1.朱炎に告げる
彼女――――――姚ちゃんは、僕の幼馴染み。物心が付く頃にはもう側にいて、身体の弱い姚ちゃんと泣き虫で臆病な僕は、互いに互いを支え合って生きてきた。両親同士が親友で、血の繋がりはないのに親戚のように近い関係性。むしろ親戚より強い絆で結ばれているかもしれない。滅多に会うことのない親戚のことをぼんやりと思い出しながら、幼い僕は姚ちゃんの小さくて柔らかい手を握る。
姚ちゃんはいつだって笑っている。あまり日を浴びていない白い肌と痩せた手足は、とても健康的とは言えないけれど、ぱっちりとした瞳が穏やかに細められ僕に笑いかける度に、どうしようもなく嬉しくなって安心してしまう。長い黒髪が風に揺られ、風が桃の香りを運んでくると同時に、白い頬に桃色が咲く。美しいその横顔に翻弄されている僕の心を、姚ちゃんは知らない。
反抗期やら、思春期やら、そんな青臭い時期も懐かしく思えるくらいに時は流れ、僕たちは大人になっていく。僕は直に、二十歳となる。四月生まれの姚ちゃんは僕より少し大人で、三月生まれの僕はその背中を一生懸命に追っている。こうして時が経つと、姚ちゃんを想い続けられる僕はとても幸せ者なのだと思う。幼い頃から僕は姚ちゃんのことが好きだった。いつ、と断言できないほどに昔から。その気持ちに“恋”という名前が後から付いた。
同じ大学に通い、共に帰宅し、どちらかの部屋で夕食時まで過ごすのが日課となった。人生の中で両親よりも姚ちゃんと過ごす時間の方が長いのではないかと思うほどに、当たり前に時間を共にする。幼い頃は身体の弱かった姚ちゃんも、今となっては普通に生活できる程度には健康で、季節の変わり目に体調を崩しては僕が看病する、というのが大抵の流れだ。その流れの中に恋人のような甘い時間があれば良いのに、と願うことはあるが、そういった欲望はそうそう叶わない。
姚ちゃんが魅了するのは、僕だけではなくなった。
可憐さと無邪気な心。おっとりとした穏やかさと優しい眼差し、時折見せるはにかみ笑い。ぷくっとした脹れっ面も思わず触れたくなるほどに愛おしい。ジーンズ生地のショートパンツから露出する白い美脚、キャミソールの上にさらりとした薄手で丈長のシャツを羽織り、肌色を透かす。ふわっとした緩いお下げに、お洒落な伊達メガネ、そしてそのレンズ越しに映る上目遣いに、僕の心臓はまたもや射貫かれる。
シンプルを完璧に着こなす姿に、通りすがりの人々が見とれるものだから、僕も油断してはいられない。姚ちゃんに釣り合うようにと髪型も服装もガラリと変え、大学生デビュー…………したつもりだ。ストレートの前髪をセンターで分けて、姚ちゃんとお揃いの伊達メガネで武装する。僕にとって伊達メガネはお洒落のためではなく、センター分けのせいで涼しすぎる顔面を保護するためのものなのだが、姚ちゃんは『お揃い』の言葉に反応して嬉しそうに僕のメガネをよく突く。服装はゆるっとした、そこらへんの雑誌によくいる男子大学生そのままだ。
今日も姚ちゃんは、化粧をしてより美しくなった横顔で僕に笑いかける。姚ちゃんは一体僕をどうしたいのだと内心思いつつ、僕は精一杯に平静を保つ。僕は幼い頃から臆病なまま、告白の「こ」の字も載っていないような辞書を抱えて姚ちゃんの瞳を見つめる。
「悠くん」
姚ちゃんが僕の名前を呼んだ。何でもないその一声に堪らなく幸せを感じる。
「今日の講義、ちゃんと予習してきた?事前に配られたレジメに目を通したけど、悠くんもちゃんと予習しておかないと置いて行かれちゃいそうなほど難しそうだったよ」
「大丈夫だよ、ちゃんと復習するから」
「もー!予習、講義、復習がベストなんだよ!昨日聞いたときには『寝る前にやる』って言ってたじゃん!私、悠くんが置いていかれても知らないよーだ!」
「…………僕、姚ちゃんより頭いいもん」
「なっ!?またそんなこと言って!私と悠くん、成績同じくらいだってこの間先生言ってたよね!?」
「んー、なんのこと?」
「もー!すっとぼけちゃって!そゆとこ、かわいくない!!」
「いや、僕、可愛くなくて良いんだけど…………」
「ふんっ!」
そうやってそっぽを向く姚ちゃん。姚ちゃんが僕と二人の時だけに見せる兄妹のようなやりとりも嫌いじゃない。ただ、恋人としての特別感とはまたどこか違うような気がして、僕はがっくりと肩を落とす。むすっとした表情を見つめ、僕は自棄になって思ったことをそのまま口にする。
「姚ちゃんは、怒った顔も可愛いね」
「へっ?」
「あ、照れた」
「てっ、照れてないから!からかわないでよ、もう!」
そう言いながら桃色に染まる頬は、やはり姚ちゃんの魅力を倍増させているような気がする。姚ちゃんの頬と同じような色の頬紅が発売されたら即完売しそうだと、ふと思った。
「三影ちゃーん!!」
姚ちゃんを呼ぶ声が聞こえて振り向くと、そこには遠くから大きく手を振る姚ちゃんの友達の姿がある。僕は「じゃあ」と言って姚ちゃんの元を離れると、姚ちゃんは「またね」と僕に小さく手を振ってから、友達の元に駆け寄っていった。
「三影ちゃん、おはよう!皐月くんの逃げ足は相変わらずだねぇ」
「おはよう、凜ちゃん。皐月くんは別に逃げているわけではないと思うよ。私と凜ちゃんが仲いいから多分気を遣ってくれたんだと思う。友達水入らずってね」
「んもうっ!三影ちゃんは相変わらず可愛いなぁっ!でも皐月くんも、そうやって気を遣ってくれなくて良いんだよなぁー!私は皐月くんとも話してみたいし」
「え、そうなの?」
「そうだよ!皐月くん、すっごく落ち着いてるけど根暗ってこともなくて、優しい雰囲気あるよねってそこら辺の女子がよく噂してるんだよ」
「へー」
小さく相づちを打つ。そして小さく呟く。
「――――――私の方が悠くんの良いとこ、知ってるもん…………」
「ん?何て言ったん?」
「ううん。凜ちゃんだって朗らかで頼りがいあるから、人気高いんじゃないのかなぁーって」
「きゃー!可愛い奴め!そんなに煽てたって飴ちゃんしか出ないんだから!はい!」
「ふふふっ!ありがと」
そんな平和な会話を耳に挟むこともなく、僕は一人で講堂へ向かう。僕に友達はいない。月曜と水曜の三限目だけ姚ちゃんと同じ講義を受講しているが、それ以外はひとりぼっちの寂しい奴だという自覚がある。それも講義終了後には大学構内の広場で姚ちゃんと合流するのだから、あまり気にしてはいないのだけど。
大学生活二年目ともなれば、安定して代わり映えのない日々が過ぎていくと思っていた。しかし、現実そう平坦なものでもない。二年生になったら二年生になったなりに忙しくなった。定期的な復習が欠かせない難解な講義。課題に次ぐ課題。それでも、僕はなるべく姚ちゃんと過ごすようにしていたし、帰宅後、姚ちゃんの部屋で共に課題を消化してそのまま夕飯を御馳走になることもある。
だがそれも長くは続かなかった。
「悠くん、私、告白された」
「――――――え?」
肌に纏わり付くような蒸し暑さが始まる六月下旬。いつものように課題に取り組みながら、姚ちゃんは唐突に口を開いた。
「告白、された」
「誰に?」
「同じ講義とってる先輩」
「そ、そ、そうなんだ。へっ、へぇー」
「何で悠くんが動揺してるの?」
「いやぁ、ちょっとびっくりして」
姚ちゃんは僕の反応を見てクスクスと笑う。よりゃあ姚ちゃんはモテるだろうけども、今までそういった類いの話を持ちかけられたことがなかったのだから動揺しても仕方がないと思う。他の誰かに想われていることも、告白されることも初めてではないと分かっている。だけど、それをなぜ今になって報告してきたのか分からない。ただ、なぜか姚ちゃんの友達から「告白を断ったらしい」と聞かされることがしばしばあったため、告白されたとしてもどうせいつもの如く断ったのだろうと、僕はどこか楽観的に構えていた。
「付き合うことになったの」
喉の奥が張り付いて水を口に含んだとき、またもや姚ちゃんは唐突にそう言うものだから、上手く水を飲み込むことができず僕は激しく噎せ込んだ。
「大丈夫!?」
「……………………だいじょばない」
「そんなに驚かれたらちょっと傷つくんだけど!私だって大学生になってもう一年以上経ったんだから、彼氏の一人や二人――――――」
「いや、浮気はダメでしょ」
「同時に二人な訳ないでしょ!…………とにかく、明日から私、先輩と一緒に勉強するの」
「デートじゃなくて?」
「それは追々ね」
追々。そんな言葉が僕の心に嵐を起こす。姚ちゃんの幸せを願う気持ちと、姚ちゃんの隣で幸せになる誰か。その誰かが僕でありたかったと情けなく項垂れる自分と、片思い歴十数年の臆病な自分。
誰かと付き合う。それはきっとただ隣にいるだけではない。手を繋いで、ハグをして、口付けをして、そうして濃密な時間を重ねるということ。そんな嫌な想像が脳裏を過る。そして胸が苦しくなる。
適当な理由で自宅に帰り、無心でペンを握って、無心でノートに単語を書き綴った。身の入っていない勉強を、無心でいるために何時間も繰り返した。
一瞬にして変わった。登校は共に、下校は独り。姚ちゃんとの時間が確実に減り、平静を保つのが登校という短い時間であることが、不幸中の幸いと言って良いものか、僕には分からなかった。
姚ちゃんが大学の先輩と付き合い始めて三日。まだ三日しか経っていないと思われるかもしれないが、この現状をより的確に一言で表すとしたら『姚ちゃん不足』だ。あの柔らかく微笑む姚ちゃんの横顔が他の誰かへ向けられていると考えただけで、心臓が嫌な音を立てる。広い大学構内ですれ違うことはそうそうないし、すれ違ったとしても気づかない。大学では姚ちゃんは僕の事を『皐月くん』と呼ぶし、僕も姚ちゃんのことを『三影さん』と呼ぶ。別に幼馴染みであることを隠しているわけではないが、それが近すぎず離れすぎない学校内での距離感だった。
「さつき、さん?ちょっと時間良い?」
「え、あ、はい」
「来て」
二限の講義が終わって昼休憩に入ってすぐ、荷物をまとめていると見知らぬ男が僕に声を掛けてきた。心当たりもないままに、とりあえず僕は荷物を持って男の後を付いていく。僕よりも背が高く、背中の大きな人だった。短髪で爽やかな印象を持つこの人が一体誰で、何の用で声を掛けたのか見当も付かないが、好青年な印象の彼を疑わず、誘拐犯でないことだけを祈りながらほいほい着いていく。
多くの学生が昼食を食べる広場に出たとき、空いているベンチに腰掛けて彼はパンをポケットから取り出した。僕は彼に習ってベンチに腰掛け、鞄から取り出したお弁当の包みを膝の上で広げた。
何とも気まずい。
「あれ?どうしてこうなった?」と自身に問いかけるが、彼に着いていく前に目的を聞かなかった自分が悪いと記憶が告げるものだから、彼が口を開くのを待ちながら黙って味のしないおかずを口に放り込む。
「皐月さん、三影さんと幼馴染みって本当?」
「え?」
「だから、三影さんと幼馴染みなの?」
「あ、はっ、はい、そうですけど?」
突然出てきた姚ちゃんの名前に、僕は真っ白な頭のまま答えた。
「あーごめん、名乗るの忘れてた。三年の瀬名陸斗です。俺、最近三影さんと付き合い始めて」
「え、あー、同じ講義とってる先輩って」
「三影さん話したんだね。そっか、幼馴染だもんな」
「まぁ」
姚ちゃんの彼氏こと先輩の言葉に、僕は曖昧に答えた。
「………………三影さんって綺麗だよね。友達と話しているところ聞いてても穏やかで優しそうで、抱擁力があって心地良くて――――ってごめん、こんなことが話したかったんじゃなくて」
先輩は大きな口でパンを頬張り咀嚼しゴクンと呑み込むと、真っ直ぐに僕の方を見た。そんな真正面から見られるとは思っていなくて、驚きながらも僕は箸を止めて相手の言葉を待つ。
「お願いしに来たんだ。……………………俺、皐月さんが三影さんと朝に登校してくるのを見るともやっとする。嫉妬してる。だから、三影さんと登校するのをやめて欲しい。自分勝手なお願いだって分かっているけど、本当にただの幼馴染みなら、この願いを聞き入れてくれないか?」
先輩は真剣な瞳をしていた。僕の中では「ただの幼馴染みなら」という言葉が反芻されていて、思わず現実逃避に走ってしまう。あ、お花きれい。飛行機飛んでるー。今日の空は青いなぁ。わぁ、目の前に宇宙が広がってるよ、なんて。受け入れたくないことを右から左へ流してしまう。
先輩が僕の目の前に手を翳してやっと我に返った。
「先輩、僕が嫌だって言ったらどうするんですか?」
「どうもしないよ。ただ俺が三影さんの彼氏だって牽制するくらいかな」
「けん、せい……………………」
「明日は俺が三影さんと登校するから、考えておいて」
「え、あの」
「じゃ」
先輩は食べ終えたパンの袋を綺麗に畳んでポケットに突っ込みながら離れていく。雑なんだが丁寧なんだか、友好的なのか排他的なのか、つかめない。でもよく考えれば当然の心理だった。僕が他の誰かに嫉妬するように、姚ちゃんの彼氏となった彼が僕に嫉妬したって全くおかしな話ではなかった。
「どうすればいいんだよ……………………」
既に牽制は始まっている。彼氏という立場を免罪符にして振る舞う先輩の態度に、若干の苛立ちを覚える。年季の入った僕の想いも知らず、横から掻っ攫っていた。そんなふうに思ってしまう。その上、余計な荒波を立てたくない僕は先輩の言葉に納得できない癖に首を縦に振らざるを得ない。それが無性に腹立たしい。僕が先輩の言いなりになる義理はないのに、僕の性格上その選択肢しか取れない。
悔しい。
気を抜くと涙が出そうになって、慌ててハンカチを取り出す。誰にも見られていないことを願いながら、僕は空腹を鎮めるだけの昼食を胃の中に収めていった。
僕は姚ちゃんの幸せを一番に願うはずだった。そこへ自我が乱入しようとしている。
それが一番、許せなかった。