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十一月十九日
あの事件から、半月がたっていた。
場所は、山手線の五反田駅から、ほど近い路地裏。古びた雑居ビルの二階に店を構える、インターネットカフェの一室だ。照明を弱めた薄暗い室内でリクライニングチェアに腰かけた小柳京介は、自前のノートパソコンの画面を見つめながら、一心不乱にキーボードを叩いていた。
文章を数行ほど入力しては、取り消しボタンを長押しして消去し、消去しては、また入力する。もう小一時間もキーボードを叩き続けているのだが、ワープロソフトの原稿用紙は思うように埋まってくれない。まるで、白紙部分を埋めることができない厄介な魔法にかかったようだった。
――やってられるか!
有り得ない錯覚に辟易して、京介はついに手を止めた。パソコンの左横に置かれたコーヒーを取ろうとして、上体を軽く捻った、そのときだった。
脇腹に走った鋭い痛みに、思わず前屈みになった。無意識に、痛む部分を両手で押さえる。
瞬間、あの日の状況を思い出した。
あのとき、京介は生命の危機を意識するほどの激痛を脇腹に感じ、そのまま意識を失った。担ぎ込まれた病院で目が覚めたとき、救急隊員たちはすでに立ち去った後だった。何が起こったのかわからないまま周囲を見回すと、白衣を窮屈そうに着こなした医師が、京介の顔を覗き込んでいた。
「あんな目に遭って、この程度の傷で済むとは、奇跡だよ。あと数センチずれていたら、今頃は天国から自分の葬式を見下ろしていただろうね」
肥満気味の医師は、そう言いながら呑気に笑った。
「相手の顔は、覚えてないのかな?」
興味本位なのだろうか。医師としての本分をわきまえない質問だったが、心身ともに弱っていた京介は、抗議する気力もなく頷くしかなかった。
「視界の外側で突然に起こったできごとでしたし……。すぐに意識が遠のいてしまったので、相手の顔はおろか、体格や性別さえも覚えてないんですよ」
なぜか、医師に対して申し訳ない気持ちになった。
――相手は、いったい誰なんだ。
入院中に何度も考えたが、ベッドに横になったままで答が見つかるはずはなかった。
その後、痛みと戦う地獄のような入院生活が続くなかで、気がつくと医師の顔は、京介にとって不快感を無意識に思い起こさせる記号となっていた。
それは、退院してインターネットカフェの一室にいる今でも変わらない。
京介は患部を押さえたまま、フラッシュバックする屈辱の記憶と耐え難い痛みに、思わず顔をしかめた。
*
退院後、京介は用心のため、歌舞伎町の事務所から最低限の荷物だけを持ち出すと、インターネットカフェなどを転々とした。最初は高田馬場のインターネットカフェに一週間ほど泊まり込み、次は池袋駅の北口から歩いて数分の場所にある簡易宿泊所に、四日ほどお世話になった。そして今は、五反田駅の西口からほど近い、このインターネットカフェだった。
当然、日常生活では、不安と緊張を強いられていた。しかし、ゴシップ記事の執筆を生業とする三流ライターという、安定からは程遠い身分だ。一時の感情に身を任せて、いつまでも東京の雑踏の中に身を隠しながら息を潜めているわけにはいかなかった。
そもそも、そのような生活スタイルを続けていては、生きていくことができない。
「働かざる者、食うべからず」とは、よく言ったものだ。
もし叶うことなら決して受け入れたくはないが、哀しいことに受け入れざるを得ない現実だった。結果、現実に抗う術をもたない京介は、五反田のインターネットカフェを仮初めの生活拠点としながら、記事に関する情報収集と原稿作成を、細々と再開していた。
京介がまだ若かった頃は、大都会に身を隠しながら情報収集や原稿執筆をおこなうことなど、恐らく不可能だっただろう。しかし幸いにして、今の世の中にはインターネットという便利な情報ツールがある。そのため、取材をおこなったり原稿を書いたりするうえで必要な、最低限の基本情報を集める分には、何の不安もなかった。
取り引き先である編集部との遣り取りも、昔とはずいぶん変わった。わざわざ編集部に行かなくても、電子メールを使えばだいたいの要件はこと足りる。そのため、今のように居場所を転々としながらも、仕事に不便を感じることは、ほとんどなかった。
ただ、そんな電子メールの遣り取りにも事件以降は慎重になった。今では、知らない相手からのメールは、基本的に開くまでもなく削除するのが習慣になっている。
いつものように、不要な電子メールを削除しようとしてパソコンに向き直った京介は、スリープ状態の黒い画面に映り込む自分の顔をぼんやりと眺めながら、ふと思い出した。
妹の話だ。
――悪いことをしたな。
同じ東京都に住んでいながら、しばらく顔を合わせていなかった。近々、久々に会って食事でもしようと考えていた。しかし、このような状況になり、妹との劇的な再会という計画も叶わなくなった。
――会いたいのは山々だが、ほとぼりが冷めるまで会わないほうが、きっとお互いのためにもいいのだろう。
事態が落ち着けば、再開する機会はいくらでも訪れる。そう考えて、気持ちを切り替えるしかなかった。
――そういえば、最後に会ったのは、いつだっただろう。
ともすれば埋もれてしまいそうな記憶を、頭の中から懸命に掘り起こす。
恐らく、二年ほど前だったか。
脳内でカレンダーを捲りながら年月を再確認した京介は、妹と会っていない時間の思わぬ長さに驚いた。正直、もっと頻繁に会っていると、勝手に思い込んでいた。
京介は、心の底に澱のように漂っている困惑から距離を置くために、痛み止めを口にした。そのまま、リクライニングチェアの背に深くもたれかかる。何気なく天井を見上げると、四本の蛍光灯のうちの一本が、チカチカと断末魔の瞬きを見せていた。
金属が弾けるような微かな点滅音を数えながら薬の効果を確認していると、無性に腹が減ってきた。右手を胃の辺りに当ててみる。案の定、胃や腸が収縮する音が低く鳴り響いた。自分自身でもびっくりするほどはっきりとした、消化器官の意思表示だった。
――祐真と一緒に、遅めの昼飯でも食うか。
京介は、電子メールの削除も忘れて上着のポケットに右手を入れると、スマートフォンを取り出した。
事件以降、使う行為に消極的になっていた連絡ツールは、電子メールだけではない。スマートフォンも同様だった。もともと、編集部などへの仕事関連の連絡手段は、ほとんどが電子メールですんでいる。電話をかける行為は可能な限り避けて、かかってきた電話には基本的に出ないことにしていた。
その結果として、電話を使うのは緊急性が高い要件が多く、気心が知れている一人の人物との遣り取りに限られていた。その人物が祐真だった。
祐真を食事に誘うのには、気心が知れているという理由のほかに、もう一つの理由があった。それは、「一人での外食には危険が伴うが、他の人物と一緒ならば、いくらか危険度が下がるだろう」という、身を守るための計算だった。
――仕事の話もあるしな。
京介は早速、祐真に電話をかける。呼び出し音が三回ほど鳴ったところで、祐真が出た。
電話口で京介が食事への招待を告げると、祐真は「了解っす。すぐ行きます!」と露骨に嬉しそうな声を上げた。