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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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「それは言い訳だな。倒れているお兄さんを目の前にしながら、あんたは自己保身に走ってしまった。さっきから偉そうな話をしているが、あんたも同じ穴のムジナだ。ムジナどうし、ここはひとつ……」

 莉子は、やや俯き加減になりながら、京介の言葉を遮るように声を荒らげた。

「私は、お前とは違う!」

 一瞬の間があった。

 突然、莉子が構える銃の先端が眩く光った。同時に、パンという無機質な破裂音が倉庫内に反響した。京介の耳元の空気を何かが切り裂いて、背後にあるコンクリートの柱が弾けた。京介は、何が起こったのかもわからないまま、本能的に体を屈める。そのままの勢いで体を横に向けると、前転のような姿勢で転がって、倉庫の奥にあるフォークリフトの後ろに滑り込んだ。

 花火が燃えるときのような、強烈な硝煙の臭いが鼻を突き、咳き込みそうになった。

 体勢を立て直して、運転席の僅かな隙間から様子を伺う。莉子は、拳銃を構えたまま、京介が隠れた方向を凝視していた。その立ち姿には、迷いの欠片も見られなかった。

 ――本当に、撃ちやがった。

 血液が逆流するような戦慄を覚えるとともに、一瞬、頭の中が真っ白になった。

 莉子が発してきた言葉の端々には、尋常ではない憎しみと覚悟が溢れ出ていた。とはいえ、二十歳そこそこの小娘のことだ。いざ、拳銃を撃つとなると、きっと躊躇うに違いない。今まで、京介の心の片隅には、そのような楽観的な考えがあった。しかし、空気を高速で切り裂く弾丸によって、甘い幻想は跡形もなく砕け散った。

 莉子の背後に降ろされている巨大なシャッターが、風を受けて不穏な音を立てた。

「確かに、すぐに通報しなかったのを、ずっと後悔してた。お兄ちゃんを見捨てたも同然なんだもの。でも、だからこそ、考えたの。どうやったら罪を償えるかって」

 拳銃をフォークリフトの方向に向けたまま、莉子は呟くように自らの思いを語る。

「そんなとき、あの財布を思い出したの。そうか、罪をあがなうには、お兄ちゃんを殺した奴に、自分の手で罰を下せばいいんだって……」

 京介は、混乱と狼狽に支配されそうな思考回路を精いっぱい冷静に保ちながら、莉子の言葉を心の中で反芻した。

 ――罪をあがなうために、殺人を犯す、だと?

 明らかに破綻していた。

 このとき京介は、莉子の殺意を萎えさせようとして発した自分の言葉が、逆に莉子の決意をいたずらに刺激してしまった事実に気づきはじめていた。自分の意思とは関係なく胸を絞めつける感情の昂りを押し殺して、莉子の表情をそっと伺う。

 莉子は、何かに取り憑かれたような、恍惚とさえ表現できるほどの不気味な笑みを浮かべていた。ここで相手の矛盾を論理的に攻撃したとしても、もはや京介の言葉に耳を傾ける結果には決してならないだろう。京介にそう覚悟させるには十分に過ぎる、奥底に狂気を湛えた微笑だった。

「お前の居場所がわかったときは、本当に嬉しかった……。神様もきっと、お前が死ぬことを望んでるのよ。そうだよね、お兄ちゃん」

 ――この女、どうかしている。

 京介が次の行動を決める間もなく、莉子は再び視線を上げると、先ほどよりも深い皺を眉間に寄せ、怒気に震える声で絶叫した。

「お兄ちゃんの仇は、私が討つ! それが、私がお兄ちゃんにできる贖罪なの!」

 何物にも屈しない、自己の犠牲さえ厭わないと思わせるほどの強い意志を感じさせる声が、倉庫内の空気を震わせた。

 疑いようもない、本気の言葉だった。

 莉子は、銃を構えたままで、フォークリフトに向かってゆっくりと歩み寄る。コツコツという足音が、少しずつ京介の方向に近づいてくる。

 京介は今一度、フォークリフトの後部から目を凝らして、莉子の姿を注視した。引き金にかけた指には、力が蘇っているように見えた。

「だからこそ、私はお前を殺す! 覚悟しなさい!」

 最悪の結末だった。

 ――交渉決裂か。

 人生の歯車が、カチリと小さな音をたてて僅かに狂った気がした。京介は、諦念とともに、静かに息を吐いた。

 ――俺の人生は、いつもこうだ。

 しかし、いくら他人の命を奪った身とはいえ、大切な自分の命を無抵抗のままで、やすやすと莉子に捧げるわけにはいかない。京介は、右手をゆっくりと背中側に回すと、ズボンの後ろに忍ばせていたサバイバルナイフを手に取った。

 念のため、莉子の仲間が潜んでいないかどうか、今一度、窓の外を確認する。人の気配はなかった。もっとも、相手に仲間がいようがいまいが、今の京介には、もはや関係なかった。

 ――頼りになるのは、これだけだ。

 まさか、護身用にと携帯していたサバイバルナイフを、本当に使う羽目になろうとは。

 京介は、ナイフの柄を握る手に力を込めながら、自分の不運を嘆いた。

 一人殺ると、その辻褄を合わせるために、新たに人を殺めなければならない。

 ――殺人は、連鎖する。

 今まで考えた経験もなかった事実に、改めて驚愕せずにはいられなかった。しかし、驚きながらも、京介は今、自分が成さなければならない行為に全神経を集中させる。

 ――一人殺るのも、二人殺るのも、同じことだ。

 いや、同じであろうがなかろうが、殺らなければならないのだ。

 絶体絶命の状況にあるという事実に、京介は却って力をもらった気がした。

 莉子の言葉通りに覚悟を決めた京介は、次の瞬間、身を屈めてフォークリフトの陰から躍り出ると、莉子に突進した。突進しながら、莉子が構える銃の先端をつぶさに観察した。

 ――銃口は、俺の頭部を向いている。

 咄嗟に、相手の動きと自分の動きを脳内でシミュレーションして、コンマ数秒先の動きを計算する。

 ――これが、答だ。

 莉子の目前まで迫った京介は、素早く上半身を右にひねり、崩れ落ちるような体勢で莉子の右側に回り込んだ。莉子は、何が起こったのか理解できず、前方を凝視したままで硬直したように立ち竦んでいる。その目には、明らかに狼狽の色が浮かんでいた。

 目を見開いたまま体を強張らせている莉子の横顔を眺めながら、京介はナイフを両手でしっかりと握り直すと、右側から莉子に向かって再び突進する。ナイフの先端が狙うのは、莉子の左脇腹だった。

 ――俺の、勝ちだ。もう、逃げ切れない。

 体の前に低く構えたナイフの切っ先が、莉子の体から数十センチほどの距離まで近づいた。

 ――勝負あり、だな。

 莉子は、兄と同じ左脇腹に致命傷を負い、呻きながら死んでいくのだ。

 ナイフの先端と京介の目が、キラリと鈍く光った。

 そのとき。

 莉子の上半身が、京介の予想をはるかに超える速度で横に動いた。目を疑うほどの反応速度だった。ほんの少しではあるが、ナイフの先端が、目標である左脇腹からずれた。しかし、相手に致命傷を負わせるには、必要にして十分な手応えがあった。

 血の匂いがした。懐かしくも思えるような、鉄臭い匂いだった。

 ――いけたよな、多分。

 そう思った刹那、目の前に銃口が構えられている事実に、京介は気づいた。鉛色がかった黒色の光を鈍く放つ拳銃の先端は、間違いなく京介に向けられていた。

 次の瞬間、極限まで圧縮されたガスの爆発的な膨張とともに、眩いばかりのオレンジ色の光が、銃口から噴き出した。同時に、真っ赤に灼熱する小指の先ほどの金属片が、銃口の先端から高速で射出される様子が、コマ送りのようにはっきりと見えた気がした。

 拳銃の乾いた発射音が、遅れてパンパンと二発、室内に響いた。

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