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そう呟いた瞬間、タクシーはドアを閉じると、社長を乗せて再び動きはじめた。後に残された紗英は、タクシーに向かって軽く手を振った。タクシーが視界から消えたのを確認すると、そのまま回れ右をして渋谷の雑踏の中へと消えていく。
祐真が「ええーっ?」と素っ頓狂な声を上げた。京介も、一点買いの馬券を外したときに近い敗北感に、思わず天を仰いだ。目の前にはレンタカーの天井が広がっていた。
だが、考えてみれば、キスの場面かどうか定かではないものの、キスをしているように見えないでもない場面は、写真に収めることができた。
そういう意味では、ベストとはいえないまでも、最低限の収穫はあった。敗北感をもつ必要などはないはずだ。
天井から視線を落とすと、京介は祐真に提案した。
「急な用事を頼んで、申し訳なかったな」
このまま水道橋まで送ってもらおうと思ったが、ただ送ってもらうだけでは、祐真に申し訳ない。そう思った。
「飯でも食いに行くか。時間はあるか」
「はい、全然あるっす!」
祐真は、急に背筋を伸ばして、嬉しそうに京介の顔を見た。
明治通りを新宿方面に向かう車の中で、京介は運転席に座る祐真に目を遣った。背筋を伸ばしてハンドルを握る姿が、いつにも増して頼もしく思えた。
*
ふと、犯人捜しについて考えた。
犯人は、未だに見つかっていない。仮に、脅迫された事実を警察に通報すれば、比較的、簡単に捕まえることができるのかもしれない。しかし、脅迫の内容が内容だけに、警察に頼るわけにはいかなかった。
――祐真なら、こんなときにどうするのだろう?
四谷の交差点を過ぎたとき、思わず祐真の横顔に問いかけた。
「例えばの話なんだが……」
「何すか?」
ハンドルを握ったまま、祐真が京介の言葉に反応する。
「仮に、正体がわからない誰かに脅されたとしよう。お前ならどうする?」
紗英とIT社長の写真をようやく撮影することができたという安心感と、祐真に対する信頼感から、自分でも予想していなかった言葉が、つい口を突いて出た。一瞬、しまったと思ったが、後の祭りだった。
「何か、物騒な話っすね」
明らかに話の続きを期待している祐真の口調に、京介は仕方なく続ける。
「お前だったら、犯人を捜し出してこっそり反撃に出るか? それとも、大人しく取り引きに応じるか?」
祐真はしばらく黙っていたが、信号で止まったタイミングで、助手席の京介を見た。
「俺だったら……。場合にもよりますけど、基本的には大人しく取り引きに応じると思うっす」
意外な答えだった。祐真の性格を考えると、てっきり徹底抗戦するものと思っていた。そんな京介の驚きをよそに、祐真は当然といった口調で笑った。
「だって、昔っから言うじゃないすか。長いものには巻かれろって。短い奴が長い奴に抵抗しようとしても、無理なんすよ、きっと」
身もふたもない話だが、確かに的を射た意見だった。京介は、ふうと小さく息を吐くしかなかった。
「脅されてるんすか?」
祐真は、この場面なら当然、誰もが思いつくであろう疑問を口にした。
「いや、そういうわけじゃなんだが……。あくまで、もしもの話だよ」
答える京介の、歯切れは悪い。
「京介さんだったら、どうするんすか?」
「俺だったら、取り引きより前に、まず犯人捜しをするかな」
「で、犯人が見つかったら?」
「それはわからん。でも少なくとも、思考が停止した状態で、言われるがまま取り引きに応じるなんていうのは……」
愚かな行為だ、と言いかけて、京介は言葉を飲み込んだ。本当のところ、どちらが正しいのか、今の京介には判断のしようもなかった。
仕方なく話題を変えた。
「ところで、ミーは元気か」
深刻な雰囲気を帯びていた祐真の口調が、再び明るさを取り戻した。
「ミーっすか。今朝も元気でしたよ。毎朝、俺の体の上だろうがソファの上だろうが、お構いなしに走り回るんすよね。おかげで、早起きになりましたよ。早起きは……何文の得でしたっけ?」
「三文だ」
今日もミーが元気でいるという安心感と、祐真の愛すべき天然ぶりに微笑ましくなり、京介は不安を忘れて思わず笑ってしまった。
「もうしばらく、預かってもらうことになりそうだが、よろしく頼むよ」
「了解っす。もし手伝ってほしいことがあったら、何でも言ってください。いつでもOKっすから」
「ああ」
献身的ともいえる祐真の言動は、心底有り難かった。
*
祐真との食事を終えた後、ホテルに戻ったときには、午後九時を回っていた。
さっそく、パソコンで青戸出版の遠山にメールで画像を送る。先ほど撮影したばかりの、紗英とIT社長の写真だ。
送信を確認した後、急いで電話をかける。
遠山は、すぐに出た。
「栃ヶ谷紗英から直接、話を聞くことはできませんでしたが、取り敢えずキスの現場だけは押さえることができました」
そう告げると、遠山は興奮のためか、電話口の向こうで声を上ずらせた。
「凄いじゃないか。やったな」
「運がよかっただけです。今、メールを送りました」
「そうか。ちょっと待ってくれ」
一呼吸置いて、電話口から「おお、これか」と、驚きを伴った遠山の声が漏れ聞こえた。遠山の声に一安心して、話を進める。
「で、今後のスケジュールの件なんですが」
京介の問いかけに、遠山のテンションが急に低くなった。
「ああ、締め切りか……」
何かを考えているような間があった。やがて発せられた遠山の声は、申し訳なさそうな小声に変わっていた。
「急で申し訳ないんだが、明日の朝までに上げられないか? もし何とかなるなら、明日の午前中、写真と一緒にサイトにアップしたいんだが、どうかな」
サイトとは、青戸出版の系列会社が運営するゴシップ記事専門サイトを指す。記事を読む読者が目にする広告収入で、利益を上げているサイトだった。そのサイトでの読者の反応がよければ、ネットでの記事に加えて続報を加筆するという形で、紙媒体に掲載される流れになる。
「実は、アップする予定だった記事のうちの一本が、間に合うかどうか微妙な状況でな。代わりと言っては何だが、もし間に合うなら、トップ記事として扱う。約束する」
大手出版社では有り得ないが、自転車操業が常態化している零細出版社では、ままある事態だ。逆に言えば、このような不測の事態にも快く大人の対応ができるかどうかが、三流ライターがこの世界で生き残っていけるかどうかの分岐点になる。
しばし思案を巡らせて、京介は提案に乗ることを決意した。
「わかりました。頑張ってみます」
紗英とIT社長の経歴やプロフィールに関しては、今まで調べ上げてきたデータをすでにテキスト原稿の形でまとめてある。そのデータを活用して全体のボリュームを水増しすれば、原稿自体は数時間もあれば書き上げられるだろう。そう判断した。
電話を切るとユニットバスに入り、軽くシャワーを浴びた。
体に纏わりついた街の喧騒の記憶と、取材の疲労感を熱い湯と一緒に洗い流すと、Tシャツとスウェットパンツに着替えて、壁際の小さな机に向かう。
――さて、原稿に取りかかるか。
正直、紗英とIT社長が本当にキスをしていたのかどうかは不明だ。しかし、少なくとも写真では、キスをしているように見える。あとは、嘘ではない誇張を多少織り交ぜながら、説得力のある記事を書くだけだ。
――目標は、午前三時頃かな。
京介は、机の上に置かれたノートパソコンを広げて、起動スイッチを押した。