雨が降る日に
雨が降り続いてる。
じめじめした梅雨の時期、“その噂”を耳にした。
『雨が降ってる日に、この学校の昇降口でひとりでいると幽霊が見える』
そういう類の噂によくあるように、理由とかその先どうなるのかとか、皆口を揃えて知らないと言う。
人によっては、『幽霊が見えたら絶対に振り返っちゃダメ』なんて付け足すこともあった。
噂に尾ひれがついてひとり歩きしてるんだろう。
梅雨が明けてしばらく、その噂も頭の中から薄れていた頃、部活中のことだった。
確か今朝の天気予報は晴れのち曇り。降水確率は20%。普段から折りたたみ傘を持ち歩いてるから、特に気にすることはなかった覚えがある。
「うわー、最悪。雨降ってきちゃった」
不意にそう呟く声が聞こえた。
その声に導かれるように窓の外を見ると、今降ってきたんであろう雨が、だんだんと強く窓を叩き始めた。
「え、ほんとじゃん。どうしよ、傘持ってない」
「私持ってるよ。入ってく?」
「迎えきてもらえるように連絡してみよっと」
「雨強くなる前に切り上げよ」
そんな会話が聞こえる中、私はずっと窓の外から目を離せずにいた。
雨は好きだ。雨の日に室内で過ごすのが好きだった。
だけどふと――思い出してしまった。
“あの日”から好きだったはずの雨は、心を重くするトリガーになってしまった。
噂。
去年消えた“あの子”。
誰に聞いても――
「……ん。嘉神さん?」
「え」
ふと名前を呼ばれていることに気付く。
声の方を振り返ると、部活仲間の数人が心配そうに私を見ていた。
「私達もう帰ろうと思うんだけど、嘉神さんも一緒に帰らない?」
水嶋さんが代表して、私に尋ねてくれる。
「あ……」
折角声をかけてくれたんだから、このまま一緒に帰った方がいいのは分かってる。
だけど、あの噂が脳裏を過った。
「……ありがとう。だけど私、もうちょっと仕上げてから帰るよ。戸締りしておくね」
「そっか。じゃあお先に。帰りは気を付けてね」
ばいばいと手を振って帰路に着く部活仲間を見送って、私はまた窓の外を見遣った。
去年もこんな雨の日だった。
薄暗い中で、雨の音が聞こえてた。
部活終わり、一緒に帰る約束をしてたあの子。
つい時間を忘れて作業に夢中になってしまって、少し遅くなってしまった。
部室の戸締りをして、職員室に鍵を返して、急いで昇降口を目指していた。
階段を降りていたその時、不思議な出来事を目にした。
あの子は昇降口のガラス扉の前に立って、手をガラスに付けて、外を見てた。
うちの学校は昇降口の向かいに階段があるから、私の位置からあの子の後ろ姿が見えていた形になる。だから、どんな表情をしてたのかは分からない。
だけど――昇降口のガラスに映るあの子は、私の知るあの子ではなかった。
背格好はあの子と同じ。
その顔は、あの子と似ても似つかない――
頭が混乱する中で、いつの間にかあの子が消えていた。
そう、“消えた”という表現が一番しっくりくる。
忽然と姿を消した。
辺りを探しても、いない。
さらに不思議なのは、クラスメイトや先生に聞いても、誰もあの子を知らないと言う。
存在自体がなかったことになったかのようだった。
確かにあの子と過ごした記憶があるのに。
あの日から、どこか頭に靄がかかったような日々を過ごしている。
今日まで“あの子”の存在を思い出さずにいた。
窓の外から描きかけのキャンバスに視線を戻す。
そこには、あの子の後ろ姿があった。
肩まで伸ばした癖のない黒髪。華奢な手足。そう、確かにあの子だ。
無意識に忘れまいとしていたんだろうか。
そう言えば部活仲間に聞かれたことがあった。
『その子、誰?』
その時は特に意識もしてなかった。
街中かテレビで見かけた人を無意識に選んで描いた気になっていたけれど、私はあの子を忘れられなかったんだ。
部活仲間が帰ってどれくらい経っただろう。
外は薄暗い。雨の灰色。だけど日は沈み切っていないのか、まだ少し明るさは残っている。
電気を消して、廊下に出て、鍵をかける。
職員室に鍵を返して、昇降口を目指す。
昇降口に近づくにつれて、心臓が、だんだんと早鐘を打つ。
もしあの子に会えず、違う幽霊が出てきたら。
そんな恐怖を打ち消すように頭を振る。
大丈夫。もし、幽霊が見えても、振り返らなければ大丈夫なはず。
恐怖心と、期待。
そんな感情を抱きながら、昇降口に向かう階段を降りていく。
あの子が立っていた場所。
その場所に、立つ。
ガラス扉に映る、私。
その向こう側には、雨で霞む景色が映る。
しばらくそのままでいるけど、何か起こる気配はない。
ふ、と安堵ともつかない息を漏らす。
所詮、噂は噂。
急に馬鹿馬鹿しくなって、私は靴を履き替えるために自分の靴箱に向かう。
もしかしたら、あの子は私の脳内にだけ存在するものなのかもしれない。
イマジナリーフレンドのようなもの。だって、私だけしか知らない存在なんてあり得ない。
靴を履き替えて、外に出る為に昇降口の扉に手をかける。
『嘉神さん』
ふと、名前を呼ばれて、その手を止めた。
声がしたのは、目の前。
だけど、人影はない。
『嘉神さん』
もう一度呼ばれて、そして気付いた。
声はガラス扉の中からしていた。
ゆっくりと焦点をガラス扉に合わせると、そこには私ではなく、あの子が映っていた。
「……あ、あ……」
目の前の現実に、言葉が出てこない。
会いたかったはずの存在。
私はあの子に会って、謝りたかった。
私はその存在がマヤカシではないことを確認するために、ガラスに手を付けた。
映っているのが私ではないと証明するかのように、その存在は私と同じ動作をしなかった。
「あ……」
あの子が、いつの間にか消えていた?
違う。
あの日、階段を降りる途中、私はあの子を呼んだ。呼んでしまった。
あの子は振り返った。
その表情は恐怖に歪んでいた。
私の方に、助けを求めるように手を伸ばす。
もがき苦しんでいるように見えた。
――あの子を引き摺り込むように、ガラスの中から黒い手が伸びていた。
そしてあの子は、ガラスの中に消えた。
その常軌を逸した現象を、私は受け入れられなかった。
そう。
私は忘れたかった。
忘れたつもりでいた。
存在ごと消えてしまった、私だけが知っているあの子を――
そんな中、耳にした噂。
『雨が降ってる日に、この学校の昇降口でひとりでいると幽霊が見える』
あの子が幽霊になったかは分からない。
だけどあの子に一度会って、謝りたかった。
私がもっと早く切り上げていれば、あの子は消えなかったかもしれない。
私が呼ばなかったら、あの子は消えなかったかもしれない。
罪悪感に苛まれ続け、いつしか心まで蝕んでいた。その罪悪感を解消できる糸口を見つけた気がしたんだ。
「ごめんね……」
謝罪を口にする私に、目の前の存在は首を振る。
『……気にしてないよ。こうして会いに来てくれたから』
目の前の存在が、私の手に重ねるように手を動かす。
『ありがとう』
そう言って、微笑んでくれる。
それだけで救われた気持ちになった。
『ありがとう。
――私を忘れないでいてくれて』
「え」
重なる手のガラスの部分が、まるで波紋が広がるように歪んだ気がした。
ガラスの中から、手が伸びてきたように見えた。
意識が、ぐわりと揺れる。
冷たい水の中に飛び込んだような感覚。
その手を振り解こうともがいても、どうにもならない。
だんだんと、意識がぼやけてくる――
『ずっと待ってた』
『ここは怖くて、冷たくて、淋しいの』
『早く出たかった。もうこんな場所は耐えられない』
『ずっと、ずっと、ずっと、こんな状態が続くんじゃないかって絶望してた』
『でもそうだよね。嘉神さんは私を見捨てたりしないよね。だってお人好しだもんね』
『――嘉神さんなら優しいから、許してくれるよね?』
あの子が何か言ってるけど、何も理解できない。
ぼんやりとした意識の中で、ガラスに映る私ではない私が、“あの子”が、だんだんと“私”になっていくように感じた。
私に成り代わっていく。
……私は、あの子に会って、謝って、それからどうしたかったんだろう。
あれ……
――…… ア ノ 子 ッ テ 、 ダ レ ダ ッ ケ ? ――………
……そこで私の意識は途絶えた。
「嘉神さん、昨日は無事帰れた?」
放課後、家路に着こうとしていた私に、部活仲間の一人が声を掛けてくる。
確か、名前は水嶋さん。
振り返って私は「うん」と頷く。
「雨ほんと凄かったよね。今日は止んで良かった」
「そうだね」
「あれ、今日は部活行かないの?」
「あ、うん。今日はちょっと用事があって」
「そっか。じゃあまた明日」
「うん、また」
手を振って、部室に向かう彼女を見送る。
家に帰るために踵を返す。
と、鼻先に冷たい感覚。
見上げると雨が降り出そうとしていた。
今朝天気予報は見なかったけど、もしかしたら雨予報だったのかもしれない。
息をついて、鞄から折りたたみ傘を出して差す。
気を取り直して歩き出すと、水溜まりに足を踏み入れてしまった。
どうやら昨日の雨が乾き切らずにいたようだ。
結構深かったのか、靴下まで水が染み込んでくる。
水溜りに、雨が弾けて、歪んで映る私。
私が映ってるはずなのに、それは私と同じ表情をしていない。
……何か叫んでるのかな?
「悪く思わないでね?」
“私”はつい口角を上げてしまった。
End.




