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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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 京介は自分の口に右手の人差し指を当て、慌てて周囲を見回しながら、祐真の頭を左手で叩く。祐真は悪びれる様子もなく、口を大きく開けて笑ったかと思うと、再び下を向き、焼き肉定食の肉をつついた。

 入院中に一度、病院にやってきた警察の人間に、あの日に起こったできごとについて根掘り葉掘り、事情を聞かれた。しかし、そのときは財布の話題が出ることもなく、京介自身も心身ともに弱っていたため、財布を紛失している事実に気づかなかった。

 その後も、病院内ではクレジットカードを使っていたため、財布の紛失に気づかないまま、ときが過ぎた。退院の日に自分の荷物を確認したとき、財布がない事実を初めて知り、愕然としたのだ。自分の迂闊さを呪いさえしたが、もはや手遅れだった。

 ――俺に重傷を負わせて逃げた犯人が、金銭目当てで持ち去ったに違いない。

 もしそうならば、多少の金を失うものの、金以外の中身が警察の手に渡る心配はない。最初は無理矢理、自分にそう言い聞かせた。

 しかし、不安を払しょくすることはできなかった。

 ――事務所で落とした挙句、通報で駆けつけた警察の手に渡ったのではないか。そして、警察はすでに中身を確認して、密かに捜査を進めているのではないか。

 不安に駆られた京介は、逃げ出すように病院を後にして以来、つねに警察を警戒しながら行動した。そんな“警察に対する警戒感”が、退院後に居場所を転々としたり、電話や電子メールでの遣り取りにことさら慎重になったりしている理由の、少なからぬ部分を占めていた。

 しかし、時間がたち、その状況が当たり前になるにつれ、恐怖心は少しずつ薄れていった。代わりに、自分が置かれている状況を、より客観的に見ることができるようになっていた。端的に言うと、この状況に慣れたのだ。

 ――これだけ時間がたっても、警察による尾行や張り込みなどがおこなわれていなさそうな状況を考えると、財布は警察の手に渡っていないのかもしれない。

 そう考えるようになった。同時に、仕事も再開した。

 ――人間とは、本当に都合のいい動物だ。

 つくづく、そう思う。

 だが、不安が完全に消えたわけではない。財布が誰かの手に渡っている事実に変わりはない。それだけではない。いきなり襲われることもあるかもしれない。

 用心するに越したことはなかった。

「それにしても、今も自分の身に危険が迫ってるかもしれないのに、定食屋で唐揚げ定食を食って、仕事も以前と変わらず続けてるなんて、京介さんはやっぱ大物っすよね」

 祐真が味噌汁を持ったまま、他人事のように笑った。

「一週間前よりは、精神的にも落ち着いてきたが、それでも怖くないわけじゃないさ。できることなら、今すぐ海外にでも逃げ出したい気分だよ」

「そうは言っても、やっぱり鋼のメンタル。しかも変人レベルっすよ。俺がもし同じ立場だったら、きっと仕事も食事も無理っすね」

 言いたい放題だ。

「仕方がないだろう。本当に海外に逃げられるわけじゃないし、どんな状況でも、腹は減る。仕事だって同じだ。働かないと、こうして飯を食うこともできなくなる」

 納得したのかしていないのか、祐真は箸を止めて京介の顔を不思議そうに見つめる。

「そもそも、何で入院するほどの怪我を負わされたんすか?」

「それが、まったくわからんのだ。こっちが聞きたいぐらいだよ」

 京介は、熱いお茶が入った湯飲みに手を伸ばし、ゆっくりと啜る。お茶のほどよい苦みに、思考回路内の余計な情報が消えた。

「ところで、例の仕事の話なんだが」

 身を乗り出し、小声で告げた。

「例の仕事?」

 祐真が、不思議そうに顔を上げる。

「芸能人とIT系ベンチャー企業の社長の不倫記事だよ。写真だけが、どうしても押さえられない」

「あの記事っすか。写真さえ手に入れば、いよいよ完成ってわけっすね」

「ああ。そこで、お前に相談だ。社長がよく行くレストランに二人が来店したとき、店のスタッフから連絡をもらえるようにしたいんだ。店をいくつかピックアップしておいたから、お前の自慢の情報網を使って、コンタクトを取れないかな」

 同じ取材でも、店の周辺で二十四時間、カメラマンとともに、あるいは一人で当てもなく張り込むのと、内部の人間からの連絡を受けて現地に赴くのとでは、取材の手間に天と地ほどの差がある。

「今の状態では、俺はなかなか動きにくいからな」

 京介は、ポケットから取り出したメモを開きながら、祐真に手渡した。受け取った祐真は、一頻り眺めた後、京介を見返した。

「わかりました。やってみます。このメモ、もらっていいっすか?」

「ああ、構わない。よろしく頼むよ」

 自由に動けない京介にとっては、祐真の情報網が頼みの綱だ。心底、有り難かった。

「そうそう」

 メモをポケットに入れ終えた祐真が、思い出したように声のトーンを上げた。

「話は変わるんすけど、俺、文鳥を飼ってたじゃないすか」

「ああ、飼ってたな」

 いつものことだが、祐真との会話は話題があちらこちらに目まぐるしく飛ぶ。

「その文鳥が、ミーが来る日の朝……」

 ミーとは、京介と祐真が出会った日、祐真が腕の中に大切そうに抱えていた子猫の名だ。長く事務所で世話をしていたが、事件の後、しばらく事務所に戻れそうにないので、祐真に預かってもらっていた。

「その文鳥がどうした」

「ミーが来る当日の朝、突然、落鳥したんっすよ」

「ラクチョウ?」

 どこかで聞いた記憶がある単語だが、いつどこで聞いたのかは思い出せなかった。すると、祐真がじれったそうに口を開いた。

「落鳥っすよ、落鳥。死んだんっす。鳥って、籠の中で止まり木とかにとまってても、死ぬとポトッて落ちちゃうじゃないっすか。だから、鳥が死ぬことを落鳥って言うんっすよ」

 祐真の説明で、カタカナの“ラクチョウ”と漢字の“落鳥”が、ようやく結びついた。

「で、俺、考えたんっす。ミーが来ることを予知して、落鳥したのかなって」

 猫と小鳥は、相性が悪い。というより、敵どうしといってもいいだろう。両者が仲睦まじく暮らせるとは、どうにも考えにくい。しかし、だからと言って、小鳥が猫の来訪を予知して、ストレスのために死ぬという話は、俄かには信じ難かった。

「それは悪いことをしたな」

 まさかと思ったが、話の流れから謝罪した。

「いや、別に京介さんに謝ってもらう話じゃないっすよ。でも俺、その日の夜、近くの公園で死がいを埋めながら思ったんす。籠の中の小鳥って、弱いな。すぐに死んで落ちちゃうんだなって」

「何が言いたいんだ」

「いや、別に何でもないっす。ただ、俺たちは、しぶとく生き残っていかなきゃなんないなって。きっと、籠の小鳥みたいじゃ、駄目なんすよね」

「何だ、それ」

 祐真は寂しそうに笑うと、何かを吹っ切るように、再び肉を頬張った。

 京介が勘定を済ませ、二人で定食屋を出たときには、日がすっかり傾いていた。腕時計を見ると、午後五時を過ぎている。午後五時三十分までにあと二件、取材先にメールを送らなければならない。京介は、祐真に別れを告げると、再びインターネットカフェへと戻った。

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