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十一月二十日 午後一時
一組の男女が、歌舞伎町の外れにある公園のベンチに、並んで腰かけていた。
年配の男は、濃いグレーのスーツに紺のネクタイをやや斜めに締めて、スーツの上には少々くたびれたベージュ色のコートを羽織っている。
年齢は今年、五十歳になったばかりであるものの、顔に刻まれた皺や少々寂しい頭髪は、どこから見ても六十歳前後のそれだった。身長は一七〇センチ弱だが、やや猫背であるために、遠目には一六〇センチ台前半に見えなくもない。
男の名は、田所康之という。職業は、新宿南警察署の刑事だ。
所轄の警察署の刑事は、基本的に管轄地域内で起こった犯罪全般に関する捜査をおこなう。歌舞伎町を専門に担当する刑事という役職は存在しないのだが、田所は歌舞伎町界隈での事件を担当することが比較的多かった。
若い頃、歌舞伎町での事件を担当した経験で、たまたま、その界隈での人脈がつくられた。新宿南警察署を離れた時期もあったものの、戻ってくると半ば強制的に、その界隈での事件の捜査を多く担当させられた。
こうして歌舞伎町周辺で、ますます強固かつ広範囲にわたる人脈がつくられた。その結果、現在は、二週間ほど前に歌舞伎町のとある事務所で男が刺された事件の聞き込みをおこなっていた。
田所の隣に座る若い女性は、同じく新宿南警察署の刑事である小山内綾音だ。
小山内の年齢は、田所よりも二回り近く若い。身長は田所と同じぐらいの一七〇センチ弱だが、体格は同年代の女性と比べても、やや華奢な部類に入る。いざというときの運動能力や判断力に疑問符がつくだけでなく、まだまだ経験に裏打ちされた深い洞察力や推理力に欠けるというのが、田所による現時点での評価だ。
刑事課に配属されて半年という点や、女性であるという点を差し引いても、田所にとっては頼りない相棒だった。
通常、事件の捜査は警視庁捜査一課の刑事と所轄の警察署の刑事が組むパターンが多いが、この半年、田所はなぜか同じ所轄の新人刑事である小山内と組まされていた。新人教育というと聞こえがいいが、田所にとっては、とんだお荷物を背負い込まされたというのが、正直な感想だった。
田所は、改めて右隣の新人刑事に視線を向ける。皺一つないブランド物のコート、そしてピカピカに磨き上げられたイタリアかどこかの有名メーカーの高級ビジネスシューズが、田所が考える理想の刑事像とは、甚だしく解離していた。
――刑事っていうのは、履いている靴がボロボロになるぐらい歩き回るもんだ。
田所が、冷ややかな感情とともに隣の若者を眺めていると、当の本人が「コーヒー、買ってきますね」と立ち上がった。
聞くところによると、かなり裕福な家庭に育った小山内は、さしたる苦労もなく、いわゆるエスカレーター方式で、東京の超一流私立大学卒業という高学歴を手に入れたらしい。そんなお嬢様がなぜ今、警視庁の一警察署の刑事様であらせられるのか。
これも伝聞に過ぎないのだが、子供の頃にテレビで観た刑事ドラマの影響で刑事に憧れるようになったのだという。その挙句、人が羨むほどの高学歴を顧みることもなく、地方公務員である警察官になり、刑事課への配属を熱望したというのが真相らしい。
――子供の頃に目にした絵空事を無批判に受け入れて自らの理想とし、十何年もかけて実現してしまうとは、ご苦労かつ親不孝なことだ。
恵まれた出自の小山内を、親の仇のように否定的な目で眺めるのは、嫉妬ややっかみだけが理由ではなかった。叩き上げである田所には、長い経験から培われた持論があった。
――育ちがいい人間は、得てして犯罪者の気持ちを理解できない。
田所は「だから、金持ちは気に食わない」と、言葉にならない言葉を口の中で反芻する。
「それにしても、今回の事件……」
田所は、ゴミ箱の周囲で空き缶を集めている路上生活者らしき男を遠目に見る。
「どうも腑に落ちないな」
思わず独り言ちると、いつの間にか戻ってきていた小山内が、手に持っていた缶コーヒーを差し出してきた。受け取ると、冷たかった。
「おい、冷たいぞ。この季節に、アイスコーヒーか」
「私、冷たいのが好きなんです」
小山内は、悪びれる様子もなく、プルタブに手をかける。
――お嬢様は、いつもこれだ。
田所が溜め息代わりに缶をベンチに置くと、小山内が自分のコーヒーに口をつけながら尋ねた。
「で、何が腑に落ちないんですか?」
このとき田所は、自分の呟きを聞かれていた事実に、初めて気がついた。
「それは……」
一瞬、口ごもった。上手く言葉にできない違和感を、抽象的な言葉のまま表現する行為は憚られた。だが、相棒に隠しごとをしても、意味はない。田所は思い直して、自分の考えを整理するように、言葉を選びながら続けた。
「犯人は、室内を物色していた。だから一見、犯行動機は物盗りに見える。が、被害者が刺されたのは、犯人が部屋を物色する前だったって話だ」
通常、物盗りが仕事をするのは、誰もいない留守の時間帯だ。時間をかけて留守の時間帯を調べ上げ、その時間帯にこっそり忍び込む。もちろん、金の在りかやカードの暗証番号を聞き出すために、敢えて在宅時を狙うという方法もなくはない。
だが、そのような場合でも、情報を聞き出しながら作業を進める必要があるわけだから、いきなり部屋の持ち主を刺すなどという手順は、通常ならば選択しない。
――しかし、犯人はまず部屋の持ち主を刺した。
「しかも、被害者が室内を向いているときに後ろ、つまり入口の方向から脇腹を一刺しだった」
田所は、コーヒーを手に取ると、隣に座る小山内を横目で睨めつけた。
「つまり、犯人は相手を待ち伏せしてたんだよ。防犯カメラの死角になっている非常階段方面からそっと近づき、後ろから刺した。そしてその後、うずくまった被害者を放置したままで、部屋の中を荒らし回ったんだ」
そう言いながら缶を開け、冷たいコーヒーを口の中に流し込む。
「最初から、刺す行為が目的だったという話ですよね。しかも、後ろからなら、顔を見られる可能性も低い。恐らく、室内を物色しているときも、被害者に顔を見られないように注意していたんでしょうね」
小山内は、田所の説明を当然といった様子で聞き流しながら、結論めいた言葉を口にした。
「さまざまな状況証拠から総合的に考えると、今回の事件は恨みによる犯行であって、室内を荒らした目的は、物盗りに見せかけるためのカモフラージュに違いない。以前、田所さんもそう言ってたじゃないですか。どこに疑問があるんですか」
小山内はコーヒーに再び口を近づけながら、怪訝そうな表情をする。
確かに、小山内の言う通りだ。だが、と田所は思う。
恨みによる犯行の場合、多くの場合は胸や首など、致命傷を与えやすい場所を狙って犯行をおこなう。しかも、相手を執拗に、何度も刺すパターンも少なくない。
――しかし。
「今回の犯行は、脇腹を一刺しだけだった。犯人は被害者に、それ以上の危害を加えようとはしなかった」
「そういわれてみれば、用意周到な待ち伏せ、窃盗目的に見せかける偽装工作という冷静で計画的な犯罪の割に、犯行そのものは比較的、淡白ですよね」
淡白という表現が適切かどうかはわからないが、小山内の発言は、概ね的を射ていた。