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「お前が、私のお兄ちゃんを殺したんだよね。私にとってかけがえのない、血を分けた、たった一人の兄である賢人兄ちゃんを……」
京介は、記憶を辿った。
――そうだ。
あの日、つまり十一月四日、京介は確かに佐藤賢人を、佐藤企画の事務所で刺した。
――この女は、俺が刺し殺してしまった兄の仇を討とうとしている。
京介は恐る恐る、銃口に目を遣った。乾いた発射音とともに弾丸が飛び出す場面が頭に浮かんで、全身から冷たい汗が噴き出した。
だが、恐怖心と動揺を悟られてはならない。京介は、必死の思いで落ち着いた様子を装うと、声の震えを抑えながら言葉を発する。
「なるほど……。佐藤莉子さん、あなたは訪れた事務所で偶然、お兄さんの遺体を発見した。それと同時にこの財布を拾い、中の免許証を見て俺が犯人だと理解したというわけですか」
一緒に入っていたマイクロSDカードの中身は、周囲には“警察権力の腐敗を明らかにする内部告発”と吹聴していたものの、実をいうと酔っぱらった交番の巡査から聞いた“警察官あるある話”といった内容で、とても機密情報といえるものではなかった。
それに対して免許証は、京介が賢人の殺害現場にいた証拠となるものであり、京介が警察の手に渡ることをもっとも恐れていたものだった。
「しかし、佐藤莉子さん。あなたは免許証を持ったまま、その場で警察に通報することもなく、事務所を後にした。そうですよね?」
免許証を警察に渡すことなく、こうして取り引きなどしているくらいだから、事件現場で警察に通報する行為もしなかったのだろう。京介はそう推測した。
案の定、莉子は否定しなかった。
恐らくその後、免許証の名前や住所などを手がかりにして京介の電話番号を突き止めた莉子は、ボイスチェンジャーを使った電話で、取り引きを装って京介を誘い出したのに違いない。
もし、莉子がすぐに警察に通報して、京介の財布と免許証を警察に渡したうえで「兄の殺害現場で拾った」と証言していたら、京介が犯人である有力な証拠の一つになっていただろう。直接的な証拠にはならないにしても、その時点で即、京介が重要な関係者と見なされる結果になったはずだ。
だが、財布が警察の手に渡っていなかったにもかかわらず、三日前の朝、下四桁が〇一一〇の番号から電話があった。下四桁が〇一一〇といえば、言うまでもなく警察の電話番号だ。この免許証とは別ルートで、徐々に京介自身が捜査線上に浮上しつつあったのかもしれない。そのときは、念のため電話には出ないで、その日のうちにスマートフォンを替えた。
「そんな話はどうでもいい! どうして、お兄ちゃんを殺したの!」
京介の独白を打ち消すように、怒りを込めた莉子の声が倉庫内に響いた。壁に反響する怒りの感情が、知らず知らずの間に京介の焦りを募らせた。
「佐藤さん……、賢人さんには、本当によくしてもらいましたよ。キャバクラやホストクラブ、風俗店に人材を斡旋する商売をしてる奴なんて、大抵は半分ヤクザみたいなもんですが、賢人さんはそんな人じゃなかった。本当にいい人でしたよ。借金で首が回らないと言ったら、ちょっとした金額のお金まで用立ててくれて……」
京介は、コンクリートの床の上に視線を落としたままで、弱々しく言葉を繋ぐ。
「もちろん、返す気がなかったわけじゃないんですよ。でも、期限を過ぎても、どうにも返済の目途が立たなかったんです。『今、大きなヤマを追っているから、もうすぐ大金が手に入る』って言っても無駄でした。だから、仕方なく……」
京介は、共感を求めるような表情で、莉子の顔に視線を向ける。怒りに満ちた莉子の表情には、僅かな変化も見られなかった。
京介は天井を見上げると、大きく溜め息を吐いた。
――そう、仕方なかったんだ。
不意に、賢人を刺したときの情景が頭をよぎった。今まで記憶の底に押し隠して、忘れたふりをしていた情景だった。
賢人に対する謝罪の念がまったくないというと、嘘になる。仕方なくという表現が無責任に過ぎることも、殺人が決して許されない行為であることも、十分に承知している。しかし、京介にとって、今回の殺人は“仕方がない”という他に表現のしようがないのも、また事実だった。
殺人などという選択肢は、自分が生きてきた人生の中で、もっとも遠い場所にあるものだと思っていた。ところがある日、遠い場所にあったはずの選択肢が、目の前に置かれていたのだ。
*
京介と賢人のつき合いは、約六年になる。
知り合ったときの賢人は、まだ駆け出しのキャバレー従業員だったが、四年後には歌舞伎町に事務所を構える小さな人材斡旋会社である佐藤企画の社長になった。
一方の京介はというと、昨年から仕事のキャンセルが相次いだことと、仕事の支払いが遅れがちになったこと、そしてギャンブルで少々負けが込んだことが重なり、自宅兼事務所の家賃を滞納する事態になっていた。
もし追い出されたら、京介には新しい事務所を借りる能力はない。しかし、新しい事務所を借りる能力があるかないかという問題以前に、京介はこの自宅兼事務所を出ていくつもりはなかった。なぜなら、京介にとって歌舞伎町に事務所を構えているというのは、一種のステータスだったからだ。
風俗記事なども手がけている関係上、事務所が歌舞伎町にあるというだけで、編集者から一目置かれる状況になる。だからこそ、今まで家賃の高さを我慢して、ある意味憧れでもあった歌舞伎町に住み続けてきたのだ。今さら、負け犬のように尻尾を巻いて、歌舞伎町から逃げ出すわけにはいかなかった。
そんな状況の中で、京介はやむなく賢人に頭を下げた。
当初、賢人は京介からの突然の借金の申し込みに戸惑っていた。しかし、まだ社会的地位を手に入れていなかった頃から何かと目をかけてくれていた京介に、かねてから微かな恩義のような感情を抱き続けていたのだろう。京介が「歌舞伎町で夢を追い求める若者」の取材の話を懐かしそうに語ると、困惑した表情を見せながらも、幾ばくかの金を用立ててくれた。
その後も、京介は賢人に対して小さな借金を繰り返した。気がつけば、金額は百五十万円に膨れ上がっていた。
もともと、立場的には京介のほうが上のはずだった。しかし、人のいい賢人に対して借金を繰り返すうちに、気がつけば立場が逆転していた。
返済期限の当日、京介は賢人の事務所を訪れて、満額の三分の一にも届かない四十万円しか返済できないと伝えた。京介の話を聞いた賢人は、その場で頭を抱えた。
その姿は、京介に金を貸してしまったことを悔いているようにも見えた。
しかし、後悔しているだけでは、金は返ってこない。そう考えたのだろう。賢人は、電卓とメモ用紙を取り出すと京介に代わり、数十分かけて返済計画を考えてくれた。
メモ用紙に書かれた計画は、これからの五ヶ月で残りの百十万円を返済する内容だった。細かい数字が書き込まれたメモ用紙を賢人に提示された京介は、黙って頷くしかなかった。
本当に申し訳ない。心の底から、そう思っていた。
しかし、賢人はメモ用紙を京介に手渡しながら、こう言った。
「前から思ってたんですが、京介さんって、ちょっと考えが甘いというか……、何か足りないところがありますよね」
吐き捨てるような口調だった。いや、賢人本人にしてみれば、決してそのようなつもりはなかったのだろう。だが京介にとっては、自分自身を最大限に侮辱する口調に聞こえた。
――何かが足りない。
言葉を聞いた瞬間、京介の心臓が、ドクンと大きく波打った。鼓動から、賢人に対する微小な怨嗟の欠片が産み落とされた気がした。鼓動から産み落とされた怨嗟の欠片は、侮蔑の念を栄養分として取り込みながら脈動し、成長していく。
京介は、確かにそう感じた。