ささやかなる帰郷
幼少期の記憶を綴りました。
私はかつて新宿区歌舞伎町に在った日本赤十字病院にて生まれた。
本籍地は新宿区西早稲田であるが、そこには三歳までしかいなかった。微かな記憶だが、部屋の壁にクレパスで落描きをし、そのことで叱責を受けなかったらしく、幼児にとって白い壁は大きな画用紙であった。長じて、ミロやカンデンスキーのカラフルな抽象画を観た際に様々な想いが湧いてきたが、あの壁のことも含まれていたはずである。
西早稲田からの移住先は練馬区高野台であった。最寄りの駅は西武池袋線の石神井公園だったが、ずっと後年、石神井公園駅とひとつ手前の富士見台駅との間に練馬高野台駅が新設された。
今の練馬高野台駅付近は、かつては石神井川が流れ、子供たちが駆け回る広大な野原であった。漫画「ハリスの旋風」における、主人公石田国松とハリス学園の番長が竹刀で決闘するシーンはあの野原であったと想う。なぜならあの原っぱの近所に作者のちばてつや邸があり、作中の決闘は「富士見が原」で行われた、と記憶しているから。
高野台に移住したのは、練馬区指定の文化財である大きなお寺「長命寺」が在ったからである。母方の祖母と長命寺の住職夫人が女学校の同窓であったらしく、そういう縁でこの地に移ってきたようだ。祖母はクリスチャンで、お寺に嫁いだ人と友人関係にあることの奇妙さは、ずっと後年になって気づくことであった。
幼児の私はお寺の人たちに良くしてもらった。本殿と住居は長い廊下でつながっていて、私は廊下を歩いて住職の家族の住む部屋まで出入りすることが出来た。
ある日、廊下の隅に積まれていた大量のチキンラーメンをいくつか抜いた私は、それを錦鯉が泳ぐ池に浸してふやかしながら食べた。あたりまえだが、住職から「こら~!」と怒鳴られた。別の日、同じ所に積まれていたグロンサンをお寺で飼われていた猫に飲ませていたときもこっぴどく叱られた記憶がある。お寺は犬も飼っていて、それは大きな雄のシェパードだった。幼児の私が背に跨っても嫌がらない温厚な性質であった。
お寺のクルマはシルバーグレーのシボレー・コルベアであった。幼児期の私は街を走るすべてのクルマのメーカー、車名を識別できていて、そのことによる全能感のようなものが在った。
口がまともに回らないうちから「メルセデス・ベンツ」を認識していて、発音しにくいその語を片言で発すると、大人たちから笑いが取れることも理解していた。当時、ベンツのヘッドランプは縦目で、日産のセドリックはそれを模倣したことも判っていた。ブルーバードのテールランプは柿の種であったし、いすゞベレルのそれは三角形だった。父親は社用車のドアが観音開きのトヨタ・クラウンを運転して帰宅することが度々あった。ある日、お寺の駐車場に流線型の美しいクルマが停まっていて、私は「あれはカルマンギアだ」という父親を遮り、フォルクス・ワーゲンのスポーツカーと言いはった。クルマに近づき、フォルクス・ワーゲンのⅤとWを象ったエンブレムを指さし「ほら」と示すと、父親は押し黙り、苦々しい表情であった。母親はそのやりとりを「息子が正しい」というニュアンスで捉えたように私は感じた。
広い境内にはお寺が経営する幼稚園が在り、園長先生は住職であった。そこに私は三年保育で通った。通常は二年だから、年少組に二年間在籍していたことになる。だから、新しく年少さんになった子等に対して威張っていたが、ひとり頭一つ背の高い子がいて、ドイツ人だった。メルセデス・ベンツの国から来た金髪碧眼の園児の名はアンドレ・クルツ。私は彼を支配することができなかった。積木を投げ合い、おでこにぶつけられ泣かされたこともあった。
家の庭にはバナナの木が一本植わっていたが、実をつけることはなかった。支柱が青く、座板がひとつしかないブランコが在ったことも記憶している。近所には同じ年恰好の子が数人いて、隣の家にはいく子ちゃん。三軒向こうにはみち子ちゃん。その界隈の端にはなおきくんの家が在った。
いく子ちゃんは庭にゴザを敷いてのママゴトが好きだった。幼いながら、私は嫌々お父さん役を演じた。みち子ちゃんは私より駆けっこが速かった。幼稚園の運動会でも徒競走で一等賞を取るような女の子だった。
一九六〇年代初頭は、近所付き合いというものが今よりずっと濃密で、母親が所用で出かける家の子は別の家が預かる習慣もあった。ある日、なおきくんの家に預けられた私は、なおきくんを馬乗りにして泣かし、居間の障子に穴をあけまくるなど、狼藉の限り尽くし、ついにはなおき君の祖母から庭の駐車場の屋根を支える柱に縄で縛りつけられてしまった。夕刻に母親が迎えに来て、母親となおきくんの祖母は激しく言い争った。
「うちの子を柱に縛るなんて!」
「こんなにいたずらな子は見たことがないよ!」
富士見台寄りの住宅街にはたえ子ちゃんの家も在った。たえ子ちゃんの父親と私の父親の勤め先が同じで、家族ぐるみの付き合いをしていた。富士見が原でたえ子ちゃんと遊んでいて、私が立小便をしていると、たえ子ちゃんも連れしょんで付き合ってくれたことがあった。
「え? 女の子なのに立っておしっこできるの?」
「できるの。こつがあるの」
いく子ちゃんもみち子ちゃんも、なおきくんもたえ子ちゃんも、いわゆる「幼馴染」であるが、今現在彼らが存命か、そうであるならば何処で何をしているかは不明であり、私にとってはこの先も「不明」にしておきたい事案である。
幼稚園を終えると同時に、私の家は再び引っ越した。同じ練馬区内で西大泉という町名であった。つまり、小学校に上がった際には、まわりに顔を知る子はひとりもいない状況であった。以降、何度も転居を繰り返すようになるのだが、学校に顔見知りがいないことはそれが初めてであった。
大泉第三小学校、一年三組の担任は佐藤先生であった。赤ら顔のおばさんで、「わたしは赤砂糖」と始業式の日に自己紹介をした。
同じクラスに私と同名のケイスケがもう一人いて、当時は珍しい名前であったから、ライバル関係のようなものが生じた。初めての遠足の時、多摩川を渡ったあたりの梨畑で果実をもいだ復路のバス車中で、私でない方のケイスケが唱歌『こいのぼり』を歌った。幼稚園では「屋根より高いこいのぼり♪」であったが、小学一年生が教わる『こいのぼり』は、歌いだしが「甍の波と雲の波♪」であった。アナザー・ケイスケの歌唱ははげしく音程が外れていて、私は自分のことのように恥ずかしかった。
この奇妙な経験は長く尾を引くことになる。例えば東宝のゴジラ映画とカップリングされた若大将シリーズで、加山雄三が『君といつまでも』のワンコーラスを歌い終わると、間奏中、人差し指で鼻をこすりながら「幸せだな~」と語りだし、それを見た瞬間にもとても恥ずかしく感じ、映画館の暗い座席で消えてしまい気持ちになった。今想うと、アナザー・ケイスケの音痴な歌唱は「禁じ手」と認識していて、間奏で台詞が入るような楽曲も禁じ手扱いをしたのだろう。
思春期になるとギターを始め、ある程度弾けるようになり、ビートルズナンバーを弾き語りすることにトライしてみたが、レノン&マッカートニーのキーはとても高く、オリジナルキーでは不可であった。キーを下げて歌い、ソニーのカセットテープレコーダーで録音して聴いてみると、その出来の酷さに打ちのめされた。そして私は、男子がビートルズナンバーを歌う際は、オリジナルキーでなければならない、と雷に打たれたが如く悟ったのである。
高校生になると、来日したバンドのコンサートを何度か観に行った。新宿厚生年金ホールや神田共立講堂、中野サンプラザホールなどのハコで、居心地が良くなかった。友達付き合いで仕方なく行っていた。演奏者からあおられ、席を立ってステージの下に走り寄り、身体をくねらせて踊る友人たちを、私はただ見ていた。ノリノリで踊りくるう彼等に加わる気にはなれなかった。
上述の歌うことへの嫌悪のようなものも芽生え始めていた頃である。ずっとそのことを避けてきたのだが、二十歳の頃にカラオケなるものが登場すると、それは瞬く間に広まり、この国のすべての者が歌いだすような世の中になった。私はその苦々しい現象を我慢し続けた。しかし学生が終わって会社勤めをするようになると、先輩や上司、客筋から「挨拶がわりに一曲」という展開になることもあり、そういう時は仕事と割り切り歌った。持ち歌はムード歌謡と呼ばれていた『祖衛門町ブルース』のみ。その一曲で乗り切った。
それらは、遠い昔の遠足帰りのバス車中で、アナザー・ケイスケの音程のおかしな歌唱を聴いて「恥ずかしい」と感じたことと関係があると私は確信しているのだが、言葉では上手く語りえぬ類いの事である。
話を幼少期に戻そう。
高野台界隈ではブイブイ言わせていた私だが、小学校に上がると勝手が違った。虐めているつもりはないのだが、此処いらの子は些細なことでも先生に告げ口し、私は赤砂糖によく叱られた。
二年生に上がると、壮年の担任教師はいった。
「喧嘩がしたくなったらぼくに言うように。ぼくが立ち会うから」
反りが合わない子と先生立ち合いのもとで組み合ったが、私が相手に馬乗りの体勢になると、先生は割って入り「まだやりたいか?」と双方に訊いた。私は「やりたい」と応えたが、相手は泣き顔になり「もういやだ」と言った。すると先生は「ぼくが相手だ」と私を組み敷いた。
教師と呼ばれる者たちへの「不信感」のようなものは、誰しもが持っていると想うが、私の場合はこれがきっかけであった。
小学校も三年生になると、自宅から最寄りの駅、保谷から上りの各駅停車に乗り、ふたつ目の石神井公園駅まで遠征し、旧知と邂逅することもあった。
なおきくんと公園内の三宝寺池でクチボソと呼ばれる小魚を釣った。今や、クチボソは外来種の大型魚ブラックバスに喰いつくされてしまったようである。
夏休みのある日、西大泉には帰らず、たえ子ちゃんの家に泊めてもらうことがあった。夕方までたえ子ちゃんと、富士見が原でバドミントンや縄跳びで遊び、ふたりでちばてつや邸を訪れた。
お屋敷と云える立派な家屋の呼び鈴を押すと、人気の高い漫画家の母親と思しき老婦人が玄関扉を開けてくれた。下駄箱の上に『紫電改の鷹』の主人公が彫られたスタンプがあり、予め用意しておいた紙切れに押した。今想うと、スタンプは一度押せばそれで完結する案件のはずだが、私は高野台に里帰りし、富士見が原を走りまわったあとには、決まってちば邸を訪れスタンプを押した。それは、年に何度も高尾山に登る人やTDLのリピーターの存在と似た事例かもしれない。
アニメ制作の先駆けであったであろう虫プロダクションもちば邸から近く、焼却炉が在る虫プロのゴミ捨て場には既に放映が終わったらしいフイルムが廃棄されていることがあった。拾い上げて日にかざして見ると『リボンの騎士』で、少しがっかりしたが、私はそれを巻き取り、半ズボンのポケットに入れた。
引っ越しを繰り返す家庭に育ったゆえ、私には「故郷」と思える土地がない。しかし、私鉄沿線でふた駅しか離れていない所であっても、幼少期の記憶が残る三宝寺池や高野台までの遠征は、私にとって「ささやかな帰郷」と云えたはずである。
後年、最初の仕事である損害保険のセールスで、長命寺幼稚園を訪れたことがあったが、体よく断られたのか、長命寺幼稚園は既に存在していなかったのか、記憶が定かではない。
また、近年のことであるが、ガラ携からスマホに替えた頃に、幼少期の記憶が色濃く残る石神井公園駅まわりを歩いたことがあった。スマホに挿したイヤフォンで、シューマンのピアノ曲『トロイメライ』を聴きながら散策した。
三宝寺池では「魚釣り禁止」と記された立て看板をいくつか見たが、ルアーを投げている輩が何人かいた。手漕ぎボートでくぐる太鼓橋は当時のままで、水草が茂る辺りでは鴨やアヒルが泳いでいた。
長命寺境内のイチョウの木々はとても太く、それは半世紀以上の時の流れを象徴しているようにも想えた。
懐かしい場所は確かに存在していた。しかし、幼少期に歩いたはずの道々は驚くほど狭く、私は箱庭を歩く小人になったような錯覚を覚えたのだった。
〈了〉




