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十一月二十四日 午後二時
ホテルのベッドの上に座り込んでいた京介は、机の上に置かれたスマートフォンを手に取ると、アドレス帳を開いた。
祐真に電話をするためだ。
アドレス帳の名前を押すと、二回目の呼び出し音で祐真が出た。
「はい、俺っす!」
バックで、女声ボーカルの邦楽が大音量で響き渡っている。恐らく、いつもの動画サイトでお気に入りのアーティストの曲を聞いていたのだろう。
「おい、そんなに大きな音を出して大丈夫か」
思わず心配になり、要件を忘れて尋ねた。
「大丈夫っすよ。いつものことっす。部屋の中で音楽に合わせて体を動かしてると、気持ちいいんすよ。美容と健康っていうんすか」
「わかったから、取り敢えず音を下げろ。話しにくくてかなわん」
急に、音が消えた。ハアハアという息遣いが聞こえる。
「お待たせしました。何すか」
祐真のマイペースぶりに呆れながら、京介は要件を手短に伝える。
「実は、スマートフォンの調子が悪いんだ。俺は仕事もあって動きにくいから、申し訳ないが、取り敢えずお前の名義で購入して、持ってきてくれないか。もちろん、必要な金はすべて、後で払う」
「そりゃ、大変っすね。了解しました!」
いつも通りの活きのいい返事が返ってきた。
電話から一時間三十分ほどたった頃、ホテルのドアをノックする音が聞こえた。「京介さん、俺っす」という声を確認して、京介はドアを開けた。
ドアの前に立つ祐真の右手に、通信会社の紙袋が見えた。
「京介さん、潜伏場所を変えたの、何度目でしたっけ?」
祐真は、京介に紙袋を手渡しながら、意地の悪い笑顔を見せた。
「四ヶ所めだ」
京介は、ぶっきらぼうに答えながら紙袋を受け取ると、ベッドでスマートフォンの箱を開けた。
真新しい本体を取り出して、電源を入れてみる。本体がブルブルと振動したかと思うと、液晶モニターが明るくなってセッティング用の画面が表示された。
自分でおこなうセッティングは、思ったほど容易ではなかった。機能が桁違いに多く、設定も旧型のモデルとは比較にならないほどに細かい。おまけに、スタートアップガイドは不親切であること、この上ない。
「古いのと全然違うじゃないか」
「世の中、どんどん進歩してるっていう証拠っすよ」
小馬鹿にしたような祐真の言葉を聞き流しながら、京介は額に皺を寄せて、悪戦苦闘を続けた。
しばらくたった頃、祐真が思い出したように口を開いた。
「そうそう、例の芸能人の不倫熱愛疑惑なんっすけど」
京介の手が一瞬、止まった。
「おお、何か新しい情報はあったのか」
京介は、思わず声のトーンを上げる。
「メモにあったフレンチレストランのスタッフと、コンタクトが取れたんすよ。二人が店に来たら連絡をもらえるって話にしたいんで、京介さんの連絡先、教えてもいいっすか」
「そういう大事な話は、最初に言えよ」
京介は、スマートフォンのセッティングを忘れて、軽く咎める視線を祐真に向けた。
一方の祐真はというと、京介の小言など、気に留める様子もない。
「どうします?」
「ああ、ぜひ教えておいてくれ」
あくまで自然体の祐真を見て、問いつめる気力も失せた京介は、諦めた口調で答える。
だが、心の中では驚いていた。駄目でもともとという軽い気持ちで依頼したつもりだったが、まさかわずか数日のうちに、本当に約束を取りつけるとは思わなかった。
「俺、凄いっしょ」
祐真は、得意そうに胸を張った。京介は、祐真の自慢げな態度に気がつかないふりをしながら、スマートフォンに再び目を落とした。
――今度、美味い飯でも奢ってやらなきゃな。
それにしても、祐真の情報収集能力はずば抜けていると、京介は改めて思う。ひょっとしたら、京介以上の潜在能力を秘めているのかもしれない。
――探偵事務所でもやったら、案外、一儲けできるかもしれんぞ。
京介は、心の中で笑った。
そのまま、無言の時間がしばらく続いた。
ベッドの隅で手持ち無沙汰にしていた祐真だったが、やがて暇を持て余しはじめたらしい。ベッドの上を這うように進むと、京介の肩越しに、セッティング途中のスマートフォンを覗き込んできた。
そのとき、ベッドの隅に置いてあった古いスマートフォンに、祐真の膝が当たった。スマートフォンは、シーツの上を滑って床に落ちた。
「あ、すみません」
祐真が慌てて拾い上げると、落ちた拍子に起動した画像表示アプリが、画面に一人の人物の写真を映し出した。祐真が、画面を京介に向けながら、不思議そうに尋ねる。
「誰っすか、この女の人」
京介は横目で確認すると、すぐに手元の新しいスマートフォンに視線を戻した。
「妹だ」
「可愛いっすね。俺に紹介してくださいよ」
「誰が、お前みたいな男に!」
京介は、思わず祐真からスマートフォンを奪い返した。祐真は、露骨に残念そうな表情になって、ベッドに体を預けた。
「妹さんとは、よく会ってるんすか?」
「いや、ここ数年は会ってない」
「妹さんって、どんな人なんすか?」
「そうだな……。甘えん坊でな。小さい頃は、いつも俺の後ろをついて回る、そんな奴だったよ。俺は俺で、こいつは自分が守ってやらなきゃ、みたいなことをいつも考えてた」
果たして今はどうなのだろう。心の中で自問自答した。
「シスコンなんすね」
「うるさい! お前こそ、きょうだいはいないのか?」
「下は、いないんすよねえ」
祐真が、じゃんけんに負けた小学生のように、口を尖らせた。心底、残念そうだった。
「上はいるのか。兄ちゃんか、それとも姉ちゃんか」
「姉ちゃんがいるっす。っていうか、いたっす」
京介は、ドキリとした。思わず、スマートフォンを操作する手を止めた。
「それは、悪いことを聞いたな」
「いえ、別にいいんすよ。死んだわけじゃないすから……。連絡を取り合ってないだけで、今もきっとどこかで……」
歯切れの悪い言葉とともに、会話が終わった。胸に気まずさを抱えた京介の横で、祐真は何事もなかったかのように、京介がセッティングを続ける様子を眺めていた。