冴えないサラリーマンと無職の親友
「おーい、また会社?」
月曜の朝八時半、アパートの階段を下りていると、隣の部屋から佐藤がひょっこり顔を出した。寝癖で髪がぼさぼさ、昨日のTシャツにシワが寄っている。
「当たり前だろ、月曜だぞ」俺は呆れ顔で答えた。「おまえこそまだ寝てたのか?」
「起きてたって。朝アニメ見てた」
「朝からアニメって...いい歳して」
「失礼な。心は永遠の少年だから」佐藤はあっけらかんとした。「今日なんか予定ある?」
俺は大きくため息をついた。こいつは半年前に会社クビになってから、完全に昼夜逆転生活だ。親の仕送りでダラダラ暮らしてる、絵に描いたようなダメ人間。
「コンビニ行って新しいカップ麺試すのと、図書館で漫画読む予定」
「それが予定って言えるか?」
「立派な予定じゃん。おまえだって会社行ってパソコン叩いて怒られて帰るだけでしょ」
返す言葉がなかった。確かにその通りだ。毎日同じことの繰り返し。変化もなければ成長もない。ただ時間が過ぎていく。
「まあ、俺は給料もらってるから」
「偉い偉い」子供をあやすような口調で言いやがった。「でも最近顔色悪いぞ?」
「毎日残業だし上司はクソだし後輩は使えないし」
「大変だねえ」
この軽い相槌がなぜかイラッときた。
「おまえに言われたくないわ」
吐き捨てて駅に向かった。後ろから「いってらっしゃーい」という呑気な声が聞こえたが、振り返らなかった。
「田中さん、例の資料どうなってます?」
デスクに座って五分も経たないうちに、課長の山田が血相を変えてやってきた。四十代後半、薄毛に中年太り。典型的な昭和サラリーマンって感じ。
「昨夜遅くまで作業しまして、あと少しで完成します」
「あと少しって、具体的に?」
「今日の午前中には...」
「今日の午前中って、もう十時ですよ?午前中って言ったら普通九時十時でしょ?」
内心で舌打ちした。この課長、いつも後出しジャンケンみたいな文句つけてくる。最初から明確な締切言えよ。
「申し訳ありません。十一時までには必ず」
「そういう問題じゃないんですよ。スケジュール管理ができてない。社会人として基本的なことでしょ?」
周りの同僚がちらちら見てる。顔が熱くなった。
「以後気をつけます」
「気をつけますじゃダメなんです。具体的にどう改善するか考えてください」
山田課長は満足そうに席に戻った。俺は机に向かい、キーボードを叩き始める。指に力が入りすぎて、カタカタ音が響く。
隣の新人の鈴木が小声で話しかけてきた。
「田中さん、大丈夫ですか?」
「大丈夫だよ」作り笑い浮かべた。「課長ああいう人だから、慣れてる」
「でも理不尽ですよね。田中さんいつも頑張ってるのに」
鈴木の優しい言葉が、かえって心を重くした。この子まだ入社二年目で、会社の理不尽さ分かってない。これから嫌ってほど味わうことになるだろう。
そんな時、スマホにメッセージが届いた。佐藤からだった。
『新商品のカップ麺買ってきた。めっちゃ美味そう』
添付写真には色とりどりのカップ麺が七個並んでる。
思わずクスッと笑ってしまった。
「何がそんなに?」鈴木が首かしげた。
「なんでもない」
慌ててスマホしまったが、心の中で少し温かい気持ちになってた。
昼休み、屋上で一人コンビニ弁当食ってた時、携帯が鳴った。佐藤からだ。
「もしもし」
『おおい!大変だ!』
興奮した声が聞こえる。
「どうした?」
『カップ麺食べ比べしてたら、とんでもない発見した』
「発見って何だよ」
『醤油ラーメンにチーズ入れると激ウマ!』
俺は黙った。電話の向こうで一人盛り上がってる。
『マジで革命的だよ。なんで今まで誰も気づかなかったんだろ』
「それ、普通にありそうだけど」
『え?そうか?俺、人類初の発見だと思ってた』
「おまえな...」呆れながらも、なぜか笑顔になってた。「そんなことで電話?」
『うん。すごいでしょ?』
「すごくない」
『でも嬉しそうじゃん』
ハッとした。確かに、いつの間にか笑ってる。朝からずっと重かった気持ちが少し軽くなってる。
「別に嬉しくないし」
『ツンデレー。まあいいや、今度一緒に食おう。俺がおごる』
「金あるのか?」
『親の仕送り昨日届いた。現在残高三万八千円』
「それ今月分だろ?もう半分以上使ったのか?大丈夫か?」
『カップ麺の研究費だから必要経費』
大きなため息ついた。本当に救いようがない。
「おまえさ、そろそろ真面目に就職活動しろよ」
『面倒くさい』
「面倒って...このままじゃダメ人間で人生終わるぞ」
『でも今すごく充実してる。毎日新しい発見あるし』
「カップ麺の発見なんて発見のうちに入らない」
『そんなことないって。小さな幸せ見つけるのも立派な才能だと思う』
佐藤の言葉に少し考え込んだ。確かに自分、最近いつ心から笑ったか思い出せない。毎日仕事に追われて、小さな幸せなんて感じる余裕もない。
「まあ、おまえがそれで幸せならいいけど」
『田中こそ大丈夫?朝、めっちゃ疲れた顔してたぞ』
「大丈夫じゃないけど、しょうがないだろ」
『そっか...嫌なことあったら俺に愚痴れよ。暇だから』
なぜか、その一言が胸に響いた。
「ありがと」
『おっ、素直じゃん。珍しい』
「うるせー」
電話切った後、空を見上げた。午後からまた地獄のような時間が始まる。でも少しだけ頑張れそうな気がした。
夜九時、ようやく会社出れた。山田課長の無茶振りで資料作成が夜まで長引いた。電車の中で疲れ切った顔で窓の外眺めてた。
アパート着くと隣の部屋から明かりが漏れてる。佐藤まだ起きてるようだ。部屋の前通るとテレビの音が聞こえる。また深夜アニメでも見てるんだろう。
自分の部屋に入り、冷蔵庫からビール取り出した。一口飲んで大きくため息。今日も一日終わった。明日もまた同じような一日が待ってる。
そんな時、ドアノックされた。
「はーい」
「俺だよ」
佐藤の声だった。ドア開けた。
「どうした?」
「お疲れさん。差し入れ」
コンビニ袋差し出した。中覗くと唐揚げとビール入ってる。
「なんで急に?」
「さっき電話した時、めっちゃ疲れてる感じだったから。たまには一緒に飲まない?」
少し迷ったが、結局佐藤を部屋に招き入れた。床に座りビール開けた。
「かんぱーい」
「乾杯」
ビール一口飲んで、佐藤が口開いた。
「今日どんな感じだった?」
「最悪。課長にまた怒られたし残業も長かった」
「大変だな。でも田中偉いよ、ちゃんと働いて」
「偉くなんかない。他に選択肢がないだけ」
ビールグッと飲み干した。アルコール回って、少しずつ本音出てくる。
「俺さ、このまま年取って死んでくのかなって思う時ある」
「そんなこと言うなよ」
「だって毎日同じことの繰り返しで、何も変わらない。何のために生きてるか分からなくなる」
佐藤は黙って俺の話聞いてた。
「おまえは気楽でいいよな。何も責任ないし自由だし」
「自由かあ...」佐藤は少し考えてから言った。「でも時々寂しいよ」
「寂しい?」
「うん。誰とも関わらず一日中家にいると、世界から取り残されてる気分になる。たまに、このまま消えても誰も気づかないんじゃないかって思う」
佐藤の横顔見た。いつもの軽薄な表情と違う、少し寂しそうな表情だった。
「でも田中がいるから大丈夫。愚痴聞いてくれる人いるし、俺の話も聞いてくれる。それだけで生きてる実感ある」
俺は何も言えなかった。自分は佐藤を軽蔑してたが、佐藤は自分を大切な友達だと思ってくれてる。
「俺こそ、おまえに助けられてる」
「え?」
「今日も、おまえの電話なかったら、もっと落ち込んでた。くだらない話だったけど笑えたし」
「へー、俺って役立ってるんだ」佐藤は嬉しそうに笑った。
「まあ、少しはな」俺も小さく笑った。
それから一週間、俺の日常は相変わらずだった。朝は佐藤に遭遇し、会社では山田課長に怒られ、夜遅く帰宅する。でも何かが少し違ってた。
佐藤の馬鹿げたメッセージが届くたび、イライラしながらも心の片隅で笑ってる自分がいた。「今日はコーンポタージュに七味入れてみた」「図書館で面白い漫画見つけた」「コンビニの店員さんに『ありがとうございます』って言われた」。どれもくだらない内容だが、なぜか読むと気分が軽くなる。
ある金曜日の夜、いつものように残業してると、また佐藤からメッセージが届いた。
『田中、今日は早く帰れそう?』
『無理。あと二時間はかかる』と返した。
『そっか。お疲れ様』
それだけのやりとりだったが、なぜか心が温かくなった。誰かが自分のことを気にかけてくれてる。それだけで頑張れる気がした。
夜十一時、ようやく帰宅した俺を、佐藤が待ってた。
「おかえり。今日めっちゃ遅かったな」
「おまえ、ずっと起きてたのか?」
「いや、たまたま起きてた。これ、夜食」
また差し入れのコンビニ袋。今度はおにぎりとお茶が入ってた。
「ありがと」
「どういたしまして」
二人で階段に座り、おにぎり食べた。深夜の静けさの中で、他愛もない話をした。
「最近気づいたんだけどさ」佐藤が言った。「俺たち、なんだかんだでいいコンビだよな」
「何がいいコンビだよ」
「だって、俺はおまえに笑いを提供し、おまえは俺に愚痴を聞かせてくれる。完璧な相互依存関係」
「相互依存って...まるで共依存みたいじゃないか」
「それでもいいじゃん。お互い支え合ってるってことでしょ」
佐藤の言葉に、俺はハッとした。確かにそうだ。俺は佐藤のおかげで笑えるし、佐藤も俺がいることで孤独感を紛らわせてる。
「まあ、悪くはないかもな」
「でしょ?」
夜風が涼しかった。隣に座ってる親友を見て、俺は思った。こんなくだらない毎日でも、案外悪くない。
「でもさ」佐藤が急に真面目な顔になった。「俺、やっぱり就職活動始めようと思う」
「え?」
「このままじゃダメだって、おまえの話聞いてて思った。俺も何かしたい」
俺は驚いた。いつも適当なこと言ってる佐藤が、こんなに真剣な表情するなんて。
「本気か?」
「うん。でも一人じゃ不安だから、付き合ってくれる?履歴書の書き方とか分からないし」
「...分かった。手伝ってやる」
「ありがと!」
佐藤は嬉しそうに笑った。その笑顔見てると、俺も前向きな気持ちになってきた。
「でも、就職したら一緒にいる時間減るぞ」
「それは寂しいけど、でもおまえがいる限り大丈夫」
「何それ、気持ち悪い」
「照れんなよ」
二人で笑った。夜空には星が輝いてる。
それから三ヶ月後、佐藤は無事に就職が決まった。IT関係の小さな会社だが、佐藤には合ってそうだった。
「田中のおかげだよ」佐藤は就職祝いの席で言った。
「俺は何もしてない。おまえが頑張ったんだろ」
「でも支えてくれたじゃん。履歴書チェックしてくれたし、面接の練習も付き合ってくれたし」
確かにそうだった。最初はしょうがなく手伝ったが、だんだん楽しくなってきた。佐藤が真剣に取り組む姿を見てると、俺も頑張ろうという気になった。
「これからは同じサラリーマン同士だな」
「そうだね。でも俺、田中みたいにちゃんとできるかな」
「大丈夫だよ。おまえなら」
俺は本気でそう思った。佐藤には人を笑顔にする力がある。きっと職場でも愛されるだろう。
「ありがと。おまえがそう言ってくれると安心する」
「でも調子乗るなよ」
「分かってる」
二人で乾杯した。これからも変わらない友情が続いていくだろう。
佐藤が働き始めて一ヶ月。俺たちの生活パターンは少し変わったが、友情は変わらなかった。
朝、アパートの階段で会うと、今度は佐藤も背広姿だ。
「おはよう」
「おはよう。今日も一日頑張ろうな」
「おう」
お互いに励まし合って、それぞれの職場に向かう。
昼休みには相変わらずくだらないメッセージが届く。今度は「会社の食堂のカレーが美味い」「同期の女の子が可愛い」「上司が意外にいい人」など、前向きな内容が多い。
夜遅く帰ると、たまに佐藤が待ってることがある。お互いの愚痴を言い合い、笑い合う。そんな時間が何より大切だった。
「俺たち、いい歳してこんなことしてて恥ずかしくないか?」ある夜、俺が言った。
「別に恥ずかしくないよ。友達同士で支え合うの、普通じゃない?」
「でももう三十過ぎてるぞ」
「年齢関係ないでしょ。大切なのは心だよ、心」
佐藤らしい答えだった。
「まあ、そうかもな」
俺は笑った。確かに年齢なんてどうでもいい。大切なのは今この瞬間、隣にいる親友と過ごす時間だ。
深夜の静寂の中で、二人の笑い声が響いた。くだらない毎日かもしれないが、これが俺たちの青春なのかもしれない。三十過ぎの、ちょっと遅めの青春。
「田中」
「なんだ?」
「俺たち、ずっと友達でいような」
「当たり前だろ、今更何言ってんだ」
「そうだね」
佐藤は安心したように笑った。
俺たちの友情は、これからもずっと続いていく。どんなに時間が経っても、どんなに環境が変わっても。それが分かってるから、今日もまた頑張れる。明日もまた、くだらない日常が待ってる。でも、それが幸せなんだと思う。
月明かりの下で、俺たちはいつまでも話し続けた。