2.5.濡羽色の翼
暴力描写があります。
臆病なくせに私を守ろうと何度だって立ち上がる小さな背中が、私はどうしようもなく好きだった。
挫けまいと泣きながら、顔を真っ赤にさせながら、悠くんは前を向く。苦痛に顔を歪めることはなく、ただただ私を一番に考え、悠くんは真っ直ぐに私に手を差し伸べる。いつだって悠くんは優しくて、私が側にいるか振り返って確認しては、静かに待ってくれる。そしてありのままの私を受け入れてくれる。臆病だけど、誰かのために踏ん張れる。そんな人、なかなかいない。
小学校低学年の頃、私は殆ど学校に通えていなかった。流行ものの感染症には必ず罹るし、季節の変わり目や内外の寒暖差の激しい日には外に出ることができず、布団の中で賑やかな子どもの声を聴きながら寂しい時間を過ごしていた。
どうせすぐに体調が悪くなってしまう。
『病は気から』という言葉の通り、不調もないのに無気力にベッド上から空を見上げるときもあった。そんなとき、悠くんは必ず来てくれる。綺麗な花を見つけたと摘んできては「ちゃんと手を洗わないとダメでしょ!?」と怒られ洗面所に逆戻りして、今度は怒られたことに半べそをかきながら花を見せに来る。それだけではない。道端で見つけたものから学校で流行しているものまで様々なものを持ってきた。光る石や器用に編み込んでつくった花冠、香り付き練り消しゴムや可愛い付箋、キラキラしたシール帳。私が喜ぶものばかり持ってきてくれたなぁ、と今思い出しても嬉しくなる。中学に上がる頃には普通の子のように学校に通うことはできたが、追い付かない勉強を悠くんが支えてくれた。私は悠くんに頼りっきりで、自分が情けなくて、本当はどこかへ消えてしまいたいと思うこともあったけど、そう思う度に悠くんが私をここに繋ぎ止めてくれたような気がする。
悠くんの魅力はそれだけに留まらない。素直で喜怒哀楽の豊かなあの表情は見ていて飽きない。怒られてズーンと落ち込んで、褒められてじわりと込み上げる照れ笑い、分からないことにはキョトンと首を傾げて、隠し事ができずに慌てたような顔をする。でも、私が誰かから意地悪をされた時には自分事のようにぷりぷり怒って、暴力に訴えられそうになった時には真剣な顔つきで相手を見やり、身を挺して守ってくれる。
そんな悠くんみたいになりたいと思っていた。
幼少期から抱いていた『憧れ』。それは中学、高校と恋愛を意識するようになり、『恋慕』へと変わっていった。
何故先輩と付き合い始めたのか、自分でもよく分からない。私は混乱していた。
「三影さん、好きです。付き合って下さい」
淀みのない告白は随分と久しぶりで、私しか映っていないような真っ直ぐな瞳に辟易してしまう。これまでは、メッセージや事のついでにポロッと想いを告げる人がそこそこに多かった。相手がどれくらい真剣でどんな表情をしているか分からない文面上の告白、ダメ元で言葉を口にしているのか、自信なさげで弱々しく覇気のない告白。だから、真正面からストレートに想いを告げられて嬉しくないと言ったら嘘になる。
だが、私の心はもう決まっている。はっきりと、しかしながら相手を傷つけない断りの言葉を、一生懸命に探した。
「ごめんなさい、私、好きな人がいます。だから、先輩の気持ちには応えられません」
なのに、終わらなかった。先輩と付き合うことになってしまった。嘘偽りなく答えたはずだが、私の言葉は先輩に響かなかった。
「俺は誰よりも三影さんのことを愛している。今日がダメなら明日も明後日も、また三影さんに伝えにいくから。四六時中、俺は三影さんのことを想っている。常に三影さんのためを考え、三影さんのために生きている。俺には三影さんを幸せにする覚悟と自信があるんだ。だから絶対に諦めない。どこにいたって俺なら見つけられる。いつか指輪を携えて、どこまででも迎えにいくよ」
そんな狂気じみた告白に私は応えざるを得なかったのだ。
「そ、それでも私は、先輩と付き合えません」
そんな断りの言葉もすぐに覆される。
「好きな人がいるから?付き合ってみたら、そんな人は忘れて、僕のことを好きになるかもしれない。僕は誰よりも君のことを愛しているのだから」
「たとえ結ばれなかったとしても、私はその人のことを想っていたいんです。この想いを忘れたくないんです。先輩のことを好きになるかどうかは………………関係ありません」
「三影さんがいなかったら………………俺は死ぬ」
「…………っ!?」
「三影さんは俺を殺すつもり?」
「………………それは…………脅しですか?」
「俺は本気だ」
答になっていない先輩の返答に、どう返せばこの場が収まるのか熟考する。
「ーーーーでしたら、一ヶ月」
一ヶ月で諦めてください。私はそう告げた。
付き合うといっても、共にいたいと思うような相手ではなかった。むしろなるべく距離を取りたかったのだが、先輩の過激思考を誘発させないためにも、私は先輩と行動を共にするほかなかった。とりあえず放課後は図書館で一緒に勉強して、一緒に登下校をしようという話になったのだが、一度先輩と登下校を共にしたことをきっかけに悠くんは身を引き、その上根も葉もない悪意ある噂で私は徐々に孤立していった。大学の最寄り駅で別れるはずが、「こっち方面に用事があるから」と私の自宅の最寄り駅を通ってからは、さも当然のように私の自宅の最寄り駅まで迎えに来て、私の自宅の最寄り駅で別れる、という流れができあがってしまった。監視されているような心地に鳥肌が立っては、先輩は私の耳元で囁く。「愛している」と。
悠くんに冗談混じりに先輩との交際を告げたのは、どうせなら恋の駆け引きに使えやしないかという打算があったからだ。悠くんが私へ恋心を露わにしてくれないか、と期待していた。それも虚しく散ったのだが。
悠くんが他の女の子と話しているのを目にし、胸が苦しくて仕方がなかった。
死んでしまう。
やはり少々大袈裟な表現だとは思うが、先輩の言葉を思い出し、小さく頷く。楽しいだけの片想いが永遠には続かないことを、私は理解していなかった。その苦しみを、体感して初めて知った。
「三影さん、こっち向いて」
「え?」
帰り道、突然にそう言われたかと思えばパシャッとシャッター音が聞こえる。
「不意打ちはやめてください!」
「ごめん、ごめん。じゃあ、今度こそ、はい、ピース!」
反省していないような返しで、言いなりになるのも癪で、私はぷいっとそっぽを向く。先輩はそんな私を見てハッハッハッと楽しそうに笑った。そうして何度も同意もなく写真を撮られた。消してと頼んだ写真が、本当に消されているかは分からない。「家まで送っていく」と言うのをどうにか断り、いつも通り私の自宅最寄り駅で別れたはずが、名前を呼ばれ振り返るとそこには先輩が立っていた。それ以降、帰り道にあるはずもない視線を感じたり、赤の他人の足音であるのにも関わらず恐怖で硬直してしまう。そんなことが頻繁にある。
随分と時が長く感じられる。カレンダーに目をやれば、付き合い始めてまだ九日しか経っていなかった。その恐ろしく長い体感時間に私は戦慄する。
ある時、喫茶店でお手洗いのため席を立ったことがあった。荷物は置いたまま、ハンカチだけを手にし何事もなく席に帰ってくる。その時、先輩は私のスマホを覗き込んでいた。
「勝手に見ないでください」
スマホは鞄の中に入れておいたはずだった。慌ててスマホを手に取ると、先輩は眉間に皺を寄せて低い声を出した。
「ねぇ。“悠くん”ってなに?」
「…………幼馴染ですけど」
「そういうことを聞いてるんじゃない。何で俺の許可なく連絡取ってるの?」
「許可?」
さっきの一瞬で目にしたメッセージには、『とうもろこし、お裾分け』とだけ書かれていた。それの何が先輩の気に触れたのか分からない。幼馴染と連絡を取ることは普通ではないのか、と過るが、他人に連絡先の制限をされる方が余程おかしい。
「ふざけるな!!!」
突然の先輩の大声に、私はびくりと肩を震わせる。
「お前、やましい事があるんだろ!だからそうやってコソコソ男と連絡取ってるんだろ!」
「違います!やましい事なんてなにも!」
「だったら何で隠すんだ!」
「勝手に見られたから嫌だっただけです!!」
「やましい事があるから勝手に見られたくないんだろ!?」
「やましい事なんてないって言っているでしょう!!」
先輩のみならず私もすっかり頭に血が昇って、お金を適当に机の上に叩きつけて勢いのままに店を飛び出した。先輩は追ってきた。追ってきて私に追いつくと、言葉を発する前に私の頬を勢いよく叩く。それから、驚きに目を見張る私に考える隙を与えることなく抱きついた。
「ごめん、俺は心配なんだ!!姚が離れていってしまうんじゃないか、って心配だから口を出してしまうんだ!!――――頬、痛かったでしょ。それくらい、俺の心も痛い」
「やめてください」
「今日はもう帰ろうか。お互いに頭を冷やそう」
「やめてください。以前にも申し上げたとおり、私が先輩のことを好きになることはありません。だから、もう、諦めてください」
「は?」
「諦めてください、お願いします。私、もう先輩のそばには、いたくない」
「無理」
先輩はにこりと笑う。その瞳だけが笑っていない表情に鳥肌が立つ。強引に腕を掴んで進み、路地裏に連れ込んだかと思うと、鼻先が触れるくらいに顔を近づけてゆっくりと息を吐く。
「愛してる」
それから私は腹部を強く殴られて、意識を失った。
気が付いたとき、私は知らない家にいた。傍らには先輩がいて、私はタオルケットを被せられて横になっている。ぼんやりとした頭で、ここは先輩の家なのだろうと思う。
「起きた?」
先輩の声だ。私はもう少し狸寝入りをするつもりだったが、堪忍してむくりと起き上がり、息を呑む。
よく片付いた部屋の中で、壁一面に貼られた夥しい数の写真。
「先輩、これは――――」
「ここは俺の家。もう暗くなってきたから今日は泊まっていきなよ」
殴って気絶させて、半強制的に家に連れ込んだ人の言葉とは思えなかった。それが、この状況を異常ともせず平然としていられる人間の言葉なのだと私は愕然とする。全身に鳥羽だが立つ。
「か、帰ります」
「帰り道、分からないでしょ」
「大丈夫です」
「ここらへん、治安悪いよ?」
「大丈夫です」
今はとにかく、先輩が怖い。何をされるか分からないこの状況が怖い。私は立ち上がり、近くに置かれていた自分の鞄を手にした。先輩はデスクのパソコンに目を移してマウスをカチッと動かした。すると、パソコンから声が聞こえる。
『三影さん、こっち向いて』
『え?』
パシャ。
『不意打ちはやめてください!』
『ごめん、ごめん。じゃあ、今度こそ、はい、ピース!』
「なん、で…………」
「なんでって記念じゃん。一緒に過去の僕達の鑑賞会でもしようよ。これはボイスレコーダーだから、見るのは写真になるけどさぁ、きっと楽しいよ?」
改めて写真に目をやるとまたもや背筋が凍りつく。不意打ちで撮られた写真。盗撮のような遠くから撮られた横顔、後ろ姿。友達の顔は黒くマジックで塗りつぶされ、時には別の写真が重なり、私の姿だけが所狭しと飾られている。
「それとも――――――――」
勢いのままに家を飛び出した。
先輩の残念がる声が聞こえたような気がしたが、今度は追ってこなかった。言葉通り、右を左もわからず、震える手で地図を検索し、小走りで駅へと向かう。駅に辿り着き、最寄り駅まで電車を乗り継いで向かう。想像していたよりも先輩は遠い場所に住んでいた。
時刻は二十一時。
その日、それからの記憶はない。いつの間にか私は、自室のベッドで朝を迎えていた。
先輩と付き合い始めて十日目。早くも限界を感じている。大学へは行かず、講義には出ず、怠惰な一日を送っていたはずが、夕方になってどうしようもなく悠くんに会いたくなってしまった。
いつもの空気。優しい声色。穏やかな瞳。紡がれる言葉一つひとつが愛おしい。
どうしようもなく悠くんが好きで、その気持ちに背いて先輩と付き合っている自分。
最低だ。
本当は合わせる顔だってないはずなのに、それでも会いたいと思ってしまうのは、きっと悠くんのせいだ。悠くんが優しすぎるせいで私はこんなにも最低な人間に育ってしまった。そんな最低な自分を自覚した上で、悠くんに事の末端を話した。藁にも縋る思いだった。悠くんにも気になる女の子がいるかもしれないのに、悠くんのために自制心を働かせることができなかった。自分のためだけに、自分が助かりたいがために、悠くんにSOSを送っている。
あれだけ嫌悪感を露わにしたにもかかわらず、私と先輩は似たもの同士で、自分中心的だった。
他者が贈る「可愛い」だとか「綺麗」だとか上っ面だけを称えた言葉は私に似合わない。
もし私に翼が生えているとしたならば、それは天使のような純白の翼ではなく、悪魔のような濡羽色のとげとげしい翼なのだろうと密かに思う。見えるはずもない濡羽色の翼を隠すため、私は適当に結っていた髪を乱暴に解いた。
そうして、自己嫌悪に陥りながらゆっくりと目を細め口角を上げ、嘘にまみれた笑顔を浮かべた。




