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十一月二十七日 午後十二時三十分
目が覚めた莉子は、自宅マンションのベッドの中で、まどろみながら、悩んでいた。
――そろそろ起きなくちゃ……。でも、あと五分でいいから寝ていたい。
カーテンの隙間から差し込む光は、すでに朝のものではなく、昼間のそれとなっていた。力強い昼の光が、莉子の体を覆う布団の上に細長い光の道をつくり出している。窓の外からは、親子連れでのお出かけなのだろうか、子供たちがはしゃぐ声と、そんな子供たちを落ち着かせようとする母親らしき女性の声が聞こえてくる。
枕元の目覚まし時計を見る。針は午後十二時三十分を指していた。
昨夜は、深夜枠のバラエティ番組の収録があったため、帰宅したのは深夜二時を過ぎた頃だった。深夜帰宅は、今までに何度もあった。しかし、二列目ともなると、その他大勢とは違って、格段に露出度が増える。二列目になって初めて、バラエティ番組の収録に臨んだ莉子は、緊張しっ放しだった。
――まだまだ、慣れないな。
しかし、嬉しさを伴った緊張だった。そして今は、ベッドに横たわりながら、心地よい疲労を全身で感じていた。
今日は、久々のオフだった。
――せっかく二列目になれたんだし、身嗜みにも気をつけないと。髪でも切りに行こうかな。
夕方からは、グループを卒業する先輩の私的な送別会に、紗英たちと一緒に顔を出す予定になっていた。
寝返りを打ったとき、枕元に置いてあったスマートフォンの着信音が鳴った。
――誰だろう?
目の前の白いテーブルに手を伸ばして、天板の上でしきりに鳴り響くスマートフォンを取り上げる。
太陽光の残像だろうか。目の中で、小さな光の粒がちらついている。無数の光の点滅が、心に僅かな油断を生み出した。低いテンションを取り繕うことも忘れて、着信画面を確認しないまま、無意識に電話に出た。
「もしもし」
「僕です。こんにちは」
コウ君からだった。
いつも通りの爽やかな声を、スマートフォンの向こうで響かせる。
「今日、確かオフでしたよね。今からぜひ会いたいんですが、会えませんか? 午後一時三十分に、新宿のいつもの喫茶店で」
*
莉子は黒いジーンズに濃紺のジャンパーを羽織って、慌ただしくマンションを出た。
閑静な住宅街、そして賑やかな駅前の商店街を抜けて、最寄りの駅へと向かう。五分ほど歩いて駅に着くと、改札を抜けて新宿方面行きの電車に乗り込んだ。
新宿駅までは、快速で五駅だ。後方に流れていく住宅や人々の姿をサングラス越しに眺めながら、莉子は未だに解けない不安と緊張の中で、ふと考えた。
――急に会いたいなんて、何だろう。
今頃になって、用件を聞いていない事実に気がついた。体全体を支配していた疲れのせいで、思うように言葉が出なかった事実が悔やまれた。
窓の外を目にも留まらぬ速さで過ぎ去っていく景色は、心が小さく揺らいでいる今の莉子には、刺激が強過ぎた。莉子は、脳と目に軽い疲労を感じて、そっと目を閉じる。
すると、閉じた瞼の裏に、人物らしき影がぼうっと浮かび上がった。
――誰?
最初は人物かどうかも怪しいほどの靄に過ぎなかった影は、時間と共に陰影と輪郭が少しずつはっきりしてくる。その人物の正体は、莉子に微笑みかける兄だった。
――お兄ちゃん……。
莉子は、思いもよらない事態に狼狽しながらも、懐かしさと愛おしさに包まれる思いで、兄の残像に視線を留めた。
暗闇の世界で揺らめいている、兄の残像。やがて、その残像は少しずつ形を歪め、靄のように周囲の灰色の中に溶けていった。
疲れのせいだろうか。自分でも意外に感じられる思いが、ふと頭に浮かんだ。
――なぜ、刺されなくちゃならなかったの?
刺されたときは、さぞ痛かったことだろう。傷口から溢れ出る血を見たときは、どんな気持ちだったのだろう。
刺した人物は、倒れる兄を見て、どんな感情を抱いたのだろうか。さまざまな考えが次々と溢れ出て、気持ちが重くなった。
莉子は目を閉じたままで、唇を噛み締めた。思わぬタイミングで兄への思いが頭に浮かんだことに対して、どう対処していいのかわからず、莉子はただ電車の揺れに身を任せる。
十五分ほど揺られていると、電車は終点である新宿駅のホームに滑り込んだ。莉子は、行き来する人々の残像を追いながら、落ち込んだ気持ちを半ば強引に封印すると、ホームに降り立った。
抑え込んだ感情が、再び溢れ出さないように細心の注意を払いながら、途切れた線路の先に並んでいる自動改札を抜ける。両側に店が立ち並ぶ地下街をしばらく歩いて階段を上ると、地上に出た。
時間は、平日のちょうど昼過ぎだ。新宿の街は、いつもと同じく喧騒の中にあった。人混みを抜けた後、目的地の喫茶店が入っているビルの階段を上り、ドアを開ける。奥の席に視線を移すと、コウ君はすでにいつもの席に着いていた。
何気なく腕時計を見た。針は午後一時三十分を指していた。
莉子に気づいたコウ君は、軽く右手を挙げながら微笑む。いつも通りの笑顔だった。コウ君の涼しげな瞳に捉えられたままで向かいの席に座ると、莉子はウエイトレスにブレンドコーヒーのホットを注文する。
温かな気持ちに心地よく包まれながらも、莉子は改めて、最初に口にするべき言葉について思いを巡らせた。悩んでいると、コウ君が先に口を開いた。
「二日前の夜に放映された『ミュージック・トランジスタ』、見ましたよ」
ずっと気になっていたことだった。しかし同時に、感想を聞く行為に、恐怖に近い不安を感じていた。
――けなされたら、どうしよう。
思い切って感想を尋ねるべきかどうか、最適解を見つけられなかった莉子は、「そうなんだ」と曖昧な返事をすると、上目遣いでコウ君の顔を観察した。
「素晴らしかったですよ。初めての二列目とは思えないほど、堂々としてましたし」
予想を上回る誉め言葉だった。喜びのあまり、思わず尋ねる。
「点数をつけるとしたら、何点ぐらい?」
「そうですねえ」
コウ君は顎に右手を当てて宙を見上げ、しばらく考えた後、口を開いた。
「百二十点かな。桜木咲良より、十倍以上いいできだったと思います」