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思わず背筋を伸ばして、両手で数回、頬を軽く叩く。今から話すべき内容を頭の中で再度、確認していると、ドアベルが軽快な音を立てて鳴った。
「いらっしゃいませ」
コウ君はウエイトレスと短く言葉を交わして、店内をゆっくりと見回す。窓際の席に莉子の姿を見つけると、柔らかく微笑みながら軽く右手を挙げた。
きめ細やかな肌の白さを際立たせる、ややウェーブがかかった漆黒のショートヘア。適度に筋肉質な体をさりげなく包んでいる、ゆったりしたシルエットのカーキ色のスーツ。
笑うと、整った顔の上に絶妙なバランスをもって配置されている目の外側に、小さな皺が二本、刻まれた。
――いつも通りのコウ君だ!
莉子は、喜びの声を上げながら駆け寄りたい衝動に駆られつつも、周囲の視線の手前、遠慮がちに手を振る。
「久しぶり」
とはいうものの、ほんの一週間ぶりだった。ただ、その一週間が、莉子には一ヶ月、いや一年にも感じられた。コウ君は莉子の向かいの席に腰かけると、今一度、優し気な顔で笑いかけてきた。
「こんにちは。いつも電話が来るのはオフの前日なのに、突然、今日会いたいなんて、びっくりしましたよ」
「ごめんね。でも、どうしてもコウ君にお願いしたい話があって……。実は、人捜しなんだけど」
「人捜し……ですか?」
莉子は、コーヒーカップに向けていた視線を、さりげなくコウ君に移動させる。突然の相談ごとに、戸惑っている様子だった。
「うん、他に頼れる人がいなくて」と言いながら、思わず兄の笑顔を思い浮かべる。
「手がかりはありますか。例えば、そうですねえ、写真とか……」
コウ君の言葉に、莉子は思い出したようにバッグから写真を取り出して、テーブルの上に置いた。
「この人なんだけど……」
写真の下には、名前と住所を書いておいた。コウ君は写真を見ながら、簡単な質問を続ける。
「この住所には、行ってみたんですか?」
「うん。一度行ってみたんだけど、インターフォンのボタンを押しても、誰も出なくて……。もぬけの殻だったみたい。鍵がかかってたから、中の様子もわからなかった。本当にむかつく」
あんな事件の後だ。恐らく、安全な場所に身を潜めているに違いなかった。
「なるほど。よっぽど会いたいんですね。詳しいいきさつは聞きませんが、会ってどうしたいんですか?」
「引っぱたいて、絶対にぶっ殺してやる」
興奮して、つい乱暴な言葉が出た。
「おやおや、穏やかじゃないですね。でも、今をときめくアイドルグループの莉子さんが、そんな乱暴な言葉を使っちゃ駄目ですよ」
コウ君は、莉子の突然の激しい言葉遣いを、やはり笑顔でたしなめる。表情を崩さないままで写真を取り上げると、スーツの胸ポケットに入れた。
「じゃ、この人については、僕のほうで調べてみます。進展があったら連絡しますね」
余計な詮索をしないコウ君の態度に、莉子の信頼感はますます深まった。
コウ君が注文したウインナーラテが運ばれてきた。コウ君は、さっそくカップに口をつけると、熱そうに顔をしかめた。
「僕、猫舌なんですよね」
知っている。美形であるコウ君のしかめっ面が愛しく思えて、莉子は思わず笑みをこぼした。
*
莉子がコウ君と初めて出会ったのは、今年の夏前におこなわれたライブでの握手会だった。握手会というのは、ライブ後にグッズを購入した人だけが、お気に入りのメンバーと握手できるというイベントだ。その日の握手会で、莉子はいつものように、グッズ販売スペースの横に置かれた長机の前に座っていた。すると、列に並ぶ一人の男性に、ふと目が留まった。
自分たちのファンに失礼な言い方だと理解してはいるのだが、莉子たちのライブを訪れるファンの多くは、お世辞にも爽やか美男子とは言い難い。そんななか、その男性はテレビの液晶画面の向こうで、マイクを片手に華麗なダンスを披露していてもおかしくないほどの強いオーラを放っていた。
莉子が見とれていると、購入したTシャツを大事そうに抱えた男性は、迷うことなく莉子の前に歩み寄ってきた。
「僕、一生、莉子さん推しです」
男性は、咲良でも紗英でもなく、莉子の名を口にした。少しばかり、はにかんだ表情だった。
――この人が、私のファン?
予想もしていない展開だった。急に、心臓の鼓動が高まる。アイドルという自分の立場を忘れて、少々舞い上がった。
隣に座る咲良を、横目でチラリと見る。あまり気にしていない様子だったが、その冷静な表情の裏に、ただならぬ嫉妬心を秘めているようにも見えた。
向き直り、莉子は勝ち誇った気持ちで、その男性に手を差し伸べた。
好むと好まざるとにかかわらず、数多くの人間と握手をしてきた莉子にはわかる。男性の手は、ピアニストのように細く繊細な指に似合わず、内に秘めた強さを感じさせる手だった。
「応援、有り難う。今日の私、何点だった?」
「もちろん、百点満点でしたよ!」
握手をしながら、今一度、正面から顔を見上げる。真っ白な歯を眩しく光らせる完璧な笑顔に、莉子の目は改めて釘づけになった。
すると、男性は、あらかじめ購入していた莉子のTシャツを差し出してきた。我に返った莉子は、慌ててTシャツの上に油性サインペンを走らせる。
「お名前は?」
「小笠原孝弘といいます。皆には、“コウ”って呼ばれてます」
以来、コウ君はライブの度に最前列で莉子に声援を送り続け、その後の握手会では莉子の前で両手を差し伸べながら爽やかに笑った。莉子が、そんなコウ君と親密な仲になるのに、さして時間はかからなかった。
コウ君は莉子に対して、ただ優しいだけの人物ではなかった。困った状況になったときには、何でも相談に乗ってくれた。
しかも、驚くほど顔が広く、その交友関係の広さを活用して、ときには莉子の身に降りかかった問題をいとも簡単に解決してくれる場合もあった。本当は、決して“いとも簡単に”ではなかったのだろうが、その迅速かつ鮮やかな手並みから、少なくとも莉子の目には簡単に解決しているように見えた。
以前、病的に熱心なファンにつき纏われて、迷惑に感じている時期があった。どこで調べたのか、莉子が行く先々で待ち伏せしたり、執拗に後をつけたり……。ときには、不意に自宅マンションの前に現れることもあった。
男の行動は、明らかに常軌を逸していた。男の行動が原因で、莉子は二回も引越しを強いられる羽目になった。精神的にも追い詰められていたが、事務所に相談しても曖昧な返事ばかりで、満足のいく対応はしてもらえなかった。
そんなある日、藁にもすがる思いで、その男の迷惑行為の数々をコウ君に話した。場所は、やはりこの喫茶店だった。
「僕に任せておいてください」
話を聞き終わったコウ君は、目を細めた。そして、その日以降、男が莉子の目の前に現れることは、二度となかった。
莉子は、男が現れなくなった理由を、コウ君に聞いたことがある。
「ちょっと友人に協力してもらって、説得しただけです。『そんなことをしてると、いつか捕まることになるよ』って。だから、莉子さんは何も心配しなくてもいいんですよ」
コウ君はいつものように、世界中の誰よりも涼やかな笑顔を見せるだけだった。そのときのコウ君は、莉子にとってまさに“白馬に乗った王子様”だった。
今回の人捜しも、依頼相手は最初からコウ君以外に考えていなかった。
――やっぱり、コウ君にお願いして、正解だった。
莉子は、心の中に引っかかっていた小さなつっかえが取れた気がして、小さく安堵の息を吐いた。