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十一月二十七日 午後三時五分
京介と莉子が対峙しているとき、祐真は倉庫の外に身を潜めながら、中の様子に聞き耳を立てていた。
――高見沢祐真、いやコウ君がこんなに近くにいるなんて、莉子は考えてもいないだろうな。
ホテルで莉子に「この男が兄を殺したのに違いない」と京介の財布と免許証を見せられたとき、祐真はすべてを理解した。そして、その日以降、莉子の仇討ちに全面的に協力してきたのだった。
京介の武器がナイフであるのに対して、莉子が所持している武器は拳銃だ。莉子の拳銃は、祐真が教えた方法で、彼女自身がダークウェブの違法サイトにアクセスして購入したものだった。
莉子が京介に対して有利な点は、武器だけではなかった。莉子は女性とはいえ、類稀な運動神経のよさと、目標達成のためには躊躇をしない強さをもっている。普通に考えれば莉子の勝ち。京介の勝ちは、まずないはずだ。
傷つけ合った結果、共に命を落とすという可能性も考えられなくはなかった。しかし、もしそうなったとしても、莉子にとっては本望だろう。
まず、一発の銃声が聞こえて、怒声に近い莉子の声が耳に入った。しばらくして二発の銃声が続けて響くと、静寂が訪れた。
静寂を確認した祐真は、窓の外に置かれた百二十万円入りの封筒にそっと手を伸ばして、上着のポケットに捻じ込んだ。
ホテルで莉子から見せられた財布を使って、京介を脅迫していた事実は、莉子には秘密にしていた。莉子の前では、単に彼女の手伝いをする人物を演じ続けていたのだ。
あとは莉子が立ち去った後、祐真の名義になっている京介のスマートフォンを回収して、工場の裏に止めたバイクでここから立ち去るだけだ。念のために、倉庫内の様子を確認しようとしてガラス窓を覗き込んだとき、想定外の状況が目に飛び込んできた。
京介が倒れ込んでいる場所から一メートルほど奥に、莉子が倒れていた。まったく動かない京介に対して、莉子は苦しそうに肩で息をしている様子が観察できた。体の下に、血溜まりが広がっている。重傷のようだった。
祐真は、心の中で舌打ちした。
窓から目を逸らして、工場裏に顔を向ける。逃走用のバイクが、思いのほか遠くに見えた。向き直った祐真は、しばらく逡巡した後、意を決して倉庫内に足を踏み入れた。
暗闇の中に、二人の姿がぼんやりと浮かび上がっている。莉子が、ゆっくりと頭を持ち上げた。祐真を見て、驚いた様子で言った。
「コウ君……」
先ほど、新宿で別れたはずの人物が突然、目の前に現れたのだ。驚くのも無理はなかった。
「……心配になって、つい、来てしまいました」
「私まで、怪我しちゃった……。仇討ち、これじゃ五十点のできだね」
莉子は祐真を見上げながら弱々しく笑った後、痛そうに顔をしかめた。
近づいて莉子を抱え起こそうとしたとき、鈍い振動音がブルブルと床に響いた。音のする方向を見ると、床に放り出された莉子のバッグからスマートフォンが零れて、SNSの着信を告げている。莉子は、気づいていないようだった。
祐真は、そっと手に取ると暗証パターンを指でなぞって、SNSを起動させた。
用事はどうなった?
送別会、予定通りに来れそう?
さっき、莉子に会おうとして事務所に来てた刑事さんに「ジャイアンツの球場の近くに行った」って教えちゃったけど、大丈夫かな?
やばいことに巻き込まれたりしてないよね?
紗英からのメッセージだった。
瞬間、体に強烈な電気が走った。心臓が一気に収縮したまま硬直し、体中の血液が一斉に循環を停止した気がした。
――間もなく、警察がやってくる?
もちろん、ジャイアンツの球場の近くというヒントだけで、すぐにこの倉庫に辿り着けるとは思えない。しかし、残された時間がそれほど長くないことも、また事実だった。
祐真は、傍らで横たわっている莉子を、思わず見下ろした。
この状況で、深手を負っている莉子を連れ出して、人目を忍んで病院に連れて行くのは不可能だ。もし連れて行けたとしても、尋常ではない傷を負った経緯について、事細かに問い質されて、警察に通報される結果になるだろう。かと言って、このまま放置しておいても、遅かれ早かれ警察に発見される結果になるのは目に見えている。
かつてホテルで兄の復讐に協力するという話になったとき、たとえどんなことがあっても、コウ君という人物の存在を他人に明かさないように、念押しをしておいた。しかし、酷く傷ついた今の莉子は、警察に捕まれば厳しい取り調べに耐えられず、コウ君の名を口にしてしまうかもしれない。
――どうすればいい。
瞬間、冷たい考えが頭をよぎった。
――楽にしてやるしかないか……。
莉子の拳銃を使えば、恐らく警察は「復讐を果たしたうえでの自殺」と判断するだろう。
それにしても、自分の手を汚さないように綿密に計画を立てて、慎重に実行してきたはずが、最終的に莉子を手にかけるという不本意な結末を迎えることになろうとは。
やるせない気持ちで、莉子の掌の中にある拳銃にそっと手を伸ばしかけた、そのときだった。莉子が、痛みに顔をしかめながら言った。
「他の人に見られたらいけないから、すぐにここを……離れて」
「でも、警察が来るかもしれません。もし警察が来たら、莉子さんはきっと捕まってしまいます。そうしたら……」
「俺の計画は台無しだ」と心の中で呟いたが、声に出して言えるはずもなかった。祐真は、次に口にするべき言葉を、心の中で懸命に探した。探しながら、自分の心情の僅かな変化に、ふと気がついた。
今の今まで、莉子を自らの手にかけることなど、容易い行為だと思っていた。しかし、自分でも理解し難い感情が、それを邪魔しはじめていた。
柄にもなく、自分の心境の僅かな変化に動揺した。
莉子は、祐真の言葉を遮って、苦しそうに言葉を続ける。
「これは私の復讐。コウ君には関係ない。だから、巻き込むわけにはいかないの。私は、大丈夫だから……」
「でも……」
祐真は、動揺を隠す術をもたないまま、莉子の顔に視線を落とす。莉子は、今までに見たことがないほどに、大人びた表情をしていた。
あれほどアイドルという地位に固執していたはずの莉子が、今はその立場を失うことも厭わずに、祐真を助けようとしている。そう考えると、祐真の心は激しく揺れ動いた。
数秒の沈黙の後、祐真は決断を下した。
――莉子を信じよう。
「……わかりました」
莉子をそっと床に横たえて立ち上がった祐真は、財布の中のマイクロSDカードと自分名義のスマートフォンを素早く回収すると、横たわっている莉子の手を握った。
「いいですか。傷が痛いとは思いますが、しっかり聞いてください」
莉子は京介を見上げながら、小さく頷いた。
「恐らく、この場所に莉子さんが小柳京介と二人でいた理由を、警察から聞かれると思います。そのときは、以前にも話した通り『郵便物から調べた小柳京介の電話番号に他人名義のスマートフォンで電話をかけ、この場所を指定した。そのスマートフォンは電車の窓から川に捨てた』と言ってください。また、莉子さんのスマートフォンに残っている僕の電話番号については『他人名義のスマートフォンを手に入れるために連絡を取り合った、会ったこともない人物の電話番号』ということにしてください。そうすれば、この京介という男を捜すために協力してくれた僕の友人たちに、迷惑がかからないで済みます」
莉子との連絡に使っていた祐真のスマートフォンは、違法に手に入れた他人名義のものだった。従って、莉子が自分からコウ君の名を口にしさえしなければ、祐真の存在を警察に知られる心配はない。
つまり、祐真のアドバイスは“友人に迷惑をかけない”ためなどではなく、本当は自己保身のためだった。本当は、仲間に頼んでなどいなかった。
しかし、そのような真実を告げられるはずもなかった。
「わかった……」
莉子の首肯を確認した祐真は、握っていた手を静かに床の上に置く。おもむろに立ち上がると、莉子から顔を背けるようにしながら、ドアの方向に足を向けた。
ドアから外に出るとき、莉子の柔らかい言葉を、背中に聞いた気がした。
「気をつけてね……」
倉庫を後にした祐真は、バイクに跨って、駅の方向に向かった。
――確か、駅のすぐ近くに公衆電話があったはずだ。念のため、そこから一一九番に……。
バイクのハンドルを握り締めながら、そんなことを考えていると、駅の数百メートルほど手前で数台のパトカーとすれ違った。警察官たちの目には、一様に緊張感が漂っていた。
――危なかったな。
間一髪だった。あと十分遅かったら、祐真も彼らに身柄を拘束されていたかもしれない。
だが……。
――京介さんはわからないが、少なくとも、これで莉子は助かる。
警察官たちを横目に見ながら、祐真はヘルメットの中で、安堵の溜め息を吐いた。