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十一月二十七日 午後一時五十分
田所は、歌舞伎町からほど近い明治通り沿い、花園神社のすぐ目の前に止めた車の中にいた。もちろん、小山内も一緒だ。
「またですか。吸い過ぎは体によくないですよ」
田所の耳に、たしなめるような小山内の声が聞こえた。ふと手元に目を遣ると、無意識のうちに煙草を咥えて、火を点けようとしていた。
「今日は、まだ一箱目だ」
田所は、小山内の忠告に説得力のない反論をしながら、咥えた煙草の先に火を点ける。
これ以上、忠告しても無駄だと考えたのだろう。小山内はやや投げ遣りな表情になった。
「窓、開けてくださいね。私まで煙草臭くなったら、彼氏に嫌われちゃいます」
初耳だった。田所は、思わず煙草を持つ手を止めた。
「彼氏、できたのか?」
「もし、できたらの話ですよ」
田所は、止めていた手を再び動かして、煙草を口に運んだ。
「仮定の話で、人の生き甲斐を奪うもんじゃない」
そう言いながら、窓を数センチほど開けると、外に向かって煙を勢いよく吐き出す。小山内が、手元のスイッチで窓をさらに大きく開いた。
「さて、これからどうするか……だ」
数回だけ吸った煙草を早々に灰皿に押しつけると、田所はしばらく思案する。
「それにしても、やっぱり田所さんの睨んだ通りでしたね。ごく個人的な人間関係にまで深く踏み込んだ、執拗な聞き込みが正解でした」
「喜ぶのは早い。まだ、犯人を捕まえたわけじゃないぞ」
――容疑者の行方は他の奴らに任せるとして、こっちは被害者の妹にでも、話を聞いてみるか。
「おい、被害者の妹さんがいる芸能事務所は、池袋だったな」
「あ、はい、確かサンシャイン60のすぐ近くです。でも、それがどうかしましたか?」
小山内が、不思議そうな表情で田所の顔を見た。
「妹さんに、話を聞いてみるんだよ。今から事務所に行くぞ」
「でも、妹さんなら、以前、浅川先輩たちが話を聞いてますよ。残念ながら、とくに役立ちそうな情報はなかったはずですが」
「そのときは、まだ事件からそれほど時間がたっていなかったから、容疑者を絞り込めていなかった。容疑者をある程度絞り込めてきた今なら、以前には聞けなかった話が聞けるかもしれんだろう」
「あ、なるほど」
――相変わらず、呑気なお嬢様だ。
走り出した車の中で、田所は窓枠に肘をつきながら、小山内に聞こえないように溜め息を吐いた。
*
田所と小山内は、明治通りを池袋に向かった。サンシャイン60の目の前を通り過ぎた後、左折して狭い路地に入る。
一棟の雑居ビルの前に車を止めると、二人は道路に降り立った。田所は、車のドアをバタンと乱暴に閉め、ビルを見上げる。横に立つ小山内も、田所を倣ってビルを見上げた。
お世辞にも、新しいビルとは言えない。モルタル塗装らしい白い壁が、一見して昭和のそれと理解できる、古びたビルだった。
ビルの壁から突き出ている看板を、下から順番に確かめる。目的の芸能事務所は、三階に入っていた。エレベーターに乗り込んだ田所たちは三階で降りると、事務所の入口をノックして中に入る。
たまたま居合わせた女性従業員に「こういうものです」と、警察手帳を見せた。微かな動揺を見せながら「ご用件は」と問い返す女性を前にして、すかさず上着のポケットから莉子の写真を取り出す。
今朝、グループのホームページから慌ててダウンロードし、プリントアウトした写真だった。もちろん、一連の作業は小山内に任せた。
「おたくの事務所に所属していらっしゃる女性について、ちょっとお話をお聞かせ願いたいのですが」
写真を見せると、女性は一瞬、迷うような表情を見せたものの、「こちらへどうぞ」と二人を招き入れた。
応接室と思しき、小綺麗な部屋だった。ソファに身を沈めてしばらく待っていると、ドアが開いて一人の男性が入ってきた。髭を蓄えて、濃いグレーのダブルスーツに身を包んだ小男だった。男は「ご苦労様です」と、何度も頭を下げて、ことさら恐縮そうな様子を見せながら、名刺を差し出した。
名刺には「プロデューサー 坂上泰輔」と印刷されていた。
「あの、うちの子に何か」
怪訝そうな表情だ。
「いや、大したことではないのですがね」
田所は、上着のポケットに再び手を入れると、笑顔を心がけながら莉子の写真を見せた。
「この女性は、御社のグループのメンバーですね」
坂上は老眼なのか、手に取った写真をやや遠ざける仕草で見つめる。
「ああ、朝霧莉子ですか。確かに、うちのグループのメンバーです」
即答した。すかさず、小山内が尋ねる。
「今日は、どちらにいらっしゃいますか?」
「あの、莉子が何か?」
反応から推察すると、どうやらこの男は莉子の兄の事件そのものを知らないらしい。恐らく、莉子本人が敢えて口を閉ざしているのだろう。ならば、莉子のためにも、あまり込み入った説明はしないほうが賢明だ。田所はそう判断した。
「いえ、別に怪しんでいるとか、その手の話ではないんです。実は、この方のお兄さんがちょっとした事件に巻き込まれまして……。もちろん、被害者なんですが。で、妹さんとして何かご存じであれば、お聞きできればと思っただけなんですが」
田所の補足説明に事情を理解したのか、坂上は表情を微かに緩める。
「今日はオフなので、どこにいるかはわからないんですよ。基本、プライベートまではあまり関知していませんので」
「どんな方なんですか? その莉子さんというのは」
坂上は、小山内の質問につくり笑顔で答える。
「莉子は、いい子ですよ。運動神経もいいし、ダンスもなかなかだし、何よりも負けず嫌いな点が……」
ここで、坂上の言葉が一瞬止まった。何かを考えている様子だった。
「でも……」
口から僅かに零れた坂上の一言に、田所がすかさず、しかしあくまで柔らかく反応した。
「でも、何です?」
相手の懐にすっと入り込むような田所の声に、坂上はややためらいながらも言葉を続ける。