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十一月二十七日 午後三時三十分
遠くに、食品会社の廃工場が見えた。
――到着まで、あと二分とかからないだろう。
田所は、建物を眺めながら考える。
昨日の夜、ゴールデン街の吉田に、その後変わったことがないかと電話をかけたところ、二十四日の夜に容疑者の小柳京介がやってきたとの話だった。
犯行後、東京から離れてしまった可能性も考えていたが、その情報によって彼がまだ東京に潜んでいることがはっきりした。
そして、先程の稲城駅前での目撃証言だ。
目撃されたのは、小柳京介と見てほぼ間違いない。
――そして、小柳は今、この廃工場にいる。
廃工場前に到着した田所は、急いで車を降りると、乱暴にドアを閉めた。ドアが発する低くくぐもった音が、廃工場を取り囲むコンクリートの塀に反響した。
運転席の小山内も続く。
間もなく数台のパトカーが到着し、中から十人ほどの警察官が走り出た。応援を要請した稲城警察署の警察官たちだった。先頭に立っていた警察官が、田所たちに向かって走り寄ると、恭しく敬礼する。
「ご苦労様。わざわざ申し訳ない」
軽く挨拶を交わして状況を手短に説明すると、田所と小山内は警察官たちとともに、鉄条網をくぐって敷地内に入った。
小山内とともに、このような緊迫した現場を訪れるのは初めての経験だった。それとなく顔を向けて確認すると、小山内は予想通り、いや予想以上に緊張している様子だった。顔が、明らかに強張っていた。
広い敷地内には、長年の放置が原因なのだろう、一面に丈の短い草が生い茂っていた。一行は草を踏み締めながら、廃工場の建物に近づく。間近まで辿り着くと、田所は無言で壁面を見上げた。
かつて、ここでは数多くの大型機械が稼働し、多くの労働者たちが自分たちの命を繋ぐために身を粉にして働いていたに違いない。そんな人間たちの残像が、亡霊のように体全体に圧しかかってくる感覚が生まれた。建物の壁から染み出てくる熱量の記憶に精神を掻き乱されそうになって、田所は無意識に目を瞑った。
突然、何の脈絡もなく、数年前に逝った妻の顔を思い出した。続いて、罪もない数多の被害者たちの死に顔が脳裏に浮かんだ。今まで田所の前を通り過ぎて、彼岸に旅立っていった人の顔、顔、顔……。封印した過去に紛れていたはずの人間たちが、フラッシュバックのように、次から次へと甦ってきた。
一瞬、死の匂いを纏った不吉な予感が、頭をよぎった。しかし、田所は強い意志で不吉な予感を無理矢理に抑え込む。
――過去の記憶などに、囚われている場合ではない。大切なのは今だ。最良の結果を手繰り寄せるために、今、最善を尽くす、刑事という機械であればいいのだ。
そう自分に言い聞かせて、上着の右袖で汗を拭うと、気を取り直して歩を進めた。隊列を組んだままで工場の周囲を回りながら、建物を入念に観察する。入口には南京錠がかかっており、人が侵入した形跡はなかった。ガラス窓も覗いてみたが、中には暗闇が広がるばかりで、もちろん人の気配などなかった。
ここで何かが起こる。小山内のタブレットでこの場所を見たときの田所の脳裏には、確かに閃くものがあった。
――見当違いだったのか……?
信じていた自分の勘に裏切られた気がして、田所は微かな焦りを感じた。
「あの倉庫、どうですかね」
囁き声に振り向くと、小山内が敷地の一角を指さしていた。小山内の指が向く方角に視線を移すと、工場の建物から数十メートルほどの距離だろうか、風に揺れる茶色い草むらの向こうに、倉庫らしき建物が目に入った。田所は、無言で警察官に合図を送ると、倉庫に向かって静かに歩み寄る。
正面にはシャッターが設えられている。右側面には、小さな曇りガラスが嵌め込まれた通用口らしきドアが見える。
刑事としての長年の経験で研ぎ澄まされてきた田所の嗅覚が、微細な臭いに反応した。人間の心の闇から生まれる、魂の腐敗臭にも似た臭いだった。
田所は、気配を殺して建物の右側に回り込む。細心の注意を払いながら体を伸ばすと、ドアの横にある小さな明かり取りの窓に顔を近づけた。しかし、ただでさえ小さな窓だ。汚れと室内の暗さで、内部を詳細に観察することはできなかった。耳を澄ましてみたものの、物音も聞こえない。
だが、不穏で不快な、ただならぬ空気が、そこには確かにあった。
田所は、再び指で警察官に合図すると、今度はドアに近づいた。数人の警官が、半円状にドアを取り囲んだ。田所のOKサインとともに、一人の警察官がドアノブを引く。ドアは、さしたる抵抗もなく開いた。
同時に、右手に拳銃を握った数人の警察官が、注意深く覗き込みながら、ライトで内部を照らす。
次の瞬間。
先頭の警察官が小さく腕を振り下ろしたのを合図に、後ろで待機していた警察官たちが一斉に倉庫内になだれ込んだ。
外の田所は、はやる気持ちを敢えて抑え込みながら、腕組みに仁王立ちという姿勢のままで朗報を待つ。しかし、中の警察官たちは犯人確保のために次の行動に移るでもなく、相手に対して警告を発するでもなく、入口を入ってすぐの場所で無言のまま立ち竦んでいる。
田所の胸の奥に、小さな胸騒ぎが生まれた。
「どうしました! 何が起こってるんですか!」
小山内が、ただならぬ空気に我慢できなくなったのか、動揺した様子で声を上げながら華奢な体を倉庫内に滑り込ませた。
胸騒ぎを抱えたまま、田所も続いた。二人は警察官を掻き分けて、最前列に進み出る。
「そ、それが……」
警察官の一人が、震える声で力なく奥を指さした。田所は、警察官の指先を辿って、ライトが照らしている先を確認する。目の前では、予想することを無意識に拒んでいた最悪の光景が、現実のものとなって白い光に浮かび上がっていた。
一瞬、時間が止まった気がした。
「まさか、そんな……」
傍らの小山内が、絞り出すような声で小さく呻くと、血の気が引いた顔で膝からガクリと崩れ落ちた。
小山内が発する絶望と落胆の情動が、倉庫内の空気を伝わって、田所を冷たく包み込む。
刑事としての微かな誇りとプライドが、砂上の楼閣のように脆くも崩れ去っていく気がした。価値観の崩壊を前に何もできない無力感を胸に感じながら、田所はその場に呆然と立ち竦んだ。
一人の警察官が、床の上に倒れている二人の人物に駆け寄った。
「一名は、佐藤賢人刺殺事件の容疑者の男と思われます。そしてもう一名は……、身元不明の女性です!」
彼は、さらに何かを確認するように、二人に顔を近づける。すぐに頭を上げると、振り返るなり叫んだ。
「両名とも、まだ息があります!」