親愛なるレイモンド
「会長、先日の演説、素晴らしかったです!」
「模擬戦も本当にかっこよくて――ぜひ僕らにご指導を!」
「会長!」
「生徒会長!」
王立ラプラス魔導アカデミーの朝、生徒会室の前の廊下は、セオドリックを呼ぶ声で溢れかえっていた。
次期宰相と呼び声高いランカスター公爵家の嫡男であり、学園の生徒会長、セオドリック・フォン・ランカスター。
陽光に透き通る金髪に、海より深い碧眼の瞳。すらりとした長身を包む深紺の制服が、彼の気品を際立たせている。
彼は呼び止められる度、一人ひとりの目を見て、完璧な微笑みを返していく。
「ありがとう、光栄だ」
「君は確か、魔法剣術部のエリックだね。今度必ず寄らせてもらうよ」
それは彼にとって苦労でも何でもなかった。支配者の名に相応しく、学園というこの大きな家族が円滑に回るための太陽として振る舞うこと。それが自身に与えられた正義だと、一点の疑いもなく信じていたからだ。
けれど、そんな彼の「光」が届かない場所が、生徒会室の奥にあった。
「……セオドリック。また入り口で捕まっていたのか。時間の無駄だ。早く座れ」
顔も上げずに飛んでくる冷淡な声。
重く湿った夜を溶かしたような、艶のない黒髪。そして、光の一切を吸い込み、思考の深淵を隠し通す漆黒の瞳。
書類の山に身を潜めるその影こそが、副会長のレイモンド・アシュクロフトだ。
没落したアシュクロフト家の末子。周囲は彼を『幽霊副会長』と呼んで距離を置くが、セオドリックにとってのレイモンドは、この学園内で唯一自分を肩書きのない個人として扱う、無二の人間だった。
「おはよう、レイ。今日も早いね」
「お前が遅すぎるんだ。これ、午後の議題の要点だ。目を通しておけ」
差し出された書類を覗き込み、セオドリックは内心で舌を巻いた。
自分が三時間かけても解けなかった問題の解決策が、たった数行の魔法数式で鮮やかにまとめられている。
「流石だよ、レイ」
「お前も、これぐらいは解けるようにしておけ」
「うーん、それはちょっと難しいかもなぁ」
レイモンドは目立つのを徹底的に嫌い、壇上に上がることも頑なに拒み続けている。
けれど、セオドリックは知っているのだ。自分が掲げる理想の下で、誰よりも泥を被り、実務に血を通わせているのは、この無愛想な男なのだということを。
だからこそ、セオドリックは決めていた。
来週のレイモンドの誕生日は、絶対に祝わなければならない、と。
もちろん、大々的なパーティーは、彼にとって忌むべき行為であることは理解している。
セオドリックが「レイモンドを祝おう!」と一言でも口にすれば、学園中が歓喜の渦に包まれるだろうが、それは彼に対する暴力になってしまう。
だから、セオドリックは彼を尊重し、完璧な計画を練ることにした。
放課後、セオドリックは密かに生徒会メンバーを集めた。
「いいかい。来週のレイモンドの誕生日パーティーは、この生徒会室で、最小限の人数で、静かに執り行う。飾り付けも派手すぎず、彼の好きなビターチョコレートのケーキと、彼が欲しがっていた魔導古書の写本だけを用意するんだ」
真剣に語るセオドリックに、書記の令嬢がおずおずと手を挙げ、不安げに尋ねた。
「でも会長……副会長は、本当に喜んでくれるでしょうか? 怒られたりしないかな、って……」
セオドリックは、春の陽だまりのような微笑を浮かべた。
「喜ばなくていいんだ。ただ、僕が彼を祝いたいだけなんだよ。彼は誰よりも頑張っている。その彼が、誰からも認められずに一年を終えるなんて、僕は許せないんだ。……これは僕の、わがままな正義だよ」
セオドリックは窓の外、夕闇に沈みかける学園を眺めた。
レイモンドは「自分なんていなくてもいい」なんて顔をして、今もどこかで雑務を片付けているのだろう。
けれど、生徒会がどれほど彼を必要としているか、自分にはそれを伝える責任がある。そのためなら、些細な嘘など取るに足らないことだ。
たとえ彼に「余計なことをするな」と睨まれたとしても。その鋭い視線こそが、彼なりの照れ隠しなのだと、セオドリックは解釈していた。
「――あ、レイ。ちょうどよかった」
陽がすっかり暮れた頃、昇降口を出ようとしていたレイモンドの肩を、セオドリックはそっと叩いた。
レイモンドはビクッと肩を震わせ、猫のように目を細める。その反応を、セオドリックは微笑ましく思った。
「……急に話しかけるな」
「ごめんごめん。ところで、来週の木曜日、少しだけ僕に時間をくれないかな。実は、一年生から相談されている魔導回路の設計、僕じゃどうしても答えが出せなくてね。君の、あの美しい術式を見せてあげてほしいんだ」
レイモンドはあからさまに嫌そうな顔をして、視線を泳がせる。
「……木曜は、予定がある」
「一人で本を読む予定だろう? 君が教壇に立つ必要はない。解説は僕がする。君はただ、いつも通りにペンを動かしてくれればいい。……君の術式は、学園の宝なんだ。それを隠しておくのは、どうしても勿体ないと思えてしまうんだよ」
セオドリックは真っ直ぐに、心からの敬意を瞳に込めた。
「……そんな大層なものじゃない」
「大層なものだよ。少なくとも、僕にとってはね」
「…………」
レイモンドは「自分を必要としてくれる場所」に弱い。その不器用な優しさを、セオドリックは深く愛していた。
「お願いだ、レイ。僕の顔を立てると思って。君だけが頼りなんだ」
「……お前は本当に調子がいいな」
不満を露わにしながらも、最終的には承諾したレイモンドに、セドリックは内心でガッツポーズを決める。
「ありがとう、レイ! 助かるよ。……あ、そうだ。その日は少し冷えるみたいだから、生徒会室の暖炉、多めに薪をくべておくね。君、寒がりだろう?」
レイモンドは「……余計な世話だ」と吐き捨てて去っていく。
だが、その足取りにいつもの刺々しさがないのを、セオドリックは見逃さなかった。
(よし、上手くいっている)
レイモンドの凄さをみんなに再確認してもらい、その上で、最高のケーキで誕生日を祝う。本人は怒るだろうが、最終的には「やってよかった」と心を通わせ合えるはずだ。
どこまでもポジティブな確信。
それが、レイモンドにとってどれだけ迷惑なことか――セオドリックがそれを知る術は、今のところどこにもなかった。




