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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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 気がつくと、京介は誰もいない自宅兼事務所で一人、薄暗い廊下に佇んでいた。賢人の事務所を出てから、三十分以上の時間がたっていた。

 先ほど、賢人の口から出た言葉が毒を撒き散らしながら、京介の脳内を無限ループのように駆け巡っていた。

 ――何か足りないところがありますよね。

 父親によって意識下に植えつけられ、芳江にその存在を指摘されて以来、自分の心に絡みついて離れなくなってしまった呪いの言葉。

 ――俺が、足りない人間だと?

 ――そんなはずはない。

 否定するための材料を探そうとしたが、思考が混乱し、記憶の底から上手く材料を拾い出す行為がままならない。そうしている間にも、賢人の言葉が頭の内側で反響し、耐え難い大音響となって大脳を浸食していった。

 ――何か足りナイトコロガ……。

 ――ナにかタリなイ……。

 賢人は……、あいつは、俺を馬鹿にしているのだ。一見、優しく接している風を装いながら、心の底では俺を蔑み、見下し、嘲り笑っているのだ。

 許せなかった。

 心の底から、たとえようのない、どす黒い憎しみがふつふつと泥水のように湧き上がってきた。

 息苦しい。

 認識不可能な幻影が、血液中の酸素を急速に奪い去っているかのようだった。

 正体不明の苦痛に耐え切れなくなった京介は、自らの胸の辺りに、ふと目を落とした。

 胸に開いた、黒い穴が見えた。

 穴の周辺で、黒い何者かが蠢いていた。例の虫だった。針金のような無数の足を動かしながら、左胸の辺りを這い回る、数え切れないほどの虫、虫、虫……。

 ――タリナイ、タリナイ、タリナイ……。

 京介は、思わず悲鳴に近い声を上げながら、悍ましい虫たちを手で振り払う。勢い余って、薄暗い室内に尻餅を突いた。音もなく廊下に落ちた虫たちが、一斉にこちらを向き、京介の無様さを嘲り笑った。

 虫たちの向こうに見える部屋の隅から、父親と瀬田芳江の亡霊が、無表情のまま京介を見下ろしていた。

 ――ケケケ、ケケ……。ケケケケケ……。

 虫たちは、不気味に光る無数の目を京介に向けると、不協和音を奏でながら、こう囁いた。

 ――サシチャエ。サシコロシチャエ……。

 ――ソウスレバ、ラクニナレルヨ。かいほうサレルヨ。

 二日後。

 虫たちの黒い囁きに追い詰められた京介は、いつしか殺人という選択肢を安易に手に取っていた。

 ――決して、殺したくて殺したわけじゃない。

 しかし、いくら後悔したとしても、もう後戻りできないことはわかりきっていた。自責の念に絡め取られそうになった京介は、「仕方がない」という言葉で、事件に纏わる感情のすべてを包み隠してしまう決心をした。


          *


「なら、私もお前を“仕方なく”殺す。お兄ちゃんとの思い出のこの場所で」

 拳銃を構えたままの莉子が発する、奥底に怒りを湛えた冷徹な言葉を耳にして、京介は我に返った。

「思い出の場所?」

「そう。ジャイアンツの二軍球場、そしてよみうりランドっていう遊園地が隣にある、この工場は、お母さんがかつて働いていた場所。私とお兄ちゃんの思い出の場所……」

 莉子は、懐かしそうな目で、窓の外を見た。京介も釣られて、窓の外に視線を移す。

 百二十万円が入った封筒の後方、はるか遠くに観覧車が見えた。

「だからここは、お兄ちゃんの仇を討つのに、ふさわしい場所なの!」

 ふさわしいなどと一方的に決められても、納得するわけにはいかなかった。京介は後悔と謝罪の念を強引に抑え込むと、自問自答の悪循環に陥っていた思考回路を一旦リセットした。

 ――今はこの状況を切り抜けて、自分の身を守ることが最優先だ。

 まだ封筒があるということは、仲間はこの場所に来ていないのだろう。仲間がいないという事実は、京介にとって不幸中の幸いだった。

 京介は、心の中でくすぶり続けている恐怖と不安に耐えながら、身振り手振りを交え、芝居がかった口調で言い訳を再開する。

「わかってくれ。殺すつもりはなかったんだ。あなたのお兄さんも俺も、運が悪かったんだよ。その証拠に、お兄さんの事務所から逃げ帰って凶器を神社の境内に埋めた直後、俺は自分の事務所のすぐ近くでバイクにはねられたんだ。そのせいで、頭をしこたま打って気を失ったばかりか、右の肋骨を二本も折っちまった。左右の違いこそあれ、お兄さんと同じ脇腹を負傷したってわけだ」

 当時の状況が脳裏に蘇り、京介は肝臓がある右の脇腹付近を思わず押さえた。

「つまり……。そう、あなたのお兄さんを刺してしまって尋常じゃないほど慌ててた俺を見て、神様はちゃんと天罰を与えたんだよ」

 言い訳を続けながら、莉子の様子を慎重に観察した。

 まだ、怒りは収まっていないようだった。いや、先ほどより、むしろ怒りが高まっているようにさえ感じられた。焦燥感にかられて、京介は思わず饒舌になった。

「でも……、仇を討ちたいんなら、財布と免許証を持って警察に行って、すべてを話せばいいだろう? あなたがわざわざ手を汚す必要はない。司法に裁いてもらえばいい話だ。もしあなたが望むなら、俺から警察に出頭してもいい」

 しかし、京介の上辺だけの謝罪に、莉子が心を動かされる様子はなかった。焦りをさらに募らせた京介は、今まで懐に忍ばせていた、最後の切り札ともいえる一言を口にした。

「そもそも、あんたは兄さんの死体を見たときに、警察に通報することもなく、そのまま立ち去ったんだよな。だが、そんなにお兄さんが大好きだったのなら、死体を見たとき、なぜすぐに警察に通報しなかったんだ。そうすれば、お兄さんは助かったかもしれない」

 嘘だった。京介が事務所を後にするとき、賢人はすでに冷たくなっていた。

 嘘にまみれた言葉ではあったが、一瞬、莉子の顔が曇った。胸の奥に密かに隠し続けていた闇の中を覗き込まれ、触れられたくない記憶を無断で鷲掴みにされたような表情だった。

 拳銃を握る腕の筋肉が、ほんの僅かだが弛緩した。

「私、アイドルなんだよ。今が一番大事な時期なの。そんなときに、歌舞伎町の怪しげな職業の人と兄妹だなんて知られたら……」

 莉子が見せた小さな動揺に、京介はひとまず、ほっと胸を撫で下ろした。だが、これで身の安全が保障されたわけではなかった。今もまだ、危機的状況にある事実に変わりはない。油断するわけにはいかなかった。

「なるほど。その恐怖が、すぐに警察を呼ぶ行為を躊躇わせたわけか」

 京介は、敢えて突き放すような言葉を選んで、莉子を冷たく糾弾した。対して莉子は、叱られた子供のように不機嫌な声で反論した。

「でも、その後、公衆電話から警察に通報した!」

 京介は、莉子の傷口をえぐる言葉を意識的に選択しながら、ここぞとばかりに畳みかける。

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