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――ここか。
ゴシップ記事の取材とは異質の、今まで味わった経験のない緊張感が、心臓の鼓動を速めた。ノブを握ってドアを少しだけ開くと、そっと中を覗き込む。入口近くに置かれたアウトドア用のランプが、内装の取り払われた二十畳ほどの四角い空間を照らし出していた。
物音は聞こえない。
部屋の奥に、倒れた椅子が見えた。目を凝らすと、椅子の横に人間らしき影がうずくまっている。祐真だった。
「大丈夫か!」
京介は、警戒することも忘れて乱暴にドアを開け放つ。部屋に足を踏み入れるが早いか、祐真に駆け寄った。
祐真は目隠しをされて、ロープで手足を縛られた状態のままで倒れていた。椅子と体は、固定されていなかった。もともと椅子に座らされていたが、もがいているうちに椅子もろとも床に倒れたのだろう。
京介はしゃがみ込むと、両腕で祐真の上半身を抱き起こした。
「申し訳ないっす……」
祐真は、電話のときと同じく、謝罪の言葉を口にした。口と鼻の下にはべっとりと血が纏わりついており、目隠しを外すと、目の周囲から頬にかけて青いあざができていた。京介がハンカチで血を拭うと、祐真は「いててて」と顔をしかめた。
「酷い目に遭ったんすよ。いきなり背中に刃物だか何だかを突きつけてきて……。ここに連れ込んだと思ったら、目隠ししたうえで縛りつけて、殴る蹴るっすから」
「連行されるとき、抵抗はしなかったのか」
「京介さんも知ってる通り、俺、喧嘩は強くないっすから」
ロープをほどく京介の前で、祐真は苦しそうに顔を歪めて笑った。笑顔に似合わない青あざが、痛々しかった。
「すまない。俺のせいで、こんなことに……」
相手を拉致して暴行するという残虐な行為の割には、スマートフォンを取り上げていないばかりか、外部からの侵入を防ぐ処置も施していない。犯人が祐真に言った言葉と合わせて考えても、京介に対する警告である事実は、明らかだった。
ロープから自由になると、祐真は床に転がっていた自分のスマートフォンを拾い上げて、右手で埃を払った。
「いったい、何があったんすか?」
「ああ、ちょっとばかり、弱みを握られてしまったようでな」
京介は曖昧な説明をした。祐真は、スマートフォンをポケットに入れると、ロープの跡がついた両手首を痛そうにさすりながら、京介を見上げた。心配そうな表情だった。
「弱みって、例の財布っすか? ひょっとして、脅迫されたときにどうするかっていう昨日の話は、例え話なんかじゃなくて、本当の話だったんすか?」
「まあ、そんなところだ」
「相手は、誰なんすか?」
「それが、わからないんだ」
答えながら、京介は考える。
今までは、取り引きの重要性を忘れて、感情のままに犯人捜しばかりに躍起になっていた。しかし、相手は祐真を巻き込むほどの強硬手段に出てきた。これ以上、こちらが下手に動けば、再び不測の事態が起こりかねない。しかも、取り引き自体が破談になる可能性もある。
それだけではない。
未だ連絡がないとはいえ、最初の脅迫電話のときに指定された取り引き日は二十七日、つまり明日だ。残された時間で犯人を捜し出して、事態を進展させるのは、どう考えても難しい。
残された選択肢は、ただ一つだった。
京介は、決意を固めた。
「今、決めたよ。お前が言ったように、取り敢えず取り引きに応じてみることにする」
――そして、赴いた取り引き場所で取り引きの流れを観察し、可能ならば隙を見て財布とともに金も取り返す……。
「……俺に、手伝えることはありますか?」
「いや、これは俺の問題だ。お前に頼るわけにはいかない」
祐真は、薄汚れた床に両手を突いて身を乗り出すと、目の前にある京介の顔を正面から見た。
「何が起こってるのかはわからないっすけど、無茶だけはしないでください」
京介は溜め息を吐き、小さく頷いた。
「わかった。その代わり……」
「その代わり……?」
京介は、強い目線を祐真に送った。
「ことが片づくまで俺から距離を置いてくれ。電話も寄こすな」
「でも……」
驚いた様子で反論しようとする祐真の言葉を遮って、続ける。
「こんなことに巻き込んでしまって、本当に申し訳なかったと思ってる。だが、数日後には、すべて片がつく。そうしたら、俺から連絡する。わかったな」
しばらく何か言いたそうにしていた祐真だったが、やがて俯くと、無言のままで首を縦に振った。
京介は、祐真を支えながら部屋を出ると暗い廊下を進み、地上へと続く階段を上った。数時間ぶりに暗闇から地上に戻ってきた祐真は、街灯を見上げると、眩しそうに目を細めた。
「それにしても、あの体勢で、よく電話ができたな」
「手は体の前で縛られてたんで、ポケットのスマホを床に置いて、何とか通話ボタンを押せたんすよ。まるで、スパイ映画っすよね」
祐真は、右腕を京介の肩に回した状態のまま、軽い調子で笑った。いつもの祐真に戻っていた。
ビルの外に出ると、京介は手を上げてタクシーを止め、後部座席に祐真を乗せた。ドアが閉まるとき、ポケットから取り出した五千円を手渡した。
「これはタクシー代だ。じゃ、また連絡する。気をつけてな」
つくり笑顔で別れを告げると、祐真も寂しそうに笑って、手を振った。
*
タクシーを見送った後、一人で新宿駅に向かった京介は、総武線に乗り込んでホテルに戻った。
ベッドの上に寝転ぶと、急に恐怖心が沸き上がってきた。いや、実を言うと歌舞伎町で地下街に足を踏み入れたときからずっと、恐怖を感じていた。ただ、祐真を助けたいという意志が、その感情を上回っていたに過ぎなかった。
手を見ると、じっとりと汗をかいた掌から伸びる指の先が、細かく震えていた。思わず、部屋のドアの方向を見る。鍵は、閉まっていた。
京介は視線を天井に戻すと、部屋を照らす照明をぼんやりと眺めた。
そのときだった。
スマートフォンの通知画面が、SNSの着信を告げている事実に気づいた。スマートフォンを取り上げて、アプリケーションを立ち上げる。
犯人からの、SNSへの招待だった。
祐真の拉致監禁という予想外のできごとのために、犯人からの招待を待っていた事実を、すっかり忘れていた。さっそく友だちに追加するとともに、祐真を襲った真意を質す文面を送る。
ふと見ると、バッテリーの残量が半分もなかった。充電しようとコードに手を伸ばすと、スマートフォンが震えた。
――早いな。
京介は深呼吸をしながら起動ボタンを押して、SNSの画面を確認する。
今日の行為は、ちょっとした忠告だ。
これ以上変な気を起こせば、取り引きを中止する可能性もあるからな。
取り引きが中止になれば、恐らく財布と中身が警察の手に渡る結果になるのだろう。それだけは、何としても避けたかった。
返信する間もなく、再びメッセージが届いた。京介は画面をスクロールし、新しい内容をチェックする。
取り引きの時間と場所を告げるメッセージだった。
明日、二十七日の午後二時三十分、金を持って京王線の稲城駅の改札口に来い。
そこで新しいメッセージを送る。
取り引き場所が、稲城駅という辺鄙な場所であることを怪訝に思った。しかし、まったく土地勘がない場所というわけではないので、京介には好都合だった。不幸中の幸いと言えなくもなかった。
そもそも、取り引きに応じることを決めたのだ。京介は、余計な疑問はもつまいと自分に言い聞かせながら、スマートフォンの電源を切ると、静かに机の上に置いた。