みの奥へと歩を進めた。
背後でセオドリックが、どこか満足げに笑った気配がした。
この男は、自分がいなければ一歩もまともに歩けない。
レイモンドの中に芽生えた自負は、彼自身がセオドリックという巨大な光の檻に、自ら足を踏み入れている事実を巧みに隠していた。
ヴィニョーラ中央広場。巨大な噴水の音だけが響くベンチに、二人は腰を下ろしていた。
歩き詰めだったセオドリックは、まるで大仕事を終えた騎士のように、深く背もたれに体を預けている。その膝の上には、先ほど調査のついでという名目で購入した、庶民的な揚げ菓子・ベニエの包みが置かれていた。
「……はあ。驚いたな。街を歩くことが、これほどまでに体力を使うものだとは」
「当然だ。お前はいつも、ふかふかの馬車か、赤絨毯の上しか歩かないんだろう。……ほら、顔に粉がついてるぞ。次期宰相がそんな面を晒すな」
レイモンドは呆れ果てたように吐き捨て、懐から取り出した布で、セオドリックの頬を無造作に拭った。
普通の貴族なら不敬だと激昂するような行為だ。だが、セオドリックは避けるどころか、心地よさそうに目を細めて、レイモンドの乱暴な手つきを受け入れている。
「……君は、優しいね、レイ」
「……嫌味なら他で言え」
「嫌味なものか。……みんな、僕のことを『ランカスターの至宝』だとか、『完璧な後継者』としてしか見ない。僕が道端で転びそうになっても、彼らは僕を助ける前に、完璧な僕が失態を犯したことに絶望するだろう」
セオドリックは、噴水の水面に反射する光を見つめながら、独り言のように続けた。
その声には、学園で見せるような王者の威厳はなく、どこか寄る辺ない少年の震えが混じっている。
「でも、君だけは違う。……君は僕を『馬鹿』だと罵り、手を引いて、汚れを拭ってくれる。君の隣にいる時だけ、僕は……ただのセオドリックでいられる気がするんだ」
レイモンドは、拭っていた手を止め、隣の男を凝視した。
陽光を浴びる金髪。碧い瞳に宿る、隠しようのない孤独と信頼。
この男は、あまりにも眩しすぎて、同時にあまりにも脆い。
自分がこの手を離せば、こいつはまた、あの「完璧という名の檻」へと戻り、国の重圧に潰されるのを待つだけになるのだろう。
没落し、地這うような現実を知る自分だけが、この浮世離れした天才を繋ぎ止めておけるのだ。
「……ふん。お前がただの馬鹿なら、俺もこれほど苦労はしない。……せいぜい、俺の目の届く範囲でだけ、その情けない顔をしていろ」
レイモンドは、突き放すような言葉とは裏腹に、そっとセオドリックの肩を叩いた。
セオドリックは驚いたように目を見開き、それから、これまでで見せたどんな微笑よりも穏やかに笑った。
「ああ。……そうするよ、レイ。君だけは、僕を離さないでいてくれるんだね」
夕暮れの気配が広場に忍び寄る。
影が長く伸び、二人の境界線を曖昧に塗りつぶしていく。
レイモンドはまだ気づいていなかった。この一時の許しが、セオドリックの中にある執着の種に、どれほど猛烈な栄養を与えてしまったのかを。




