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十一月二十五日 午後五時
京介がゴールデン街で吉田を問いつめてから、一日が過ぎた。
犯人捜しはまったく進展していなかったが、それでも締め切り厳守で原稿を仕上げなければならないのが、フリーライターとしての京介の定めだ。自分の運命を呪いながら原稿を仕上げると、三十分ほど前にメールで出版社に送った。
もともとは、昨日のうちに書き上げて朝早い時間帯に送るつもりだったが、スマートフォンの交換や吉田の待ち伏せなどが原因で筆が進まず、翌日の夕方、つまり先ほどになって、ようやく完成したのだった。
出版社に原稿を送り終えると、空腹である自分に気づいた。脅迫電話があった日以来、身の安全のために外食はできるだけ自粛して、たいして美味くもないコンビニエンスストアの弁当で飢えを凌いでいた。
――たまには、気分転換に外食でもするか。
一人での外食にはやや抵抗があったが、祐真に連絡して到着を待っていたら、一時間近くはかかるだろう。思案の末、久しぶりに一人で食べることに決めた。
――確か、駅の近くに中華料理のチェーン店があったはずだ。そこで、餃子とラーメンを食べよう。
ホテルを出た京介は、水道橋駅方面に向かうために、東京ドームの南側を東西に走る外堀通りを西方向に歩いた。用心のために、数十メートル歩くごとに立ち止まってはさりげなく周囲を見回して、怪しい人物がいないかと確認しながら店に向かう。
怪しい人物を露骨に警戒しながら歩くという、何より怪しげな行動を繰り返しながら横断歩道を渡ると、水道橋駅の駅前に差しかかった。何気なく腕時計を見る。時刻は午後五時を過ぎていた。
そのとき、上着のポケットの中で、スマートフォンが振動した。
一瞬、いつもの癖で通話拒否のボタンを押しそうになったところで、はっとした。考えてみれば、これは新しいスマートフォンだ。この番号を知っているのは、祐真と犯人だけだ。ボタンを押そうとする指を直前で止めると、相手の電話番号を恐る恐る確認した。
表示されていたのは、祐真の名前だった。安堵とともに、通話ボタンを押す。
「何だ、今頃。ちょうど昼飯を食おうと思っていたところなんだがな」
「ずいぶん遅いっすね」
電話の向こうで、祐真は呆れたように笑い声を上げた。
「ところで、新しいスマートフォン、使い心地はどうっすか」
祐真から受け取って一日近くがたった今でも、正直なところ、使い勝手には違和感があった。
「ああ、まだ細かい設定はできていないが、サクサク動くし、快適だよ」
強がり半分で、肯定的な返事を返した。
「昨日、ホテルに持っていったときは『古いのと全然違うじゃないか』なんて文句を言ってましたけど、慣れると旧型よりも使い勝手がいいもんでしょ」
祐真は、受話器の向こうで愉快そうに言い放った。京介は、思わず眉間に皺を寄せた。
「人を、時代に取り残された年寄りみたいに言うな。それより、用件は何だ。何か話があるんだろう」
不機嫌な声で答えると、祐真の声が低く、緊張感を帯びた口調に変わった。
「そうそう。大事な話っす。例の不倫芸能人。男と二人連れで店に現れたそうっす」
「何だって! 例のフレンチレストランか」
「はい!」
驚きと興奮で、つい大声になった。
行き交う人々が振り返ったが、他人の視線など気にならなかった。昼食の餃子とラーメンも、瞬時に頭から消え去った。
――獲物がかかったか。
嬉しさの反面、小さな疑問が、ふと頭に浮かんだ。
「店のスタッフから俺に直接、連絡が来る手はずだったんじゃないのか?」
「そのスタッフには今朝も電話したんすけど、やっぱり繋がらなかったんで、今日の夜にもう一度電話して、京介さんの連絡先を教えようと思ってたんすよ。まさか、お二人さんがこんなに早く現れるとは思わなかったもんすから」
祐真が、電話の向こうで申し訳さなそうな声を出した。
「そうか。まあ、それはともかくだ。場所は、六本木だったよな。すぐにレンタカーを手配して、現場に……」
言いかけて、絶句した。財布とともに無くした免許証を、未だ再交付してもらっていない事実を思い出したからだった。拠点を転々とする生活を続けるなかで、すっかり忘れていた。
「祐真、時間はあるか」
「はい。ありますけど、何すか」
「申し訳ないんだが、張り込みにつき合ってくれんか。ついでに、レンタカーを準備してほしい。俺は六本木まで、地下鉄で行く。午後六時に東京ミッドタウン西の交差点で待ち合わせってのはどうだ。間に合うか」
「了解っす! すぐに手配して、向かいます」
高揚した様子で、祐真は電話を切った。
京介は回れ右をして、慌ててホテルに戻った。部屋に入ると、カメラなどの取材道具を素早くバッグに詰め込んで、都営地下鉄三田線の水道橋駅に急ぐ。
日々、特ダネを追い求めて、情報に飢えているゴシップライターの性なのだろうか。不審な追跡者の確認というルーティンワークも、頭から消し飛んでいた。
*
待ち合わせた交差点に着くと、ちょうど交差点の反対車線に、レンタカーを表す“わナンバー”をつけた銀色のコンパクトカーが止まるのが見えた。運転席から顔を出した祐真が、親を見つけた小学生のように大きく手を振ってきた。
「京介さん、ご苦労さんっす!」
「おう、悪いな」
「例のフレンチレストランは、ミッドタウンのビルの北の角っす」
「ああ、わかってる。遠目になら、ちょうど北側の公園から店内が見渡せるはずだ。俺は公園の木の陰から中の様子を伺ってみるから、お前はミッドタウンの前に車をつけておいてくれ」
祐真の「了解!」という返事を背に、京介は取材道具が入ったバッグを担いだまま、足早に公園へ向かった。
再び横断歩道を渡ると、東京ミッドタウンの北側に広がる公園へ足を踏み入れる。右側に聳える建物を注意深く観察しながら、桜の木が植えられた遊歩道を進んで、レストランの室内が観察できそうな場所を物色する。
ちょうど、レストランの窓の正面に、桜の木が密集している場所があった。
この場所からなら、相手に気づかれる心配もなく、レストランの内部をつぶさに観察できそうだった。
――ひとまず、ここでいいだろう。
周囲を見渡す。もし、人通りがあれば、警察に通報されても文句は言えないだろう。これから自分がおこなう行為が、それほど怪しげな行動である事実は、京介自身も充分過ぎるほどに承知していた。