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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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十一月二十三日 午後七時


 脅迫電話を受けた二日後の夜、京介は荷物を纏めると、五反田のインターネットカフェを後にした。水道橋の安ホテルに移動するためだ。

 山手線から総武線に乗り換えて水道橋駅で電車を降りると、駅前の信号を渡って、ビルの間の細い路地に足を踏み入れる。そのまま、夕暮れ直後の薄暗い路地を進んだ。

 途中、誰かに尾行されてはいないか、何度か後ろを振り返ってみた。幸い、怪しい人影は見当たらなかった。

 間もなく、目指す格安ビジネスホテルが姿を現した。古びた自動ドアをくぐってチェックインの手続を済ませると、エレベーターに乗り込んだ。

 指定された三〇五号室に入り、最低限の生活道具が入ったバッグをベッドの横に置いたときには、午後七時を回っていた。カーテンを少しだけ開けて、隙間から外の様子を観察する。

 眼下に延びる暗い路地の向こうに、眩くライトアップされた東京ドームが見えた。言わずと知れた、読売ジャイアンツのホーム球場だ。

 妹を思い出した。

 このホテルから見て東京ドームのすぐ手前には、東京ドームシティアトラクションズという遊園地がある。まだ幼かった頃、親に連れられて、何度か妹と一緒に訪れた場所だ。

 当時は、まだ後楽園ゆうえんちという、やや古風な名前で、アトラクションも今よりずっと地味だった。しかし、自分を含む昭和生まれの子供たちは、それらの遊具に囲まれているだけで、充分に幸せだったと思う。

 一度だけ、東京ドームで野球観戦も経験した。

 確か、読売ジャイアンツ対広島カープのナイトゲームだったか。佐々(ささき)(かづ)(ひろ)を擁した横浜ベイスターズが、マシンガン打線を武器に三十八年ぶりの日本一に輝いた年だった。

 今、京介が眺めている眩い景色の下には、きっといつの時代も変わらない、普遍的な幸福が存在しているのだろう。

 しかし、今の京介の心の中には、遊園地や野球観戦を楽しむ子供たちのように平和で幸福な感情は、微塵もなかった。

 東京ドームを眺めながら、京介は憂鬱な気持ちで考える。

 決して、自分が清廉潔白な人物であるとは思わない。仕事柄、他人に決して自慢できないような小さな悪事は、数多く働いてきた。しかし、それは生きていくために仕方のないことであったし、そもそも自分に限らず、誰の人生にも過ちの一つや二つはあるものだ。

 ――それなのになぜ、自分ばかりがこんな目に遭わなければならないのだ。

 自分の運命を、いや、運命の神を呪いたい気分だった。

 しかし、こうなってしまった以上、運命を受け入れて、目の前の問題を一つ一つ解決していく以外に方法はないことも、また事実だった。

 京介は小さな溜め息を一つ吐くと、窓を閉じて天井を見上げる。

 ――俺はこの運命に、立ち向かってやる。

 そして。

 ――犯人はいったい誰だ?


          *


 正体を探るなと言われたからと言って、「はいわかりました」と大人しくしているほど、京介はお人好しではない。この二日間は、自分の運命を呪いながらも、誰が犯人かという疑問を頭の中でつねに反芻していた。

 犯人は、取り引き日を二十七日と指定した。二十七日といえば、ここ数年でもっとも大きかった仕事の原稿料が振り込まれる予定日の翌日だった。

 ――まさかとは思うが、犯人は原稿料が振り込まれる事実を知っているのか?

 そうだとすると、まず最初に疑われるのは出版関係の人物だった。

 そこで昨日の午前中、(あお)()出版の編集長である遠山(とおやま)に電話をかけてみた。青戸出版は、普段から多くの仕事をもらっているお得意先であり、例の芸能人の不倫記事の依頼元でもあった。編集長の遠山とはつき合いが長い。京介がもっとも信頼している人物の一人だった。

 電話は、すぐに繋がった。

「もしもし、遠山ですが」

「お世話になります。小柳です」

 遠山の声が、急に大きくなった。

「おお、京介か。退院して以来、メールでしか連絡よこさないから、どっかのキャバクラで飲み過ぎてスマートフォンを紛失したのかと思ってたよ」

 自分の冗談がよほど可笑しかったのか、遠山は電話の向こうで豪快に笑った。

「いや、スマートフォンは無事なんですが、ちょっと使いにくい事情がありまして」

「何だ、その事情ってのは」

「それは話せば長くなるので、後日お話しします。それより、聞きたい話があるんですが……」

 話が複雑になるのを避けたいと考えた京介は、さりげなく回答を避けながら、さっそく本題へと会話の舵を切った。

「聞きたい話?」

「その、言いにくい話題ではあるんですが……。最近、俺への原稿料や、その支払い方法などについて問い合わせがあったり、それらに関する情報を編集部員が誰かに話したりした事実はありませんでしたか?」

「何だ、それ?」

 思い出そうとしているのだろうか。それとも、質問内容が理解できないまま呆気に取られているのだろうか。電話回線の向こうで、遠山は沈黙した。相談を持ちかけた理由について、さらに説明を加える必要があると判断した京介は、適当な理由を考えて補足した。

「実は先日、俺に対する振り込みの情報が漏れているという、匿名のメールがあったんです。まさかとは思ったんですが、心配になって……」

 京介の言葉によって、多少なりとも事情が理解できたのだろうか、遠山は困惑したように口を開いた。

「いや、うちの社員や俺の口から、外部スタッフの支払いに関する情報を漏らすことは有り得んだろう。お前も知ってる通り、こういう原稿を書けるライターを紹介してくれっていう相談は、ときどきあるがな」

「いつも助かってます。で、その支払いに関する情報なんですけど、例えばコンピュータがハッキングされたとか……」

「いや、パソコンは、一応セキュリティソフトが入ってるし、専門の会社に定期的に検査してもらってるが、そんな話は聞いた覚えがないぞ」

 遠山は、呆れたように笑った。予想していた通りの、そして京介自身を落胆させるに必要十分な回答だった。京介は、肩を落とした。

「メールアドレスを知っているからには、かつて何らかの接点があった人物の可能性があるが、いずれにしても恐らく悪戯メールだろう。気にするな」

「そうだといいんですが……」

「それより、たまにはメールだけじゃなくて、編集部に顔を出せよ。久しぶりに、旨い酒でも飲みに行こう」

「そうですね。近いうちに、時間をつくって伺います」

 電話を切り、京介は深く溜め息を吐いた。

 その後も、いくつかの出版社の関係者に連絡を取った。しかし、誰もが遠山と同じような内容を口にするばかりで、犯人に繋がりそうな証言を得ることはできなかった。


          *


 京介は、ホテルのベッドに寝転んで天井の照明を細目で眺めながら、昨日の遠山たちとの電話の内容を思い返した。

 ――出版関係の人物でないとすると、犯人はいったい誰だ?

 今後の遣り取りの方法がSNSというのも、考えてみれば妙な話だった。もしものときを考えて、通信会社にできるだけ通話記録を残しておきたくないという考えなのだろうか。しかし、SNSを使えば通信会社には記録が残らないが、代わりにスマートフォン内部、あるいはSNSの運営会社に遣り取りの内容が残ってしまう。

 しかも、最初の脅迫のときに利用されたのは非通知だったとはいえ、通常の通話だった。当然、電話会社に通話記録が残っているはずだ。もしもの話だが、京介が恐怖のあまり我を見失って警察に脅迫の被害を訴えれば、すぐに捜査がはじまり、その一回の通話から電話番号の持ち主はすぐに判明するだろう。

 どちらにしても、通常なら足がつく。そう考えると、犯人は他人名義や架空名義のスマートフォン、いわゆる飛ばし携帯を使っているのかもしれない。だが、それならわざわざSNSを使わなくても、堂々と電話をすれば済む話だ。

 ――画像を送るためか?

 そういえば、SNSの最初のメッセージには、事件現場で紛失した財布の画像が添付されていた。電話番号を使うショートメールでは画像データを送受信することができないから、もしSNSを使っていなかったら、そのような画像の遣り取りは不可能だったろう。

 しかし一方で、データをネット上に保存するオンラインのストレージサービスなどを使えば、わざわざSNSを使わなくても、電話番号だけで画像の遣り取りをすることも不可能ではない。

 そう考えると「画像を送るため」というのは、SNSを使う理由としては、やや説得力に欠ける気もした。

 混乱する思考の中に、ふと新たな可能性が思い浮かんだ。

 ――喋り方から容疑者が絞り込まれる可能性を恐れている……?

 もしそうならば、犯人は意外に身近な人物なのかもしれない。

 ゴールデン街のバーで働く吉田の顔が、まず最初に頭に浮かんだ。

 吉田とは、数年のつき合いになる。どちらかというと気の弱いタイプで、大それた犯罪をおこなう度胸があるようには思えないが、一方で狡猾な一面もある。

 しかも、吉田に対してなら、酔っぱらった勢いで原稿料の振込日や金額について、うっかり喋ってしまった可能性もある。

 吉田が犯人ではないという考えと、ひょっとしたら犯人かもしれないという考えが、頭の中でせめぎ合った。

 一瞬、今から店に行って問いつめようかとも思った。しかし、明日の昼過ぎまでに仕上げなければならない原稿があった。

 ――明日、店に出勤するときを狙って、行ってみるか。

 京介は、シャワーを浴びるために、ベッドから起き上がった。

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