13
あまりの悍ましさに思わず目を背けた京介は、胸を掻きむしる思いで自問自答した。
――どうすれば、穴を埋められる?
絶望に近い感情を抱きながら部屋の隅の暗闇に顔を向けると、暗闇の向こうに父親の亡霊が立ち竦んでいるのが見えた。
京介は、気づいていた。
この穴は、父親という存在によって穿たれたものだ。父親の魂は、この穴から体に入り込み、長きにわたって京介を内側から支配してきたのに違いなかった。
――どうすれば、父親の亡霊から逃れられる?
――どうすれば、胸に穿たれた底知れぬ穴を、埋めることができる?
だが、そんな問いに対する答えなど、最初から存在しなかった。
――自分は、もともと“足りない”人間だ。きっと、父親の支配によって、心の一部がすっぽりと抜け落ちてしまった人間なのだ。
今日、芳江に指摘されて、初めて理解できた気がした。
――だから、逃れることなどできない。埋めることなどできない。
今、京介の心は、完全に闇に囚われていた。
闇の奥から、芳江の声が聞こえた。
「ねえ、聞いてるの?」
我に返って顔を上げると、目の前には腕を組んだ芳江がいた。迫りくる夕闇の中で先ほどと同じく、憐みとも同情ともつかない表情で、微かな笑みを浮かべていた。
「あんたの目の中には、私と同じ光が見える。その光は、満ち足りている人間には決して見えないのよ」
そのとき、京介は芳江の目の中に、小さな光の欠片を見た気がした。その光は、何かが欠落している人間が、満ち足りている他人に対して感じる、羨望と憎悪そのものに違いなかった。
「私たちは、何かが足りない人間なの」
芳江は、もう一度繰り返すと、眉間に深い皺を寄せながら、京介の顔を覗き込んだ。
「だから、こんなことをしながら生きていくしかないの。それでも、私はしぶとく生き残ってやる。それが、あいつらに対する、世の中に対する復讐なのよ」
吐き捨てるような言葉だった。
「『だからといって、財布をこんな場所に捨てておいたら、いつか見つかる』。あなたは、そう思ってるわね?」
図星だった。
「そのときは、そのときよ。でも、やめるわけにはいかない。なぜなら、ここにある、この財布の巣みたいな場所が、私の唯一の存在証明なんだから。この場所は、私が生きている証なの」
京介の視線を無視するように、芳江は石ころだらけの地面に目を落とした。巣の中央にある財布を右足で忌々しそうに踏みつけると、踵を返した。
「あなたは仲間なんだから、学校に言ったりしないよね?」
芳江の迫力に気圧された京介は、唾をゴクリと飲み込みながら、小さく、ゆっくりと頷く。そのまま、芳江の靴に踏みつけられた場所に視線を移動させた。
地面には、靴底の形そのままに泥がへばりついた財布が、汚らしく散乱していた。紛れもなく、あいつらの財布だった。
「やばい人たちとのつき合い、やめたほうがいいわよ」
空に向かって言葉を発した芳江の後ろ姿が、草の合間を少しずつ遠ざかっていった。京介は、無言のままで芳江を見送った。やがて、芳江の姿は、京介を覆い隠すように茂る草の向こうに消えていった。
後に判明した話だが、このときの芳江は、すでに学校側に有力な容疑者と見なされていたようだった。数日後、職員室に呼ばれた京介は、同級生の一人として、芳江の最近の素行について詳細に問い質された。
生活指導の先生は、自分の机の横に持ってきた椅子に京介を座らせると、京介の顔を覗き込むようにしながら、もったいぶった態度で尋ねた。
「瀬田について最近、よからぬ噂を聞いたとか、何か怪しげな行動をしている場面を見たとか、そういった記憶はないか?」
最初は、「何もないし、瀬田さんについてもよく知りません」としらを切った。しかし、生活指導の先生が口にする、芳江の悪事をすべて見抜いているかのような強い言葉に、京介の心は揺らいだ。結局、嘘をつき通すことができなかった京介は、芳江について、自分が知っているすべてを告白した。
以来、芳江は学校に来なくなった。
――僕は、瀬田さんを裏切った。
その思いが、京介を苦しめた。しかし、同時に思った。
――仕方なかったんだ。
考えてみれば、芳江に特別な恩義があるわけではなかった。しかも、芳江にとって不利な情報を喋った奴が、自分の他にいる可能性も否定できなかった。
――きっと、僕だけのせいじゃない。
そう言い聞かせることで、合理化した。
芳江が学校に来なくなって一週間ほどたった朝のホームルームで、先生が生徒たちに告げた。
「瀬田芳江さんは、親御さんのご都合で、転校することになりました」
何の感情ももたない、静かな告知だった。
生徒たちの反応も、また同様だった。ことさら興味を示す者はいなかった。生徒たちの興味の対象は、あくまでも三日後に迫った中間テストだった。京介は、空席になった芳江の机を振り返りながら、彼女が発した言葉を心の中で繰り返し思い出していた。
――私たちは、何かが足りない人間なの。
――それでも、私はしぶとく生き残ってやる。
その日以降、京介は自分への戒めとして、慕っていた先輩との関係を、一切断ち切った。
*
瀬田芳江との苦い記憶をコーヒーとともに飲み下し、京介はインターネットカフェを出た。
取材のため、五反田駅に向かっていると、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。着信音の音量を、最小にするのを忘れていたらしい。
着信画面を見る。非通知だった。
もちろん、出るつもりはない。京介は、着信音が聞こえないように、スマートフォンの音量を最小にした。しかし、いくら無視しても、何度も何度もかかってくる。その度に、スマートフォンがポケットの中で小刻みに震えた。
――いったい誰だ?
間断なく繰り返されるバイブレーターの振動に、少しずつ警戒心が麻痺していった。
――もし、何か重要なネタだったら、どうする?
――やばい相手だったら、すぐに切ればいい。
心の片隅で生まれた楽観的な囁きに誘われて、京介は無意識のうちに通話ボタンを押していた。
「もしもし」
敢えて、名乗らなかった。一瞬の沈黙の後、スピーカーから声が響いた。
「初めまして」