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自分に関する話題以上に、嬉しそうな表情だった。“桜木咲良より、十倍以上いいでき”という言葉を聞いて、莉子の脳から快楽物質であるセロトニンが一気に放出された。
――そうよ。私が咲良なんかに負けるわけがない。
しかし、本音とは裏腹に、しおらしく反応する。
「でも、サビの部分のステップが、少しずれたかも」
コウ君は、驚いた様子で莉子をじっと見つめていたが、やがて表情を崩した。
「莉子さんは、やっぱり自分に厳しいですね。でも、他の人もここぞというタイミングで結構ずれてましたし、センターの波多野優未なんて、ソロの部分で思いっきり音を外してましたよ。彼女たちに比べたら、莉子さんははるかに完成度が高かったと、僕は思います」
「よく見てたんだね。でも、そんな時間に起きてたら、寝不足になるよ」
照れ臭くて、思わず話を逸らした。しかし、もちろん嬉しかった。
「大丈夫ですよ、録画でしたから。前に会ったときに言ったでしょ。録画しとかなきゃって。昨日の朝、四回も見直しちゃいましたよ」
莉子の周囲に、柔らかい空気が流れた。とても心地よい空気だった。
その空気の向こうで、コウ君が何かを思い出したように、両方の掌を合わせた。
「そうだ。話があるんでした」
「何の話?」
「嫌だなあ、莉子さんたら。例の依頼の話ですよ」
――用事っていうのは、そのことだったんだ!
コウ君の言葉に、先ほどまでとは別の種類の緊張の糸が、ピンと音を立てて張りつめた気がした。
「見つかったんですよ」
コウ君は、ポケットから一枚の小さなメモ用紙を取り出し、莉子に手渡した。
「この場所にいるそうです」
差し出されたメモを前に、莉子の気持ちは一気に昂った。体中の血液が重力に逆らって脳に集中する。先ほどまでの緊張感と、新たに生まれた幸福感が一緒くたになり、今までに感じた経験のない高揚感が、身体の深い部分から湧き上がってきた。
正体不明の感情に身を委ねながら、それにしても、と莉子は思う。
――コウ君の情報網は本当に、信じられないほど凄い。
世界中に情報網を張り巡らせていると言われれば、今の莉子なら何の疑いもなく信じてしまうだろう。莉子は心から驚き、感心し、同時に感謝しながらメモ用紙を受け取った。
「例のコピー用紙が、役に立ったんだね」
コピー用紙とは、言うまでもなく、忍び込んだ東新宿のマンションのゴミ箱から見つけた地図のことだった。コウ君は「ええ」と小さく頷いた。
手の上のメモ用紙に目を落とした莉子は、思わず呟いた。
「あれ。私、この場所、知ってるかも」
「そうなんですか?」
「だって……」
コーヒーが運ばれてきた。莉子は、ウエイトレスに軽く頭を下げると、不思議に思いながらコウ君を見つめた。
「ここ、ジャイアンツの球場のすぐ近くなんだよね。すぐ横に遊園地もあるんだよ。私も子供の頃、この辺りにはよく行ったなあ。でも、どうして……」
「仲間たちに手分けして探してもらったんですよ。他ならぬ莉子さんのためですからね」
屈託なく笑うコウ君の、愛情に満ち溢れた表情に、莉子は喉まで出かけていた言葉を思わず飲み込んだ。
――今は、コウ君を信じて、彼の好意に甘えておこう。
「今からだと、午後二時十五分頃の電車に乗って、真っすぐ向かえばいいんじゃないでしょうか」
コウ君の真剣な眼差しが、莉子の目を捉えた。
――コウ君は、私が乗るべき電車の時間まで気にかけてくれている。
感謝の言葉もなかった。
「うん、そうする」
コウ君は、莉子の気持ちを確認して満面の笑みを浮かべると、腕時計に目を落とした。
「本当は、もっとお話ししていたいんですが、僕はちょっと用事があるので、今日はお先に失礼します。遅れると、取り返しがつかない事態になるかもしれないんですよ」
恐らく“取り返しのつかない事態”というのは、コウ君特有の大げさな冗談なのだろう。屈託のない笑みが、莉子の心を解きほぐし、余分な緊張感を取り除いてくれた。
「また連絡しますね」
「うん、いろいろと有り難うね」
莉子は今一度、深々と頭を下げた。莉子の感謝の言葉を確認したコウ君は、「じゃあ、くれぐれも気をつけて」と莉子に微笑みかけながら席を立った。
店を後にするコウ君の後ろ姿を見送った莉子は、遠慮がちに振っていた右手をゆっくりと下ろす。
まだコーヒーを飲んでいなかった事実を思い出して、カップに口をつけた。コーヒーの仄かな酸味とともに、抑えられない喜びが胸の中に広がり、胸が高鳴った。
――やっと会える。夢じゃない。本当に会えるんだ。コウ君、有り難う。
*
午後二時を過ぎた頃、莉子は喫茶店を出ると新宿駅に移動して、電車に乗った。
五分ほど電車に揺られていると、スマートフォンが振動した。
紗英からのSNSだった。
さえ 今日の送別会、参加者は二人増えて、八人になったよ。で、開始時間は、主役のあやせの都合で三十分遅くなった。
りこ 了解。
さえ 時間通り、来れそう?
りこ うーん、一時間ぐらい遅れるかも。
さえ えー、何で?
りこ 送別会の前に、ちょっと行くところがあって……。
紗英は、それ以上、追求してこなかった。相手が聞いてほしくないこと、言いにくいことを瞬時に判断して、決して相手を不快にさせない。このあたりの絶妙な距離感の取り方は、紗英ならではの心遣いだ。
ふと、IT社長とのスキャンダルについて聞いてみたくなった。
昨日、紗英のスキャンダルがネットで記事になっている事実を、グループのメンバーからのSNSで知らされた。まさかと思ったが、教えられたアドレスにアクセスして記事を読んでいるうちに「本当の話なのではないか」と不安になった。
以来、紗英本人に話を聞いて真相を確かめたいと思っていたのだが、内容が内容だけに、なかなか聞くきっかけを見つけられないでいた。
紗英のことだから、答えたくなければ、きっと上手にはぐらかすだろう。そう考えながら、右手で質問を入力した。
りこ 例のスキャンダルの記事、読んだよ。あれ、嘘だよね?
さえ もちろん、でまかせだよ。
さえ 以前も話したでしょ? 兄貴の友だちから新規事業について相談されてるって。写真の人は、その兄貴の友だち。恋人でも何でもないよ。
りこ でも、キスして……。
さえ あのときは、事業について新しい内容を思いついたの。タクシーの運転手さんに聞かれるのもどうかと思ったから、耳打ちしただけ。それをキスって……。記事を見たときは笑っちゃったよ。
紗英の精神力の強さに改めて感心するとともに、心のつっかえが取れた気がした。やはり、紗英にスキャンダルは似合わない。
胸を撫で下ろしていると、新しいメッセージが表示された。
さえ 実をいうと、今、事務所なの。プロデューサーさんたちに事実関係を説明したり、今後の対策について話し合ったりしてるんだ。
記事を見て笑ったとは言いながらも、大変な状況になっていることを、容易に想像することができた。紗英が置かれている状況に同情していると、再びメッセージが届いた。
さえ ところで、行くところって、どこ?
距離感の取り方が絶妙であるはずの紗英にしても、やはり気になるらしい。
りこ ジャイアンツの球場の近く。
紗英の返事が送られてくるまでに、二分ほどの時間があった。
さえ そっか。ま、できるだけ早く来るんだよ。
二分もかかった割には、短い返事だった。どのような返事を送るべきか、悩んでいたのかもしれない。
莉子は「うん、わかった」と入力すると、送信ボタンを押してスマートフォンの電源を切った。