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十一月二十四日 午前十一時
莉子とコウ君は、東新宿駅からほど近いマンションの前にいた。
なぜ、二人でここにいるのか。話は昨日、つまり二十三日の午後に遡る。
午後三時頃、レッスンを終えた莉子は、スタジオを出た場所でコウ君に電話をした。かねてから考えていた、ある計画について相談するためだった。
「もしもし、コウ君?」
「あれ?」と、いつも通りのコウ君の、ちょっと鼻にかかった声がスピーカーから響く。怪訝そうな声だった。
「明日はオフでしたっけ?」
莉子がコウ君に電話するのは、ほとんどの場合は翌日がオフの日だ。前回、新宿の喫茶店に来てもらったときはオフの前日ではなかったが、それでも「電話をするのはオフの前日」という緩やかな約束事は、二人の間では今のところ、まだ生きている。
しかし、電話をした時点の翌日に当たる二十四日はオフではなく、午後からレッスンがある。だから、不思議に思ったのだろう。
コウ君が自分のスケジュールを把握してくれている事実が、嬉しかった。
だが、嬉しがっている場合ではない。もっと大事な要件があった。莉子は、声が周囲に聞こえないように、マイクに一際、口を近づけた。
「お兄ちゃんの事件の話なんだけど……。もう一度、自宅に行ってみたいなって思って」
コウ君が探してくれていることには、とても感謝している。しかし、このまま成果がないまま、無為に時間だけが過ぎていくのを指を咥えて見ている気にはなれなかった。
――このままじゃ、いつまでたっても会えないままだ。
そんな焦りが芽生えて、自分から積極的に行動を起こすしかないという結論に達したうえでの提案だった。
コウ君の「えっ」という小さな吐息が、スマートフォンから漏れ聞こえた。
「以前、自宅に行ったけど、もぬけの殻で、しかも鍵がかかってて中に入れなかったっていう話、したよね。でも、もし入れたら、何か手がかりが掴めそうな気がするの」
続けて、無茶な提案をする。
「かといって、一人じゃ怖いし、何より鍵を開けられないから……。何とかして、中に入れないかな」
コウ君なら、鍵ぐらい簡単に開けられるかもしれない。そんな都合のいい期待を胸に抱いていた。
受話器の向こうのコウ君は、無言だった。絶句しているのがわかった。それを承知のうえで、莉子は忍耐強くコウ君の返事を待つ。
「もし、断ったら?」
「一人でも行って、何とかするつもり」
しばらくすると、根負けしたようなコウ君の溜め息が、スピーカーを震わせた。
「仕方がないですね。で、いつ頃に行く予定ですか」
「明日の午前十一時でどう? 明日なら、レッスンは午後からだし」
先程よりも大きく長い溜め息が、莉子の耳に届いた。
「わかりました。じゃあ、その時間に東新宿駅の改札で待ち合わせましょう」
*
莉子とコウ君は、マンション前の電柱の陰に隠れ、オートロックのドアを誰かが通り抜けるのをさりげなく待った。
しばらくすると、住民らしい化粧の濃い女性が、エントランスから外に出てきた。二人は、まるで住民であるかののように装いながら、閉まる直前のドアを足早にすり抜けた。
目的の部屋は、二○三号室だ。部屋の前に辿り着くと、周囲を気にしながらドアノブを回す。やはり、鍵がかかっていた。
エントランスで郵便受けを確認したとき、二○三号室のポストには、郵便物が溢れんばかりに溜まっていた。莉子が前回、訪れて以降、恐らく一度も帰宅していないのだろう。
失望のあまり嘆息する莉子を横目に、コウ君はいつの間に準備したのか、両手に薄手のビニール手袋を嵌めた。左右を簡単に確認すると、ドアの前に屈み込む。
「周りに注意して、人が来たときには、すぐに僕に知らせてください」
そう言うコウ君の手元には、折れ曲がった針金のような道具が握られていた。コウ君は、針金を指先で一回転させて、その一端をドアノブの中央に差し込む。
莉子が周囲を見渡していると、十数秒もしないうちに「開きました」と、コウ君の声が聞こえた。
早い。驚いて振り向いた。コウ君が鍵穴から針金を外し、ドアノブを回すところだった。
――やっぱり、コウ君はスーパーマンだ!
興奮する莉子の目の前で、ドアノブは嘘のように簡単に回転した。静かな金属音とともに、ドアが開く。
「どんなことがあるかわからないので、莉子さんも念のため、これを着けてください」
コウ君は莉子に手袋を手渡して、素早くドアの隙間に身を滑り込ませた。莉子は手袋を嵌めると、慌ててコウ君に続いた。
*
玄関から続く廊下の両側には、風呂やトイレ、キッチンなどの水回りが細長く並んでいる。その奥にあるドアのガラス越しに、日当たりのよさそうな部屋が見えた。思った以上にシンプルな間取りのようだった。
ドアを開け、部屋の中に足を踏み入れる。家財道具の少なさから生活感に乏しかった水回りや廊下とは対照的に、部屋の中は予想をはるかに超えるレベルで散らかっていた。
右側の壁際にある金属製の本棚には、雑多な分野の本が不規則に並べられ、左側の壁の前に置かれた机や床、ベッドの上には、無数の写真週刊誌やマンガ雑誌が散乱している。
しかし、住む人がいなくなった部屋は、物品の量とは裏腹に、あまりにも空虚だった。抜け殻のように虚ろな部屋の中を眺めていると、寂しさが募った。同時に、兄を刺した人物に対する嫌悪感も、大きくなっていく気がした。
怒りに任せて、目の前にうずたかく積まれている本を、手当たり次第に崩し、放り投げてしまいたい衝動に駆られた。
だが、ここを訪れた証拠を残すわけにはいかない。莉子は、心の中に渦巻いた激しい荒波を無理に抑え込むと、部屋の中を密かに捜索するという行為に意識を集中させた。
とはいっても、尋常ではないレベルで散らかっている品々を前に、どこをどう探せばいいのかわからない。
こういう状況に慣れている人物ならば、経験則に則って、手がかりがありそうな場所を重点的に調べるなどということもできるのだろう。だが、悲しいことに、莉子は素人だ。
何の根拠もなく、取り敢えず机の横にある雑誌を手に取ってみた。
そのときだった。
机の横に置かれたゴミ箱の中に、数枚のコピー用紙が捨てられているのが目に入った。
紙は筒のように細長く丸められて、皺一つない状態でゴミ箱に差し込まれている。
手を伸ばすと、紙を拾い上げた。
二十三区を含む、東京都内の地図だった。所々が、丸印で囲まれている。
「コウ君、これ」と差し出すと、受け取ったコウ君は、紙を捲りながら食い入るように見つめる。しばらくすると、表情がぱっと輝いた。
「凄いですよ、莉子さん!」
意味が分からず、莉子はコウ君の手の中にある紙を覗き込んだ。
「何が凄いの?」
「この丸印は、都内の宿泊施設ですよ。簡易宿泊所とかインターネットカフェ、それに格安のビジネスホテルとか……」
そこまで説明されても重要性が理解できなかった莉子は、黙ってコウ君の次の言葉を待った。
「つまり、これは潜伏先の候補リストですよ! きっと、印がある場所のどこかにいるんです!」
コウ君は、もどかしそうに早口でまくし立てた。コウ君にしては珍しいほどの興奮ぶりだった。
「ということは、この丸印の場所を虱潰しに探せば、会える可能性が高いってこと?」
コウ君は、黙って深く頷いた。
「それにしても、こんなものをゴミ箱に捨てるなんて……。これじゃ、まるで探してくださいって言ってるみたいだ」
その通りだと、莉子も思った。でもこれは、きっと神様が莉子たちのために、わざわざ残してくれたものに違いないと考え直した。数枚のコピー用紙とはいえ、これが見つかっただけでも、来た甲斐があったというものだ。
*
その後、部屋の中を二十分ほど探し回ったが、コピー用紙のほかに手がかりになりそうなものは見つからなかった。
「あまり長居するわけにもいかないので、今日はこのくらいにしておきましょう」
地図が印刷された紙に目を落としながら、コウ君が呟いた。そのまま、紙を小さく畳んで上着のポケットに入れる。
「僕は今後、これを参考にして足取りを追ってみますね」
コウ君に対する申し訳なさが募り、莉子は思わず声をかけた。
「もし手伝ってほしいことがあったら言ってね。何でもやるから」
「有り難うございます。でも、この件は僕に任せてくれて大丈夫ですよ。莉子さんはそれよりも、自分がやるべきことをしっかりとやるべきです。莉子さんの本業は、アイドルなんですから」
コウ君は莉子を見返しながら、柔らかい笑顔を見せた。莉子の心は一瞬、目に見えないコウ君の優しさに包まれた。
だが、次の瞬間、コウ君の目がほんの少しだけ、悪戯っ子の目つきになった。
「まあ、会ったときに本当に引っぱたいてぶっ殺すかどうかだけは、しっかり決めておいたほうがいいと思いますけどね」
五日前、今回の件を依頼したときの喫茶店で、莉子がつい口にしてしまった言葉だ。
――引っぱたいて、絶対にぶっ殺してやる。
興奮のあまり、つい口を突いて出てしまった乱暴な言葉を、コウ君はしっかりと思えていた。
恥ずかしくなった莉子は、部屋にこっそり忍び込んでいるという状況を忘れて、頬を赤く染めると黙って俯いた。
――コウ君の、意地悪。