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「納得がいかないのは、そこだ。恨みの強さとでも言ったらいいのか……、その辺りがどうしてもわからない」
突然、小山内が思い出したように「そうだ」と呟いて、バッグの中から黒い板のようなものを取り出した。タブレットとかいう、電子機器だった。
小山内は、タブレットを膝の上に置くとスイッチを入れ、何やら操作しはじめた。
「一年ぐらい前にも、よく似た事件があったような気が……」
――また、いつもの奴か……。
田所は、苦虫を噛み潰した。
小山内は、今どきの女性らしい外観とは裏腹に、特殊な嗜好をもっていた。一九九〇年代以降に起こった殺人事件や傷害事件を片っ端からファイリングし、細かく分類するというものだ。国内はもとより、一部には海外の有名な事件も含まれているらしい。聞くところによると、中学生のときに、この特殊な嗜好に目覚めたとの話だった。
かと言って、その内容を分析して、自分なりに犯罪の背景を推測したり、犯人像を絞り込んだりするわけではない。犯罪心理学などを学んだ経験があるわけでもない。
本人の言うには、事件の記録をひたすら収集して、その事件の全貌を眺めるのが楽しいのだという。今風に表現すると、ただの犯罪オタクだ。
捜査情報を入力したりはしていないか、念のために確認したところ、あくまで個人的な嗜好であるので、情報源はマスコミに限られているとの話だった。
当然だ。
内部の捜査情報を、そのような訳の分からない趣味のために利用したら、それこそ懲戒処分の対象になるだろう。
「あったあった。これです。去年の八月に鳥取県で起こった事件。今回の事件と似たような事件は結構たくさんありますけど、なかでもこの事件は、とくにそっくりなんですよね」
タブレットに表示された自作の犯罪リストを眺めながら、小山内は高揚した様子で喋り続ける。
「興味深いことに、その事件の犯人の自供によると……」
「わかった。それについては、また改めて聞こう」
強制的に、話を打ち切った。話を聞いても、どうせ着地点が見つからないことはわかり切っている。話の続きを拒否された小山内は、不満そうに口を尖らせた。
田所は、今回の事件に関する考察に意識を戻す。
疑問は“恨みの強さ”だけではなかった。“恨みの原因”もまた、頭を悩ませる要因の一つだった。
被害者は、歌舞伎町で仕事をしている人物が抱かれがちなイメージとはかけ離れた面倒見のよさで、他人から恨まれるような人物ではないという話だった。聞き込みを続ければ続けるほど、思い描く犯人像がぼやけて、手応えがなくなっていく。まるで、幻を追いかけているようだった。
――いったい誰が、何のために……。
我ながら、思考に鋭さが欠けていると思う。脳の周囲にかかった正体不明の靄のようなものが、思考の邪魔をした。刑事になって二十数年、最近はこのような感覚に陥ることが増えた気がする。
――これが、老化って奴か。
もちろん、実際にそこまで年を取っているわけではない。しかし、最近の若い奴らを見ていると、自分が決して若くはないことを痛感するのも、また事実だった。
田所は、心の中で舌打ちした。
そんな田所の心の襞を知る由もなく、小山内がタブレットに目を落としたままの姿勢で提案した。
「今までは、“仕事上の恨み”っていう線での聞き込みが中心でしたが、今後は対象をもう少し広げて考えたほうがいいのかもしれませんね」
高学歴のお嬢様は、饒舌だった。
「例えば、被害者に何の落ち度もない、本人はもちろん、周囲も気づいていなかったような、言ってしまえば逆恨みに近い感情を抱いていた人物がいなかったかとか……」
――そんなことは、重々承知している。
言葉を飲み込みながら、田所は腕を組んで目を瞑った。
靄は晴れない。
小山内が、タブレットの上で忙しく動かしている右手を止める。「それにしても……」と不思議そうな表情をしながら田所に言葉を投げかけた。
「今度は何だ」
「ふと思ったんですが……。今回の事件の捜査には、上の人たちもなぜか、いつもよりずいぶん力を入れてますけど、何か特別な理由でもあるんですかね?」
――今さら、そんな話か。
「この半年ほどの間に、新宿区内で立て続けにバラバラ殺人事件があっただろう。あの事件では、犯人を捕まえるどころか、犯人像さえ掴めていない。そのおかげで、最近は警察を見る世間の目が相当に厳しくなってるんだよ」
田所は腕を組んだまま、片目だけを開け、小山内に鋭い視線を送る。
「やっぱり、理由はそれなんですね。そうじゃないかとは思ってたんですが……」
「俺たちが担当している事件は、よもや連続バラバラ殺人事件とは関係ないだろうが、いずれにしても犯人が凶器を持ったまま、今も街中でのうのうと暮らしている事実に変わりはない。このままだと警察の沽券に関わるって、上の方々も相当に焦ってるってわけだ」
田所は、小山内に向かって他人事のような説明を試みた。しかし、田所にしても小山内にしても、内部の人間に他ならない。その事実が、田所を余計に不甲斐ない心情にさせて、同時に苛立たせた。
田所は、隣に座っている小山内に、改めて視線を戻す。自分の苛立ちを、このお嬢様は果たして理解しているのか。
当人である小山内は、小さく伸びをしながら緊張感に欠ける声を上げた。
「今、担当している事件ですが……。もし被害者と直接連絡が取れて、もっと詳しい話が聞ければ、捜査も格段に楽になるんですけどね」
田所は、刑事としてはあまりにも呑気な小山内の言葉に、呆れた。
「実際問題として連絡の取りようがないんだから、仕方のない話だ。妙な仮定形で話をするもんじゃない」
小さな声で、吐き捨てるように続ける。
「話が聞けない分、捜査に余計に時間や手間がかかるのも確かだ。しかし、だからと言って、捜査をやめるわけにはいかないんだよ」
先ほどから、心の傷口に塩を塗り込まれるような不快感を感じていた田所は、ここで話題を変えた。
「ところで、被害者の家族構成についてなんだが……」
「あ、はい」
小山内は、思い出したようにコートのポケットから手帳を取り出すと、パラパラとページを捲る。どのような判断基準で使い分けているのかは知る由もないが、一応、デジタル機器だけでなく、アナログな手帳も使っているらしい。
「被害者の出身地は神奈川県川崎市。中学生のときに父親が亡くなって、母子家庭で育ったようですね」
「ああ、そうだったな」
――母子家庭、か……。
田所も、大学四年のときに父を亡くした。そこそこ成長していたため、母子家庭で育ったと主張するには無理がある。しかし、それでも父を失った喪失感は決して小さくはなく、その後の生活の変化に、少なからず神経が摩耗した記憶もある。社会に出る前に一家の大黒柱を失った経験がある身としては、被害者の生い立ちは他人事とは思えなかった。
「母親は、東京都稲城市にある食品会社の工場でパートとして働いていたようなんですが、三年前に亡くなっています」
稲城市は、東京都西部である多摩地域の南東部に位置し、川崎市に隣接している人口九万人ほどの市だ。
「しかも、親戚とのつき合いはほとんどなく、身内らしい身内といえば、名古屋市に住む母親の弟夫婦、それに年齢の離れた妹が一人、です」
「その妹は今、どこにいるんだ」
小山内は、再び手帳に目を落とす。
「東京を中心に活動するマイナーアイドルグループで、アイドルをやってます」