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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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十一月二十六日 午前十一時


 父親は、俺が幼い頃に死んだ。

 それから間もなく、母親は家を出てゆき、残された俺は十歳ほど年齢の離れた姉とともに、母方の叔母のもとで育てられることになった。

 叔母にとって、俺たちはつねに邪魔者だった。独身であるにもかかわらず、突然、自分の姉たちから二人の子供を押しつけられたのだ。自分の子と思って無償の愛を注げというのは所詮、無理な要求だった。

 俺たちは、やがて貧困と叔母による暴力、育児放棄、そして学校でのいじめと、世の中の不条理を掻き集めた吹き溜まりのような環境に身を置くことになった。

 叔母を殺して、自分も死んでしまおうと思ったことも一度や二度ではなかった。だが、まだ子供だった俺にそのような行為が実際にできるはずはなかったし、何よりも唯一の家族である姉の存在が思いとどまらせてくれた。

 姉は、背が低く化粧っ気はないものの、弟である俺から見ても美しい女性だった。

 彼女は、その外見からは窺い知れないほど強い性格の持ち主だったが、俺には優しかった。俺が小学校に入学する頃までは、家を留守にしがちな叔母の代わりに、どこからともなく食料やちょっとした金額のお金を調達してきて、食事などの面倒を見てくれることもあった。

 姉から受け取ったメロンパンを頬張りながら、尋ねたことがある。

「お姉ちゃんは食べないの?」

「うん、お姉ちゃんは、もうお腹一杯食べてきたから」

 今なら理解できる。そのときの姉は、本当は空腹に耐えていた。恐らく、そのメロンパンも合法的に手に入れたものではなかったのだろう。

 しかし、当時の俺には、姉の嘘を見抜くことなどできるはずもなかった。姉がすでに満腹になっていると信じて疑わなかった俺は、そんな姉に後れを取るまいと、盗品であるメロンパンに夢中で齧りついた。

 俺が小学校を卒業した頃、叔母に内縁の夫ができた。同時に、俺はその男による暴力の対象となった。体が華奢で意気地もなく、男に抗う術をもっていなかった俺は、抵抗らしい抵抗もできないまま、男の拳を体中に受け続けた。

 中学三年生のとき、俺は家を出た。正確には、度重なる暴力に気づいた姉によって連れ出されたというのが真相だった。

 姉は、俺の世話をするために、今まで働いていたコンビニエンスストアを辞め、もっと効率のいい働き口を探した。同時に、俺の仕事も探してくれた。といっても、二人の力だけでは限界がある。最終的に、姉の学校の先輩だった知人に相談した。彼は、とても優しく物腰の柔らかい人物で、俺たちのために何かと世話を焼いてくれた。

 姉は、彼の紹介でキャバクラ嬢として働きはじめた。一方で、俺が紹介された仕事は賃金の安い重労働ばかりだったが、それでも身元の調査がそれほど厳しくない点では有り難かったし、何よりも生きていくために働くしかなかった。

 彼がヤクザである事実、そして姉が彼と男女の関係になっている事実は、後に姉から知らされた。

「ごめんね」と、姉は俺に謝った。多分、自分がヤクザの彼女であることが、俺の将来にとってマイナスになるかもしれないと危惧していたのだろう。だが、彼のおかげで何とか仕事にありつけていた俺に、姉を責める資格はなかったし、何よりも責める気など、これっぽっちもなかった。

「俺のことなら、心配しなくていいよ。姉さんは、僕のために我慢する必要なんかない」

 そう答えると、姉は困ったような笑顔を見せた。

 彼には「俺の子分にならないか」と何度も誘われたが、俺自身がヤクザになる結果にはならなかった。代わりに、ヤクザに限りなく近い、いわゆる半グレ的な集団と細からぬパイプが構築される結果となった。

 有り余る若さと可能性を浪費するような、不条理で過酷な労働を続けて数年、人づてに叔母の内縁の夫の死を知った。仕事先の運送会社が倒産して収入を絶たれ、借金を重ねた末に首を吊ったとの話だった。借金の保証人になっていた叔母も、間もなく男の後を追うように入水自殺した。

 葬儀には出席しなかった。ただ、知人に勧められるまま、紹介された弁護士事務所を訪ねて、相続放棄の手続きをしただけだった。

 その場で俺は、自分が中学校を無事に卒業している事実を、弁護士から初めて聞かされた。最後の数ヶ月間、学校に行かなかった俺の卒業証書を、叔母が受け取っていたらしかった。

 しかし、それはどうでもいい話だ。

 それよりも、弁護士事務所を出たときに姉が呟いた言葉。その言葉を、俺は今でも鮮明に覚えている。

「私は、どんなことがあっても、しぶとく生き残ってやる。そしていつか、周りの奴らを見返してやるんだ」

 そんな姉も、俺が二十歳になる直前に姿を消した。電話口で、「やばい奴らに追われてる」と押し殺したような口調で囁いた言葉が、俺が聞いた姉の最後の声だった。

 一人になった俺は、過去を忘れるために本名を捨てて、高見沢祐真という通称名を名乗ることに決めた。

 名を変えて過去と決別した俺だったが、相続放棄の手続きを終えた弁護士事務所の前で姉が口にした言葉だけは、記憶から消えることなく、今も心の支えとなっている。

 ――どんなことがあっても、しぶとく生き残ってやる。

「俺も、しぶとく生き残るよ。姉さん」

 姉がいなくなって例の知人と疎遠になった俺は、仕事を通じて知り合った人物の紹介で、ホストなども経験した。しかし、長続きはせず、歌舞伎町の外れにある大久保公園の路上にしゃがみ込み、一日を過ごすことが多くなっていた。

 周辺では、俺と同じように帰る場所をもたない家出少女が、世の中のすべてに絶望した表情でたむろしていた。自動販売機の陰には、僅かばかりの生活費を稼ぐために売春に手を染めざるを得ない若い女性たちが立っていた。

 いつしか彼女たちと顔見知りになった俺は、少ない食事を分け合ったり、ときにはインターネットカフェの狭い一室で共に一夜を明かしたりするようになった。

 仮初めの関係ではあったが、まるで兄妹のように親しくなった少女もいた。

 名を、サキといっただろうか。

 大久保公園のベンチの横で初めて出会ったとき、サキは無邪気にも見える笑顔で、俺に向かって首を傾けた。しかし、その瞳の奥は、すべてを諦めたような灰色の光に支配されているのが、俺にはわかった。

 聞くところによると、いじめが原因で登校拒否となったサキは、両親が成績のいい弟の教育にばかり熱心な家庭の中で居場所をなくし、家出を繰り返しているらしかった。

 狭いインターネットカフェの一室で肩を寄せ合っているとき、サキに聞かれたことがある。

「祐真は将来、どうするの?」

「わからない。考えたこともない。それより、サキは?」

「私も、何も考えてないよ。家に帰るつもりはないし……。でも取り敢えず、今が楽しければ、それでいいかな」

 サキは、初めて出会ったときのように首を傾けて、俺の肩に頬を乗せた。

「今、楽しい?」

 俺は、ふと尋ねた。深い考えがあったわけではなかった。サキは一瞬、考える素振りを見せた後、深い溜め息を漏らした。

「……わからない」

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