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十一月二十一日
――俺たちは、しぶとく生き残っていかなきゃならない。
二日前、五反田駅前の定食屋で祐真と一緒に飯を食べたとき、祐真がふと口にした言葉だ。
会話の流れの中で、たまたま口を突いて出ただけの言葉に過ぎない。深い意味があるはずもない。
そう考えて、最初は大して気にも留めなかった。しかし、時間がたつにつれて、京介は自分の意識が、この言葉に囚われている事実に気づきはじめていた。
その言葉は、まるで鋭い鍵爪を木の幹に食い込ませて、羽化のときを静かに待っている蝉の幼虫のように、京介の脳の裏側にしっかりとしがみついていた。
言葉が頭から離れなくなって二日目、今日の朝方のできごとだった。幼虫の背中に、音もなく細く小さな亀裂が入った気がした。中から、白い靄のように朦朧とした物体が現れようとする瞬間、インターネットカフェの椅子にもたれかかっている京介の意識の中に、遠い記憶が呼び覚まされた。
――そうだ。俺は、同じ言葉を聞いた記憶がある。
あれは、いつだったろう。確か、中学生のときだったか。
*
中学三年生になったばかりのある日、京介は、自宅近くにある河川敷の土手の上を歩いていた。学校帰りに、いつも通っている河川敷だった。
夕方の河川敷は、人通りがそれほど多くない。すでに地平線に隠れようとしている太陽の光は心もとなくて、周囲に弱々しいオレンジ色の光を投げかけるだけになっていた。
京介は、薄暮のなかで視線の隅に人らしき影を認めて、物珍しさにふと目を向けた。
京介がいる場所から、三十メートルほど先だろうか。川に面したコンクリートの土手に、京介たちの中学のものらしき制服を着た、一人の少女が立っていた。
「誰だろう?」
ひょっとして、知っている人物かもしれない。京介は軽い気持ちで、その少女を見つめた。
同じクラスの瀬田芳江という少女だった。
芳江は背が低く、運動はそこそこ、勉強は人並み以下の少女だった。他人とのコミュニケーションが苦痛なのか、それとも生きていくうえで他人との意思疎通など必要ないと信じているのか、周囲の生徒と言葉を交わすことはほとんどなく、いつも窓際の自分の席で、窓の外をじっと眺めている。そんな少女だった。
当然、友人らしい友人も、ほとんどいなかった。
周囲の生徒たちから避けられているというよりも、空気のような存在だと思われていたのだと思う。
ただ、伸びっ放しの長髪の間から覗く表情のない目の奥に、何か得体の知れない光が秘められている。当時の京介は、芳江を見かける度に、そのように感じていた。
一度、芳江と同じ小学校だったという同級生から、彼女の家庭環境について聞いた記憶があった。その同級生の話によると、芳江は小学四年生のときに父親を亡くして以来、とても貧乏な暮らしを強いられているとの話だった。
言われてみれば、制服もどことなく薄汚れていたし、ブラウスも皺だらけで、襟元もやや茶色く変色していた。夏の暑い時期、近くにいると、微かにではあるが体臭が臭ってきた経験もあった。恐らく、同級生の話は嘘や噂の類ではなかったのだろう。
以来、芳江が、何となく気になるようになった。
もちろん、恋愛感情ではない。蔑みや憐みといった、上下関係を伴った感情でもなかった。そこにあるのは、微かな好奇心に近い感情に過ぎなかった。そのため、いくら気になったとはいっても、窓の外を無表情に見つめている芳江に近づいたり、声をかけたりすることは決してなかった。
それが、京介が知っている瀬田芳江という少女のすべてだった。
――瀬田さんの家は、確か学校の東側だったよな。
しかし今、芳江と京介がいる河川敷は、学校の西側だ。制服姿ではあったが、下校途中と考えるには不自然だった。
何をやっているのか気になって、京介は芳江の挙動を何気なく眺めた。芳江は川に向かって佇みながら、手元で何かを弄っていた。何かはよくわからないが、掌と同じぐらいの大きさの、黒く四角い物体のようだった。
次の瞬間、芳江は大きく振り被ると、野球でいうオーバースローの仕草で、川岸の草むらに向かって大きく腕を振った。黒い物体は芳江の手を離れて、放物線を描きながら草むらに吸い込まれていった。
芳江は、黒い物体の行き先を確認すると、何かを上着のポケットに捻じ込みながら振り返る。そして、何事もなかったかのように、土手の上にある遊歩道の方向へと歩きはじめた。
――何だ、あれ?
一抹の不安を感じた。
京介は、芳江の姿が見えなくなった事実を確認すると、怖い物見たさに近い感情と、ほんの少しの嫌な予感に身を任せて、草むらに歩み寄った。
遠くから見たイメージと異なり、草の丈は京介の身長よりも高かった。京介は一瞬、躊躇したが、意を決すると、草をかき分けながら茂みの中に足を踏み入れた。
長い葉の縁が腕や手の甲に当たって、チクチクと痛む。できるだけ腕に当たらないように草をしっかりと踏み分けると、今度は草の青臭さが鼻腔を刺激した。むせ返るような、頭が痺れるような刺激臭を我慢しながら、草の中を十歩ばかり進んだ地点で、京介は立ち止まった。
嫌な予感は、的中していた。
外界から完全に遮断された草むらの中に、数え切れないほどの財布が転がっていた。
布でできた茶色い正方形の小ぶりな財布、人工皮革らしい黒い長方形の財布、材質は何かわからないが、可愛いキャラクターがプリントされた赤い小銭入れ……。
あるものは風雨に晒されたせいか水と泥で薄汚れて、あるものは日光で半ば変色している。また、あるものはまだ新しいのか、艶のある表面を京介に向けていた。その様子は、まるで枯れ草や小枝の代わりに財布を集めてつくった、大きな鳥の巣のようだった。
――これは……。
その頃、校内では度々、生徒の財布が盗まれる事件が起こっていた。
盗まれた財布は、どれも二度と見つからなかった。先生たちが定期的に校内をパトロールして事件防止に努めたが、それでも盗難事件は続いた。
「外部から入りこんだプロの仕業だろう」
あまりに手際のよい犯行に、根も葉もない噂が飛び交っていた。
――あの事件の犯人が、瀬田さん……?
見てはいけないものを見てしまったと思って、微かな後悔が心の中に芽生えた。遠からぬ場所に、川のせせらぎが聞こえた。
そのとき。
「何をしてるの」
後ろから声が聞こえた。慌てて振り向いた。
芳江だった。西の空に傾きはじめた太陽の光を背にした芳江が、得体の知れない冷たさを秘めた目で、しゃがみ込んだ京介を見下ろしていた。
「何をしているの」
芳江は、もう一度言った。普段、京介が聞いている芳江の声とは明らかに異なる、強く、よく通る声だった。まるで、芳江の姿を借りた別の人物が、言葉を発しているようだった。
一瞬、目の前にいる芳江が話をしているという事実を理解できずに、京介の脳は混乱した。