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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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 着替えを済ませて、入口へ続く廊下を進む。ロビーに出ると、すでに着替えを済ませた紗英が、窓際の観葉植物の横で莉子を待っていた。

 莉子は手を振りながら、紗英に駆け寄った。

「ごめん。着替えに時間がかかっちゃって。で、どこに行くの?」

 尋ねると、紗英は「いいとこ」と語尾にハートマークがつきそうな声で答えた。

 テレビ局のビルを出て、二人でタクシーに乗る。後部座席に滑り込んだ紗英は、莉子の乗車を確認すると、運転手に向けて「六本木の東京ミッドタウンまで」と告げた。

「やっぱり莉子は、私が思った通り、努力の人だ」

 首都高速三号渋谷線の下を走る車内で、紗英が感心したように口を開いた。ちょっと、気恥ずかしかった。

「ありがとう。でも、私は紗英みたいに才能があるわけじゃないから、頑張るしかないんだよ」

 謙遜ではない。心の底から出た返事だった。

 紗英は、艶めいたピンク色の唇から真っ白な歯を覗かせると、続けた。

「今日は、何点だったか聞かないの? いつもは、まず点数を聞いてくるのに」

 ちょうど、聞こうと思っていたところだった。

「じゃあ、聞こうかな。今日の私、何点だった?」

「うーん、五十点、かな」

 厳しい。思わず、唇を噛みそうになったとき、「嘘だよ」という言葉が聞こえた。

「本当は、九十五点。エクセレント、でした!」

 紗英は屈託なく笑いながら、シートに思い切りもたれかかってふんぞり返った。

 東京ミッドタウンに着くと、紗英は莉子を引き連れたまま数軒のショップを回って、悩みに悩んだ末、服を二着買った。一着は黒いレースのロングスカート、そしてもう一着は、ゆったりとしたシルエットが可愛らしいベージュのセーターだった。

 莉子は、何も買わなかった。

 三時間近く買い物をした後、二人は建物の二階にあるフレンチレストランに入った。

 いかにも高級店といった店構えに一瞬、緊張したが、紗英の「大丈夫。今日は私の奢り」という囁きに、体と心の筋肉が一気に緩んだ。

 若いウエイターが、そんな莉子と紗英を窓際の席に案内する。莉子は、促されるまま席に着くと、夕暮れ間近の光が贅沢に差し込む窓に、顔を向けた。

 広い窓からは、緑溢れる公園が一望できた。公園の向こう側に立ち並んでいる高いビルの数々がなければ、ここが東京のど真ん中であることを忘れてしまうほどの深い緑だった。

「あー、疲れた」

 紗英はドサリと席に座り込むと、周囲の目も気にしないで、疲れを癒すように体を伸ばした。

「荷物を持って帰るの、面倒だなあ。お手伝いさんに、取りに来てもらおうかな」

 考えてみると、紗英の実家は、名を知らぬ人はいない一流企業の創業者の一族だった。確か、世田谷区の数百坪を下らない屋敷に住んでいて、父親はもちろん兄弟も皆、その企業の要職にあるという話を聞いた経験がある。

 そのような大金持ちの御令嬢だから、お手伝いさんに荷物を取りに来てもらうという話も、決して冗談には聞こえなかった。


          *


「ねえ、莉子は、どうしてアイドルになったの?」

 白ワインを一口飲んで、熱々の白子グラタンを注意深く口に運びながら、紗英が不思議そうな表情で莉子に尋ねた。頬が、ほんの少しだけピンク色に染まっている。

「どうしたの? 突然」

 脈絡なく飛び出した、単純かつ難解な質問に、思わず問い返した。

「ほら、私たちって仲がいい割には、今までそんな話をする機会、一度もなかったから……」

 紗英は手を止めて、ちょっと考える仕草をした。

「莉子って、すっごく頑張り屋さんでしょ。何を目標に頑張ってるのかなって、ふと思ってさ」

 ――目標?

 予想もしていない単語だった。莉子はやや戸惑いながら、ワインで緩慢になっている思考を巡らせて、記憶の水面に答を探してみる。

 莉子がアイドルになりたいと思ったのは、輝きたいと思ったからだった。

 決して裕福とは言えない母子家庭に育った莉子には、学校にも家にも、輝ける場所はなかった。学校では、ブラウスの擦り切れた袖や虫食いの小さな穴を同級生にからかわれ、家では精神的にやや不安定な母親とのコミュニケーションに心身を擦り減らす状況も少なくなかった。そんなとき、テレビの向こうで歌って踊るアイドルたちが目に入った。彼女たちは、最高に輝いて見えた。

 ――私もアイドルになって、あんなふうに輝きたい。

 漠然としているが、それが莉子がアイドルになった理由だった。

 今にして思えば、莉子にとってはアイドルになって少しでも輝くことだけが願望だった。アイドルの向こう側には、目指すべき具体的な目標など、何も見えていなかった。よく言えば一途だが、考えようによっては無計画ともいえた。

「私は、輝きたかったから……、かなあ」

 自信のなさから視線を彷徨わせる莉子の目を覗き込んで、紗英は表情を崩した。明らかに酔っていた。馴染みのある少々間延びした声が、室内に軽やかに響く。

「でも、なんだかんだ言って、現状に満足しないで、つねに上を目指してる莉子は凄いよ」

 いたずらっ子のような目で、紗英は莉子の心の中に触手を伸ばした。

「本当は莉子も、トップを取りたいんでしょ?」

「そんなことないよ」

 莉子は、顔の前で慌てて右手を振り、大げさに笑った。

「でも、紗英はどうしてそう思うの?」

「だって、莉子はいつも点数を気にしてるし……。それって、上を目指してるってことでしょう?」

 右手で否定の意思を示しながらも、心の底に小さな引っかかりがある事実に気づいた。あまりに小さいため、今まで自分でも気づかなかった引っかかりだった。

 莉子の父親は、莉子が幼いときに交通事故で帰らぬ人となった。交通事故というと単なる不幸な事故に聞こえるが、実は不倫相手を助手席に乗せて温泉旅行に行く途中、ハンドル操作を誤って大型トラックと正面衝突したというのが、後に知った真相だった。

 これも後に知った話だが、父親の所持品の中からは、父親の名だけが書かれた離婚届が見つかったという。

 母親は、父親が不倫をしている事実を、以前から知っていたらしい。葬式や四十九日法要などの行事を通して、母親の涙を見ることはなかった。

 ――離婚届を持って、愛人と不倫旅行。

 それはつまり、父親によって母親が二番手の女という烙印を押されたことに等しい。

 当時、まだ小学校に上がる前だったが、父親がいなくなった家庭内の光景を、莉子はなぜか今でもはっきりと覚えている。

 アルバムの写真に写っている父親の顔を、何かに憑りつかれた表情で黙々と切り抜いている母親の姿、そして顔の部分が丸くすっぽりと抜け落ちた父親の肖像の数々……。

 幼いながらに、言葉に言い表せない恐怖を感じた。母親に対する恐怖もあったが、それだけではない。むしろ、自分が母親と同じ立場になることに対する恐怖のほうが大きかった。

 そのとき、莉子の胸中には、正体不明の鋭い棘のようなものが、確かに生まれた。

 その棘の正体は、莉子にとって長く謎のままだった。

 しかし、今日こうして紗英に指摘され、その正体が初めてわかった気がした。

 ――二番手は、嫌だ。

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