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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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 あまりの悍ましさに思わず目を背けた京介は、胸を掻きむしる思いで自問自答した。

 ――どうすれば、穴を埋められる?

 絶望に近い感情を抱きながら部屋の隅の暗闇に顔を向けると、暗闇の向こうに父親の亡霊が立ち竦んでいるのが見えた。

 京介は、気づいていた。

 この穴は、父親という存在によって穿たれたものだ。父親の魂は、この穴から体に入り込み、長きにわたって京介を内側から支配してきたのに違いなかった。

 ――どうすれば、父親の亡霊から逃れられる?

 ――どうすれば、胸に穿たれた底知れぬ穴を、埋めることができる?

 だが、そんな問いに対する答えなど、最初から存在しなかった。

 ――自分は、もともと“足りない”人間だ。きっと、父親の支配によって、心の一部がすっぽりと抜け落ちてしまった人間なのだ。

 今日、芳江に指摘されて、初めて理解できた気がした。

 ――だから、逃れることなどできない。埋めることなどできない。

 今、京介の心は、完全に闇に囚われていた。

 闇の奥から、芳江の声が聞こえた。

「ねえ、聞いてるの?」

 我に返って顔を上げると、目の前には腕を組んだ芳江がいた。迫りくる夕闇の中で先ほどと同じく、憐みとも同情ともつかない表情で、微かな笑みを浮かべていた。

「あんたの目の中には、私と同じ光が見える。その光は、満ち足りている人間には決して見えないのよ」

 そのとき、京介は芳江の目の中に、小さな光の欠片を見た気がした。その光は、何かが欠落している人間が、満ち足りている他人に対して感じる、羨望と憎悪そのものに違いなかった。

「私たちは、何かが足りない人間なの」

 芳江は、もう一度繰り返すと、眉間に深い皺を寄せながら、京介の顔を覗き込んだ。

「だから、こんなことをしながら生きていくしかないの。それでも、私はしぶとく生き残ってやる。それが、あいつらに対する、世の中に対する復讐なのよ」

 吐き捨てるような言葉だった。

「『だからといって、財布をこんな場所に捨てておいたら、いつか見つかる』。あなたは、そう思ってるわね?」

 図星だった。

「そのときは、そのときよ。でも、やめるわけにはいかない。なぜなら、ここにある、この財布の巣みたいな場所が、私の唯一の存在証明なんだから。この場所は、私が生きている証なの」

 京介の視線を無視するように、芳江は石ころだらけの地面に目を落とした。巣の中央にある財布を右足で忌々しそうに踏みつけると、踵を返した。

「あなたは仲間なんだから、学校に言ったりしないよね?」

 芳江の迫力に気圧された京介は、唾をゴクリと飲み込みながら、小さく、ゆっくりと頷く。そのまま、芳江の靴に踏みつけられた場所に視線を移動させた。

 地面には、靴底の形そのままに泥がへばりついた財布が、汚らしく散乱していた。紛れもなく、あいつらの財布だった。

「やばい人たちとのつき合い、やめたほうがいいわよ」

 空に向かって言葉を発した芳江の後ろ姿が、草の合間を少しずつ遠ざかっていった。京介は、無言のままで芳江を見送った。やがて、芳江の姿は、京介を覆い隠すように茂る草の向こうに消えていった。

 後に判明した話だが、このときの芳江は、すでに学校側に有力な容疑者と見なされていたようだった。数日後、職員室に呼ばれた京介は、同級生の一人として、芳江の最近の素行について詳細に問い質された。

 生活指導の先生は、自分の机の横に持ってきた椅子に京介を座らせると、京介の顔を覗き込むようにしながら、もったいぶった態度で尋ねた。

「瀬田について最近、よからぬ噂を聞いたとか、何か怪しげな行動をしている場面を見たとか、そういった記憶はないか?」

 最初は、「何もないし、瀬田さんについてもよく知りません」としらを切った。しかし、生活指導の先生が口にする、芳江の悪事をすべて見抜いているかのような強い言葉に、京介の心は揺らいだ。結局、嘘をつき通すことができなかった京介は、芳江について、自分が知っているすべてを告白した。

 以来、芳江は学校に来なくなった。

 ――僕は、瀬田さんを裏切った。

 その思いが、京介を苦しめた。しかし、同時に思った。

 ――仕方なかったんだ。

 考えてみれば、芳江に特別な恩義があるわけではなかった。しかも、芳江にとって不利な情報を喋った奴が、自分の他にいる可能性も否定できなかった。

 ――きっと、僕だけのせいじゃない。

 そう言い聞かせることで、合理化した。

 芳江が学校に来なくなって一週間ほどたった朝のホームルームで、先生が生徒たちに告げた。

「瀬田芳江さんは、親御さんのご都合で、転校することになりました」

 何の感情ももたない、静かな告知だった。

 生徒たちの反応も、また同様だった。ことさら興味を示す者はいなかった。生徒たちの興味の対象は、あくまでも三日後に迫った中間テストだった。京介は、空席になった芳江の机を振り返りながら、彼女が発した言葉を心の中で繰り返し思い出していた。

 ――私たちは、何かが足りない人間なの。

 ――それでも、私はしぶとく生き残ってやる。

 その日以降、京介は自分への戒めとして、慕っていた先輩との関係を、一切断ち切った。


          *


 瀬田芳江との苦い記憶をコーヒーとともに飲み下し、京介はインターネットカフェを出た。

 取材のため、五反田駅に向かっていると、ポケットの中のスマートフォンが鳴った。着信音の音量を、最小にするのを忘れていたらしい。

 着信画面を見る。非通知だった。

 もちろん、出るつもりはない。京介は、着信音が聞こえないように、スマートフォンの音量を最小にした。しかし、いくら無視しても、何度も何度もかかってくる。その度に、スマートフォンがポケットの中で小刻みに震えた。

 ――いったい誰だ?

 間断なく繰り返されるバイブレーターの振動に、少しずつ警戒心が麻痺していった。

 ――もし、何か重要なネタだったら、どうする?

 ――やばい相手だったら、すぐに切ればいい。

 心の片隅で生まれた楽観的な囁きに誘われて、京介は無意識のうちに通話ボタンを押していた。

「もしもし」

 敢えて、名乗らなかった。一瞬の沈黙の後、スピーカーから声が響いた。

「初めまして」

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