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「あらあ、また咲良とひと悶着?」
緊張感のない、少々間延びした声が後ろから響いた。振り向くと、栃ヶ谷紗英が腰に手を当てて、呆れた笑顔を見せていた。
紗英は莉子にとって、グループ内でもっとも親しい友人の一人だった。背がすらりと高くて、ルックスも咲良ほどの華やかさはないが、少なくとも美人と形容できるぐらいには整っている。天然っぽいキャラクターを前面に押し出しながら、トークも歌もダンスもそつなくこなすという、グループを代表する技巧派で、上位五人の次の世代を担うホープと目される存在だった。
当然、咲良やその他の多くのメンバーからも、一目置かれていた。
紗英は、莉子の肩に手を回しながら、明るく微笑んだ。いつも思うのだが、この笑顔にはやはり敵わない。紗英の笑顔と独特の雰囲気に、莉子の怒りは一気に和らいだ。
「気にしない気にしない。一休み一休み」
よくわからない慰めの言葉を口にすると、紗英は突然、莉子の前に回り込んで振り返った。莉子の両肩を掴んで眉間に皺を寄せながら、場違いとも思えるほどの厳しい表情で、莉子の顔を覗き込む。
「莉子、このあと、どうするの? 今からヒマ? もしヒマだったら、買い物につき合ってくれない? ちょっと気になる服があるんだ」
紗英は、何に対しても、つねに全力投球だ。他愛のない話題について、こちらが笑ってしまうほどの険しい表情で言葉を発するのは、いつも通りの展開だった。
買い物には、もちろんつき合ってあげたかった。しかし、今の莉子には、それはできなかった。
「ごめん。今から、ちょっと行かなきゃならない場所があるんだ」
紗英は一瞬、残念そうな表情をした。しかし、すぐにいつものさっぱりとした表情に戻ると、「そっか」と言いながら、あっさりと引き下がった。
「じゃ、また今度、お願いね」
その引き下がり方に、負の感情はまったく感じられなかった。清々しくさえあった。
はっきり断ってよかったと、莉子は思った。
――ありがとね、紗英。
莉子は、紗英に対してささやかな感謝を感じながら、更衣室に入った。
更衣室の奥では、莉子のことなどすっかり忘れたように、咲良が他のメンバーと談笑していた。
*
それから四十分後、莉子は新宿の雑居ビルの二階にある喫茶店にいた。
莉子はコーヒーを飲みながら、間もなく現れるであろう人物に持ちかける相談内容について、改めて考えていた。
兄に関する話だ。
――お兄ちゃんが、何者かに刺された。
――それも真昼間、歌舞伎町の事務所で。
以前から、いつかこうなるのではないかという、予感めいた考えはあった。
歌舞伎町に事務所を構えているという時点で、多かれ少なかれ誰かしらの恨みを買っているであろうことは、あくまで素人考えの範疇を出ないが、何となく想像していた。しかし、そんな兄でも莉子にとっては、かけがえのない肉親である事実には変わりがなかった。
幼いときに父親が他界した莉子は、兄とともに母子家庭で育った。兄と莉子は十歳の年齢差があったため、家の中では兄が莉子の父親代わりになった。
つねに冷静に先を見る性格から、ときには冷たい人物と印象をもたれることもあったが、実はとても優しく、面倒見のいい兄だった。
母子家庭での生活の苦しさから、兄は中学三年生になった頃から新聞配達のアルバイトをはじめ、家計を助けた。妹の莉子が中学三年生になり、突然、アイドルになりたいと言ったとき、反対する母親を説得してくれたのも、他ならぬ兄だった。
――莉子だけには、自分の好きな進路を選んでほしい。
はっきりとは口に出さなかったが、兄はそう考えているようだった。兄の説得のおかげで、高校に進学して勉強を続けるという条件つきで、莉子はアイドルになることを許された。そして、プロダクションの社長からもらった“朝霧莉子”という名で、アイドル活動をスタートさせた。
念願が叶ってアイドルになることができた莉子にとって、兄には感謝の念しかなかった。しかし、いくら“その他大勢”の一人とはいえ、社会的影響力が決して小さくないアイドルグループの一員という立場上、歌舞伎町に事務所を構える人物との関係を表沙汰にするわけにはいかない。無意識に、そのような線引きをしている自分がいた。
もちろん、兄は線の外だった。
メンバー全員が受けている、コンプライアンス講座の影響も大きかったように思う。「怪しげな人たちとは、距離を置くように」という講師の言葉を聞いたときに感じた、全身に電気が走ったような緊張感は、今でも忘れることができない。
熟慮の末、兄の職業は、自分が所属する事務所には秘密にした。グループのメンバーたちには、兄の存在さえ明らかにしなかった。気の回し過ぎと言われてしまうと否定はできないが、莉子にとっては、それが最善の選択肢に思えた。
三年前に母親が突然この世を去って以降、アルバイトとレッスンに明け暮れる莉子に対して、兄は金銭的な援助もしてくれるようになった。しかし、莉子は兄の行為に感謝しながらも、その距離感を変えることはなかった。
もっとも、兄と距離を置いていた理由は、それだけではない。一人前になるまでは兄と会うまいという、自己に課した覚悟のような思いもあった。兄に会えば、甘えてしまうかもしれない。迷いを断ち切るには、自分の甘えや逃げ道を敢えて絶つ、いわば背水の陣を敷くしかなかった。
そのような、さまざまな理由から、莉子は同じ東京都に住みながらも、この二年ほど兄とは会っていなかった。実は、兄には自分が所属しているグループの名前さえ告げていなかった。
しかし、それだけ距離を置いていても、やはり兄妹だ。兄に対する思いを完全に断ち切ることなどできはしない。しかも、兄に会わなかったこの二年間、莉子は“その他大勢”の一人なりに頑張ってきた。決して経済的に余裕があるわけではないが、自分の力で生きていけるほどの収入も得られるようになっていた。加えて、兄は今年の四月で三十歳になり、莉子は八月で二十歳になった。
そろそろ、こっそりなら会ってみてもいいのではないか。そして、このようなグループでこのような活動をしていると報告してもいいのではないか。そう思いはじめていた。
その矢先だった。
兄が刺されて、いなくなった。
あれから二週間。「こんなことなら、もっと早く会っておけばよかった」という後悔が、つねに莉子の胸に纏わりついていた。
――会えないほど、会いたくなる。
人間の心理とは、不思議なものだ。
莉子はコーヒーカップを再び口に運ぶと、兄への思いと一緒に、コーヒーを喉に流し込む。なぜだか、ことさら苦く感じた。思わず、むせそうになった。
咳を我慢しながら、喉のコーヒーを無理矢理、胃に流し入れると、窓から通りの方角に視線を送る。一人の男性が人混みを抜けながら、このビルの方向に近づいてくる様子が観察できた。高身長のため、人混みの中でも頭一つ抜きん出ている。あまりにも目立つ姿なので、誰だかすぐにわかった。
――コウ君!