15
十一月二十二日
「では、本番いきまーす! お願いしまーす」
照明やカメラ、舞台セットのチェック、そして立ち位置の確認が終わると、収録スタジオ内に、チーフアシスタントディレクターの大声が響いた。その声を合図に、スタジオの奥で出番を待っていた莉子たちは、セットの前へ一斉に歩を進める。
今日は、明後日の深夜に放映されるNPNテレビの『ミュージック・トランジスタ』の収録日だ。
マイナーな独立系テレビ局の深夜枠で放送されている音楽番組だけに、視聴率も出演するアーティストの知名度も、キー局で制作されている全国ネットの音楽番組に比べると圧倒的に低い。しかし、莉子たちマイナーアイドルにとっては、自分たちのパフォーマンスを披露すると同時に、グループの知名度を高める重要なコンテンツだった。
まして今日は、熱心なファンの間で話題になっている新曲を初めて披露する場だ。緊張するなというのが無理な話だった。
莉子も、メンバー全員の無意識によって生み出されて肥大化した、緊張感という怪物と対峙していた。
ここは、練習のスタジオでもなければ、ファンが数えるほどしかいない貧相な、よく言えば簡素なライブ会場とも、わけが違う。しかも、莉子の立ち位置はお決まりの最後列ではなく、前から二列目。左には永遠のライバルであり、犬猿の仲でもある咲良、右には親友の紗英がいた。
*
それは新宿でコウ君に人捜しを依頼した翌日、つまり昨日のできごとだった。
レッスンを終え、スタジオから更衣室に向かって歩いていた莉子は、振付師のミナに呼び止められた。
「莉子、ちょっと話があるの。事務室に来てちょうだい」
莉子のような“その他大勢”が、スタジオの外で一人だけ、振付師から声をかけられる状況はあまりない。もちろん、ダンスや歌の居残り練習などが告げられることはあるが、その場合はほぼ例外なくスタジオ内で声をかけられる。事務室に呼ばれるパターンも、まずない。珍しい事態もあるものだと、莉子は訝しみながらミナの後に続いた。
事務室に入ると、テーブルの向こうに小太りで髭面の男性がいた。ダブルのスーツが七五三の小学生のようだ。プロデューサーの坂上だった。坂上は、莉子の顔を見ると「やあ、お疲れ様」と目を細めた。
普段、坂上が笑顔を見せることは、滅多にない。莉子のイメージでは、珍しく笑みを浮かべている坂上の口から発せられる言葉は、決まって冷徹な言葉だった。
――何か、まずいことでも?
咄嗟にいろいろ考えたが、思い浮かばない。莉子は、心当たりがない恐怖に思わず首を竦めながら、上目遣いで恐る恐る坂上に顔を向けた。しかし、坂上の口から出た言葉は、予想もしていない内容だった。
「莉子。君には、明日から二列目に入ってもらう」
莉子は一瞬、耳を疑った。
――私が、二列目?
「本当、ですか?」
耳を疑うのも道理だった。二列目と言えば、不動ともいえるトップ五に準じるポジションだ。今まで、目標にしながらも、そう簡単には辿り着けない場所だと思っていた。そんなポジションに、ついに辿り着いた。咲良や紗英に、ついに追いついたのだ。
異例の大抜擢だった。
「嘘や冗談で、このような話はしないよ」
坂上は、機嫌よさそうに口元を緩めた。
「君の歌とダンスは、今回の曲調に合っている。君は二列目だ。これは、中川さんと相談して決めた事実だ」
横で、ミナも優しく微笑んでいた。
「ただ、二列目ともなると、注目度も今までとは雲泥の差だ。今まで以上に、アイドルとしての自覚をもって行動すること。わかったね」
「はい、有り難うございます!」
天にも昇る気持ちだった。ほんの少しだが、飛び立てた気がした。
*
そして今、莉子は二列目の一員として、この収録現場に立っている。いざ立ってみると、嬉しさよりも緊張感のほうがはるかに勝っていた。
――ダンスの動きを間違えたりしたら、取り返しがつかないことになるかもしれない。
もともと、あまり悲観的な考えをもたない性格だったし、今はネガティブなことを考えるべき状況ではないと、頭では理解していた。しかし、自分の意志とは関係なく、負の思考が連鎖反応を起こしながら際限なく膨張していく。この緊張感と日常的に戦っているトップ五や紗英の強さが、今さらながら理解できた気がした。莉子は俯きながら目を閉じると、負の思考を取り払うために、「平常心、平常心」と呪文のように何度も呟いた。
すると、不意に後ろから肩を叩かれた。振り向くと、紗英だった。
紗英は、驚いた表情のまま硬直している莉子に向かって軽くウインクをすると、目の前で親指を立ててみせた。そのまま胸を張って、自信に満ちた足取りで、セットに向かっておもむろに歩きはじめる。
――さすがは紗英。
その堂々とした後ろ姿に、莉子は目に見えない力をもらった気がした。
――そうだ。今まであんなに頑張って練習してきたんだ。そして、その努力をプロデューサーさんやミナさんに認めてもらえたんだ。きっと上手くいく。咲良なんかには、負けない。
忘れかけていた自信が、俄かに体中にみなぎるのを感じた。両手でパンと頬を叩くと、足を踏み出した。
自分のポジションに立って、最初のポーズを決める。煌びやかな照明が莉子の姿を明るく照らし、撮影用のカメラが一斉に自分の方向を向くのがわかった。今まで見た経験がない新しい景色に、思わず鳥肌が立った。
――そうだ。今日のこの場所が、私の新たな出発地点だ。私はこの場所から、大空に飛び立つんだ。
新曲のイントロが高らかに鳴り響いた。莉子には、それが新たなる旅立ちを祝福するファンファーレのように聞こえた。
*
収録が終わると、緊張感から一気に解放された。
――何とか、無事に終わった。
莉子は大きく息を吐いた。我に返ると、こめかみから首にかけて、珠のような汗が流れ落ちていた。今までになく心地よい疲労感に包まれながら、ステージを降りる。そのとき、一足先にステージを降りていた紗英が、莉子をじっと見つめているのに気づいた。
「おめでとう、莉子!」
視線が合うなり、紗英は莉子の首筋に思いっ切り抱きついてきた。紗英の全体重を一気に受け止めた莉子は、思わずよろけそうになった。
「おめでとう。二列目、よかったよ! とても初めてとは思えなかった」
紗英は莉子を大袈裟に抱き締めながら、耳元で嬉しそうに囁いた。
きっと、紗英は歌の最中も、ずっと莉子を心配していたのだろう。嬉しかったが、他人を気にかける余裕がある紗英を羨ましくも思った。
「この後、時間ある? お祝い、しなきゃね」
莉子は、首だけで振り返ると、スタジオの時計を見上げた。針は、午後二時三十分を指している。まだ、日が暮れるまでには充分過ぎるほどの時間があった。
「うん、今日は大丈夫」
「よかった。じゃ、ロビーの受付の前で待ち合わせね」
紗英は、満面の笑みで首を傾けると、スタジオの外へと消えていった。紗英が姿を消した後、莉子は他の数人のメンバーからも祝福を受けた。
「莉子、おめでとう!」
「ダンス、よかったよ!」
莉子は、一人一人に「有り難う」と笑顔を向ける。彼女たちが投げかけてくる祝福の笑顔の向こうには、不満そうな表情で莉子に鋭い目線を向ける咲良の姿があった。莉子は、他のメンバーに悟られないように、勝ち誇った目で咲良を睨み返した。