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祐真がホテルを後にした後も、京介は一時間ほど、新しいスマートフォンと格闘した。しかし、アプリのダウンロードや細かい設定は、なかなか思うように進まない。最後には諦めて、中途半端な状態のままで枕元に放り出した。
――別に、通話ができないわけじゃない。少しずつ進めればいい話だ。
ただ、もっとも大切なことだけは、忘れずに実行しておいた。
犯人に、新しい電話番号を伝える行為だ。
もし連絡が取れなくなったら、京介が逃げたと一方的に判断されて、不測の事態が起こらないとも限らない。そのような事態を避けるために、古いスマートフォンで最後に立ち上げたSNSから、メッセージを送信しておいた。
内容は「今までのスマートフォンの調子が悪くなったために、新しいスマートフォンに変えた」という報告とお詫び、そして新しい電話番号だった。
取り引きの最中に電話番号を変えるのは憚られたが、事態が事態だけに、背に腹は代えられない。犯人が余計な警戒心をもつこともなく、新しいスマートフォンに連絡をしてくることを祈るしかなかった。
それにしても、と京介は思う。
犯人がかけてきた電話は非通知だったから、こちらから電話をかけることはできない。つまり、もし遣り取りが通常の通話でおこなわれていたなら、スマートフォンを交換しても新しい電話番号を犯人に伝えることができず、最悪、連絡が途絶える結果になっていただろう。
通常の通話ではなく、SNSでの遣り取りを利用していた運のよさに感謝した。
*
机の上の時計を見ると、午後四時を過ぎていた。
今日は、午後五時にゴールデン街で吉田を待ち伏せすることに決めていた。京介は、慌てて上着を羽織ると、部屋を飛び出した。
昨日から、ずっと考え続けた結果、吉田は犯人ではないだろうという考えが、より強くなっていた。したがって、今から吉田を待ち伏せる行為は、京介の中では“彼を問い詰めるため”というよりは、“彼が犯人ではないことを確認するため”という意味合いが強くなっていた。
吉田の店の近くまでやってきた京介は、店の入口が見渡せるビルの陰に身を潜めた。吉田はいつも、このビルの前を通って店に行くのが習慣になっていた。
しばらく待っていると、店と反対側の曲がり角から、吉田が姿を現した。ちょうど京介の前に差しかかったとき、京介はビルの陰からゆっくり歩み出ると、吉田の前に立ちはだかった。
「よう、久しぶり」
上目遣いを意識しながら、睨みつける。
「小柳さん……」
京介の姿を見た吉田は、呆然と立ち尽くしていた。京介は、そんな吉田の襟首を掴むと、力任せに路地裏に引きずり込む。?身で腕力にも劣る吉田は、京介のなすがままだった。
壁に押しつけて、これでもかと顔を近づける。すると、吉田は視線を逸らすように横を向いた。
「十一月四日の午後、どこにいた?」
日付を聞いて、すぐにその日のできごとを思い出せるようだったら、残念ではあるが怪しいと言わざるを得ない。そう考えて、敢えて日付で聞いた。
ところが、吉田の返事は意外なものだった。
「またですか? 勘弁してくださいよ」
「“また”だって? それは、どういう意味だ?」
意味不明の言葉に苛立ち、襟首を掴む指に力を入れる。吉田は、「うっ」と力なく呻いた。
「昨日、店に刑事が来て、その日に何をしてたかって聞かれたんですよ」
「何だって?」
まさか、刑事が吉田のもとに来ているとは思わなかった。予想外だった。
――こいつ、警察にも疑われていたのか?
「で、その日……。十一月四日の午後には、何をしていたんだ」
「刑事さんにも言いましたけど、その日は明け方に閉店した後、朝からやってる居酒屋に常連客と行って、その店で夕方まで寝ちまったんですよ」
「なるほど」
吉田の怯えようを見ると、嘘を言っているようには思えなかった。
「刑事たちには、ほかに何か聞かれなかったか?」
「『この写真の男が事件の被害者だ。事件について知っていることがあったら言え』みたいなことを言われました」
「何て答えたんだ?」
「『確かに店の常連客ですけど、それ以上のことは知りません』って答えましたよ。だって、そうでしょう? 俺、本当に事件については何も知らないんですから」
「その後、刑事たちは? 連絡はあったのか?」
「今のところ、連絡はありません。当たり前の話ですよ。俺は何もやってないんですから」
刑事たちに新たな動きがないということは、事件当日の吉田のアリバイは裏が取れたということか。つまり、吉田は犯人ではない可能性が高い。
京介は、そう判断した。
考えを巡らせていると、「もういいでしょう?」と、吉田の弱々しい声が耳に入った。
「そろそろ店を開けなきゃならないんですよ……」
見ると、吉田の顔が今にも泣きそうなほどに歪んでいた。急に気の毒になった京介は、吉田の襟首を掴んでいた手を離した。
「俺と会ったことは、誰にも言うなよ」
「わかりましたよ。黙ってりゃ、いいんでしょ」
吉田は襟を直し、「何で俺がこんな目に……」と吐き捨てるように呟きながら、自分の店に向かっておぼつかない足取りで駆けていった。