2.藍色の予感
姚ちゃんから「明日は一緒に登校できない」と連絡が来て、「どうせ彼氏と登校するでしょ?明日からは別々で登校しよう」と送ってからは、姚ちゃんと過ごすことのない日々が続いている。どうやら先輩は姚ちゃんの家の近くまで迎えに行っているようで、朝早くから駅で先輩を見かけることもあった。姚ちゃんが先輩と付き合い始めて五日、一週間と時間は流れていくが、姚ちゃんから連絡は来ない。かといって僕から連絡するような事柄もない。元から頻繁に連絡するわけでもなかったのだから、いずれ来たる日常がやってきただけの話だが、幸せな夢から覚めたような感覚を覚えて、虚無感を知って、帰宅後には枕を涙で濡らしている。姚ちゃんなら「乙女かよ!」とツッコミを入れてくれるだろうけど、自分の行動に自分でツッコミを入れるほどの元気はない。
「ゆーうー!ご飯にするから下りてきなさい!」
母に呼ばれて渋々一階へと降りると、母は僕の顔を見るなり苦笑した。
「あら、悠!姚ちゃんに振られたの?」
鋭い。あまりの鋭さにギクリと身体が固まった。それを悟られないよう、淡々と返す。
「そんなんじゃないから」
「もー、そんなこと言っちゃって!ジメジメしすぎてキノコ生えそう」
「はいはい、キノコは夕食にでも使って下さい」
「んもー、また面白いこと言っちゃってぇ!!」
母が一人で楽しそうにはしゃいでいるのは何よりだけど、とにかく早く一人になりたい。
父はまだ帰っておらず、母と僕の二人分のご飯と味噌汁をよそって、グリルの焼き魚を皿に移す。フライパンの中の野菜炒めを大皿に盛って、よそった皿の数々を食卓に並べていく。母が最後に冷や奴をつけたし、僕が箸を並べ、それぞれ席に着いたら夕飯が始まる。
「悠、姚ちゃんに何て言って振られたの?」
「振られてないから。あと、僕が姚ちゃんのこと好きなの前提で話を進めないで」
好きだけれども。
「でも、最近元気ないじゃーん。登下校も一緒じゃないみたいだし」
「姚ちゃんに彼氏ができたんだよ。だから、姚ちゃんは彼氏と登下校してるの」
「え!?じゃあ、告白もしてないのに失恋しちゃったのかぁ!」
「だから失恋とかじゃないから!」
大嘘だ。大失恋だ。まさか姚ちゃんが誰かの告白に応えるとは思わなかった。
「先輩もいい人そうだし、仲良くやってるんじゃない?」
「姚ちゃんの相手、知ってるんだねぇ。分かった、母さん、今度アイス買ってくるから元気だしな!」
「うるさい!励ましなんていらないから!」
「もぉー!心配してるだけなのに!」
母はいつもお節介だ。それが時折鬱陶しい。
正直、どうすれば良いのか分からない。このままで良いのか。たとえ姚ちゃんが先輩と付き合っていたとしても、自分の気持ちを伝えないままで良いのか。それで後悔はしないのか。
自問自答を繰り返して、枕を濡らして、腫れぼったい目で朝を迎える。女々しくて情けなくて、自分でも自分が嫌になるけれど、結局自分以外の何者にもなれなくて大きな溜息をついた。
僕から臆病を取り除いたら何も残らない。そんな気がする。
「おはよう」
講堂で席に着いた途端に突然知らない声が降ってきて、ビクリと肩が震えた。誰かが誰かへ向ける声とは違い、すぐ近くで聞こえた。顔を上げるとそこには、ショートカットでロングスカートのよく似合う美人がいる。シンプルな白いブラウスにちらりと光る銀のネックレスが彼女を上品に見せている。ベージュのサンダルで涼し気で、黒地に紫や赤の小花が散ったロングスカートがひらりと揺れる。
「あ、えっと」
「おはよう、皐月くん」
喉元まで出かかった言葉はすぐに引っ込む。名前を呼ばれたことで、「誰ですか」と聞くのが失礼な気がした。この講義の受講者であるならば四月に自己紹介をしているから、僕のことを知っていてもおかしくはない。特段目立つような自己紹介はしていないつもりだが、まだ三ヶ月も経っていないのだから記憶力のいい人は覚えているかもしれない。一方僕は、誰が同じ講義を受けているかなんて気にかけたこともなく、名前どころか顔さえも誰一人覚えていない。加えて本当にこの講義の受講者なのかと考え始めると、「誰ですか」の代わりとなる言葉はなかなか出てこない。婉曲的に問うことが非常に難しく、「僕は貴方の事なんて知りません」と言っているに等しい語彙しか出てこない。
目を泳がせる僕の様子に、彼女は堪えきれないと言わんばかりに吹き出した。
「あっはは!わっかりやすぅ!私、毎週同じ講義受けてるんだけどなぁ」
「ごめん…………おはよう」
「あははっ、おはよう!私、宮下。今日もあの可愛い子と登校してないね。最近になってよく見かける、あの可愛い子と一緒にいた先輩は彼氏かなぁ?」
「え?あ、ああ」
目立たない僕が姚ちゃんと登校していたことを認知されているとは思わなかった。前にも言った通り、幼馴染であることを隠しているわけではないため誰かに目撃されていても全くおかしな話ではないのだが、改めて他人から指摘されると恥ずかしいような寂しいような悲しいような、複雑な気持ちになる。同時に妙な緊張感が走る。
「で、あの可愛い子は皐月くんの元カノ?」
「!?ゴボッ…………ゴホッ、ゴホッ……!?」
飲み込もうとした唾が気管に入った。
「大丈夫!?」
「…………だい、じょ、ばない…………」
違和感を排除するために何回か咳を繰り返し、水を飲み、ようやく落ち着く。その間、彼女は優しく僕の背中を擦った。
「落ち着いた?」
「うん、ありがとう。…………えっと、その…………ただの幼馴染だから」
「え、そうなの?」
「うん、違う、ただの、幼馴染み」
あぁ、辛い。込み上げてくる敗北感。はっきり口にしない方がよかったかもしれない。臆病な心に逆らわず、幼馴染という地位に甘んじて呑気な日々を過ごしていた過去の自分が恨めしい。でも、こんなところで泣くわけには――――――。
僕は必死に涙を堪えて、無理矢理に笑った。
「踏み込んだ質問を不躾にごめんなさい。私、無神経だった。だから…………無理して笑わないで」
「え?」
「あからさまに動揺して、潤んだ瞳で微笑まれたって誤魔化せないよ」
「……………………」
「何か辛いことがあったんだね。複雑な事情があるんだね」
彼女があまりにも優しい声をかけるものだから、堪えたはずの涙が再び瞳を潤していく。
「ごめん」
僕は慌てて鞄からハンカチを取り出そうとした。すると彼女は僕より早く自分の鞄からフェイスタオルを出して僕に渡す。
「まだ使ってないやつだから、よかったら使って。私でよかったら何でも相談乗るからね。…………じゃあ」
彼女はそう言って僕が座っていた席から離れていった。姚ちゃんみたいに明るくてよく笑う子だった。優しく、彼女の程よい距離感が今の僕にはありがたかった。
僕は受け取ったフェイスタオルで顔を覆い、一人静かに涙を流す。タオルからは爽やかなシトラスの香りがした。
姚ちゃんが先輩と付き合い始めてから十日。時期は蒸し暑さに悩まされる七月となり、これからは次から次へと迫り来る試験の嵐で落ち込んでいる余裕はなさようだ。ただただ無心で机に向き合い、単語を一つでも多く吸収しようと講義で配られたレジメをノートにまとめていく。
そんな時、ピロンと鳴った携帯に目をやれば、久しぶりの姚ちゃんからのメッセージ。一瞬にして込み上げた『姚ちゃん愛』が僕を携帯へ飛びつかせる。
『ねぇ、今からうちにおいでよ。一緒に勉強しよ。』
『彼氏はいいの?』
『うん。今日は予定があるみたいなの。最近悠くんに会ってないし、ちょうどいいかなぁって思って。』
姚ちゃんからのお誘い。勿論、断るわけがない。
『まぁ、いいけど。彼氏、嫉妬しない?』
『んー、そんな人じゃないと思うよ。何か言われたらちゃんと説明するし、それに、たまには惚気話も聞いてよね。』
『えぇぇ……………。』
『嫌そうにしないの!と・に・か・く!鍵開けて待ってるから、いつも通り入ってきてどうぞ〜。』
『はいはい。』
姚ちゃんは先輩と普段どんな話をしているのだろうか。そんな人じゃない、といった姚ちゃんの言葉に引っかかりつつも、僕は広げていた勉強道具を通学用に使っている鞄に詰め込んだ。自宅の門を出て、すぐ隣の門をくぐり家に入る。
「お邪魔しまーす」
「いらっしゃい、悠くん。なんだか久しぶりねぇ」
「こんにちは、美紀さん。姚ちゃんは部屋に?」
ひょこっと顔を出した姚ちゃんのお母さんに聞けば、姚ちゃんに似た穏やかな微笑みで「リビングよ」と教えてくれる。
「悠くん、久しぶり〜」
「はぁ、久しぶり。元気ですか〜?」
「うん、まぁ〜ね〜」
七月の暑さは、もう穏やかさの欠片もない。そろそろ姚ちゃんは体調を崩すのではないかと僕は密かに心配していたが、気の抜けた声に心配した僕が馬鹿だったのではないかと思わされる。
僕は早速姚ちゃんの正面の椅子に座り、机の上に勉強道具を広げる。筆箱からペンを出そうとしたところで美紀さんが冷たい麦茶と煎餅を出してくれた。姚ちゃんは心理学のテキストを片手に、僕に出されたはずの麦茶を一口飲み、大きなため息を吐いた。それから何か会話が始まるわけでもなく、再びテキストに視線を落とした。
「どうしたの?何かあった?」
そう聞いたのは僕だった。姚ちゃんはテキストを眺めているように見えて、なかなか集中できていないようだった。僕がペンを握りしめながら自宅でまとめていたノートを読み返していると、正面からチラチラ視線を感じる。
「……………………んーん、何でもないよ」
「あ、そう」
「もしかして、私の惚気話が聞きたかったのかな?」
「もしかして、僕に惚気話がしたかったのかな??」
お互い、にこぉっと意味深な笑みを浮かべる。ここからが勝負だ。先に吹き出した方が負け。睨めっこではないけど、ちょっとしたおふざけ。そうそう、これが僕たちの空気感。久しぶりだ。ニコリと微笑んでいるうちに、勝負に関係なく笑みが深まり、むしろだらしなく頬が緩むのを僕は必死になって我慢していた。
先に吹き出したのは姚ちゃんだった。何がツボに入ったのか分からないけど、大抵この勝負は姚ちゃんの負けで終わる。姚ちゃんのツボは浅いから、くふふっ、と楽しそうに声を上げて笑っては、僕の心臓を撃ち抜いていく。胸の辺りがポカポカと温かくなって、訳もなく顔が熱くなり、にやける口元を隠すように麦茶を口に運ぶ。
「あのね、最近ちょっと大学で上手くいってなくてさ」
「ん?そうなの?」
姚ちゃんはふぅ、と一息ついてから切り出した。友達と喧嘩でもしたのだろうか、と僕は首を傾げる。
「本当は相談しようか迷って、勢いのままに今日、呼び出しちゃったんだ…………」
「なぁんだ、やっぱり勉強は口実か」
「んふふっ、ばれちゃったかぁ」
隠しているつもりはなかっただろうに、そうやっておどけてみせる。これは姚ちゃんが深刻なことを相談したい時に無意識に出るサインだ。僕は少しばかり真剣になって姚ちゃんの話に耳を傾けた。
「なんかね、いつも視線を感じるの。良くない噂も流れてるみたいで」
「噂?」
「そう、噂。誰彼構わず色目使うとか、男を誑かす悪女だとか」
「は?」
「今まで普通に過ごしてきたつもりなんだけどなぁ」
「え、ちょ、ちょっと待って。それ、誰から聞いたの?」
「凛ちゃん。すごく言いづらそうにしてた。でも、凛ちゃん優しいから、私はこんな噂信じないよ、って言ってくれた」
「え、え?なんで?どうしてそうなったの?姚ちゃん、やっぱり彼氏が一人や二人――――――」
「なわけないでしょ!…………告白を断ることは何回かあったけど、同じクラスの人も同じ講義とってる人も、人間関係が円滑になるくらいの極普通の対応をしていたはずなんだけどなぁ」
姚ちゃんが悲しげに目を伏せた。根も葉もない噂に胸を痛めているのが伝わってくるから、僕も苦しくて悲しくて、今すぐにでも姚ちゃんを抱きしめたい気持ちになった。僕はここにいる。周囲が敵だらけだったとしても、僕はいつだって姚ちゃんの味方だと主張して安心させたかったが、姚ちゃんはあの先輩の“彼女“だ。その一つの事実が僕の衝動を抑えた。
「…………姚ちゃん、大学行くの辛い?」
「辛い、とまではいかないけど、やっぱり居心地悪いよね。全く知らない人にじっと見られることもあるし、知ってる人でも幾らか視線が鋭くなったような気がしてちょっと怖い。私の自意識過剰かもしれないけど、他の人が私を疑うように、私も他の人が信じられなくなってる。帰りに背後に気配を感じた時には、怖くて動けなくなりそうだった」
「先輩には相談したの?」
「できないよ。…………こんな噂、聞かれたくないし」
「そっか。でも、取り返しのつかないことが起こる前にどうにかしないと」
「そうだけど…………」
「僕から先輩に相談して――――――」
「だめ!!」
「え?」
「先輩には言わないで!お願い…………心配掛けたくないの」
姚ちゃんは有無を言わせぬ勢いで捲し立てた。
「ごめん」
僕のこの一言に、姚ちゃんは緩く首を振って「悠くんは悪くない」と呟く。その反応に、僕は心の中で謝罪を重ねる。小学生の頃に姚ちゃんのことを気に入らない女子集団が同調圧力で周囲を黙らせ、姚ちゃんを孤立させていたのとは訳が違う。悪評はクラス内に留まらず、不特定多数を巻き込む悪質な嫌がらせ。その上確証はないけど、ストーカー紛いの行為までされている。解決を図るために頼れる人を逃すわけにはいかない。姚ちゃんが危険な目にあってからでは遅いのだ。
僕は姚ちゃんを守るという決意を新たに、きつく拳を握った。