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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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「これって……。犯人は、瀬田さんだったのか?」

 それ以上の言葉が出なかった。芳江は、京介が恐る恐る指さしている財布の巣を一瞥した。

「ああ、私が盗ったのよ。だから?」

 表情をもたない、不気味な口調だった。

 京介は、返事に窮した。すると芳江の声が、今までとは打って変わって柔らかくなった。

「あなた、私と同じね」

 ――父親の話か?

 ふと、そんな考えが頭をかすめた。

 実をいうと、芳江と同じく、京介にも父親がいなかった。前の年に、父親を亡くしていたのだ。

 しかし、それにしても芳江の言葉には脈絡がないように感じた。真意のわからない芳江の言葉に、どう答えていいかわからず、京介は黙って相手の顔を見つめた。

「父親がいないっていう話じゃないわ」

 京介の戸惑いを見透かしたような表情で、笑っていた。怪しげな笑みの裏に、憐れみの感情が宿っているようにも見えた。

「あなたの目、私と似てる」

 芳江は一度、宙を静かに見上げると、京介の顔を正面から見据えた。

「あなた、いつも他の生徒たちを冷めた目で見てるでしょ?」

 心当たりはなかった。

「そんなことねえよ!」

 むきになって否定した。芳江は、京介の言葉など、まるで聞こえていないかのように続けた。

「あなたは思ってる。自分はあいつらとは違うんだって。でも、本当はあいつらが羨ましいのよ」

 芳江の言葉が、京介の心の小さな隙間を縫って、意外なほどに抵抗なく、スルリと入り込んできた。芳江は、抑揚を抑えた声で、囁くように言葉を繋いだ。

「あなたは、あいつらが羨ましい。だけど同時に、憎らしくも思ってる」

 聞いてはいけない呪文を聞いてしまったかのように錯覚して、京介は金縛り状態になった。

「知ってる? 羨ましいって気持ちと憎らしいって気持ちは、コインの表と裏みたいなものなのよ。羨ましさの裏には必ず憎しみがあって、憎しみの裏には必ず羨ましさがある。そして、いつも憎悪と羨望にまみれている私たちは……」

 ほんの少し、間を置いた芳江は、覚悟を決めたように静かに声を漏らした。

「私たちは、何かが足りない人間なのよ」

 まるで、語る行為が憚られる内容を、敢えて語るような表情だった。そのときの芳江の姿は、怪しい詐欺師のようでも、衆人を正しい道へと導く教祖のようでもあった。

「私ねえ、父親からずっと、虐待されてたの。その父親も、私が小学校四年生になった頃にいなくなった。殺されたのよ。私は、父親がいなくなって嬉しかった。お前は馬鹿だとか、俺の子じゃないとか、いつもいつも罵倒されてだんだもの。殴られることもあったし、ここでは言えないようなこともされた。でも、父親がいなくなって、気づいたの、私は何かが足りない人間なんだって。父親のせいで、足りない人間になっちゃったんだって。あなたも、同じなんでしょ?」

 瞬間、京介は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 今まで誰にも気づかれないように、密かに隠して続けていた傷を見透かされた恥ずかしさと、傷に気づいてもらえた喜びが、心の中に同時に芽生えた。恥辱と歓喜が混じり合ってグチャグチャになった感情が、嵐の海のように激しく波立って、大脳を刺激した。

 以前から彼女のことが気になっていた理由が、初めてわかった。

 ――瀬田さんも、僕と同じだった。

 金縛り状態のまま、頭の中で自らの過去を顧みる。

 京介の父親は、昔から強権的な人物だった。

 普段は優しいのだが、家族が自分の思い通りに行動しないと、突然、人格が他人と入れ替わったのではないかと疑ってしまうほど横暴になった。

 器物を破壊するという脅迫めいた行動や、直接的な身体的暴力もあったが、おもに相手を全否定し、精神的な暴力によって支配しようとする傾向が強かった。特に長男として生まれた京介は、物心がつく前から父親の理想を押しつけられて、小学校の中学年になる頃には、精神的暴力の格好の餌食になっていた。

 ささやかで不条理な仕打ちが幾度となく繰り返されたことで、小学生だった京介の心は、ごく自然に父親に支配されていった。気がつくと、つねに父親の顔色を窺いながら、父親が歓ぶかどうかを行動の基準とするようになっている自分がいた。

 そんな父親が、突然死んだ。

 精神的な支配者を失った京介は、父親の死を悲しむというよりも、戸惑った。まるで、心にぽっかりと正体不明の大きな穴が開いたような気分になった。

 父親の死から生まれた空虚感を持て余していた京介に、小さい頃から何かと世話になってきた近所の先輩が、優しい声をかけてくれた。

 心配してくれる先輩の姿勢に、京介は安らぎに近い感覚を覚えた。そして、先輩に誘われるまま、夜な夜な遊びに出る行為が日課になっていった。

 先輩のバイクは、排気量が四〇〇㏄の違法改造バイクだった。マフラーを短いタイプに交換して、爆音を響かせる仕様になっていた。

 そんなバイクに跨る先輩の姿が、京介の目にはまるで正義のヒーローのように格好よく映った。爆音を響かせながら国道を走るバイクの後部座席に乗せてもらうと、自分もヒーローになったような気がして、すべての嫌なできごとを忘れられた。

 ただ、学校にだけは真面目に通って、いわゆる不良的な行為をしている事実など、おくびにも出さずに学校生活を続けていた。幸運なことに、不良の真似事をはじめて二ヶ月ほどがたって、中学三年生になった時点でも、京介の行為が表沙汰になる結果にはならなかった。

 周囲にばれていないのをこれ幸いと、京介は徒党を組んで夜の街を彷徨った。違法改造バイクで爆音を撒き散らし、住民や警察官を挑発した。そのときの自分は、不良的な行為を通じて、心に開いた穴を埋めることができるに違いないと信じていた。

 最初の頃は、確かに胸の奥にある穴を埋められている気がした。くだらない行為を繰り返しているとき、束の間ではあるが、心に安定がもたらされた。しかし、結局、穴を完全に埋める望みなど叶わなかった。非日常から解き放たれた後、日常生活に戻ると、決まって胸が疼いた。

 そんなある日、意味もなく肥大し続ける虚無感に我慢できず、京介はふと自分の胸に目を遣った。

 左胸にポッカリと開いた穴から、小さな虫たちがモゾモゾと這い出てくるのが見えた。まさに漆黒というほかに表現しようがない真っ黒な体。頭と胸、腹は二ヶ所のくびれで隔てられて、胸の部分からは針金を折り曲げたような細い足が無数に生えていた。

 虫たちは足を不器用に動かして、節くれだった大きな腹を引きずりながら、次から次へと際限なく這い出してきた。その姿は、まるで母親の体を内部から食い尽くして、外の世界へと旅立っていく蜘蛛の幼体たちのようだった。鼓膜を執拗に引っ掻くような耳障りな音が、振動となって胸に響いた。

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