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人捜しの依頼が無事に終わると、莉子とコウ君の間では、他愛のない会話がしばらく続いた。内容は、最近のグループのレッスンがとにかくハードであるという話や、テレビで見た他のグループの新曲に対する評価、そしてインターネットで観た話題の海外ドラマの感想などだった。
「ところでこの後、時間ありますか?」
心地よい時間が二十分ばかり続いた後、コウ君は思いついたように、脈絡のない言葉を発した。唐突ではあったが、莉子が待ちに待っていた言葉でもあった。恐らく言ってもらえるだろうとは予想していたものの、もし言ってもらえなかったらどうしようという不安が、つねに心の片隅にあった。
――よかった……。
周囲の人々には莉子の表情が、花が咲いたように明るくなって見えたに違いない。ひょっとしたら、頬がほんの少し、赤らんでいたかもしれない。
「うん、二時間ぐらいなら」
「じゃ、ちょっと一休みしていきませんか」
莉子の返事を聞くよりも早く、コウ君は伝票を手に、レジへと向かう。莉子も慌ててマスクを着けると、周囲に気づかれないように注意しながら、やや距離を置いて続いた。
喫茶店を出て繁華街を抜けると、街の雰囲気が変わった。
人通りは少なく、繁華街ほどの健全な明るさはない。両側にはお洒落な雑貨店や飲食店の代わりに、個性的な装飾が施された建物が立ち並んでいる。その様子はまるで、それぞれの建物が意匠の華美さを競い合っているようでもあった。
いわゆる、ラブホテル街だった。
莉子は、毒々しいまでに派手な色の看板が掲げられた建物の間を、やや俯き加減のままで歩いた。
立ち止まったのは、いつものホテルの前だった。
コウ君に倣って、無言のまま入口をくぐる。慣れた様子でフロントからカギを受け取るコウ君に続いて、いつもの部屋に入った。
*
約一時間後、莉子はコウ君の腕の中で、脱力感とともにささやかな幸福感に包まれていた。莉子の耳のすぐ横で、コウ君の唇から柔らかい寝息が漏れていた。コウ君の息遣いに誘われて、莉子もまどろみと覚醒の間を彷徨っていた。
睡魔が、いよいよ近づいていた。
ふと閉じた瞼の裏に、兄の姿が浮かんだ。
――お兄ちゃん。
気がつくと、涙腺から溢れ出た涙が、微かな温かさを残しながら、右の頬を伝わっていた。
「どうしたんですか、急に」
声に目を開ける。コウ君が、戸惑った様子で莉子の顔を覗き込んでいた。涙に滲む景色の向こうで、陽炎のように揺れるコウ君の瞳が間近に見えた。
「なんでもないの。ただ、ギュッてして」
コウ君は一瞬、驚いた様子だった。しかし、すぐにいつもの柔和な笑顔に戻ると、莉子の頬を伝う涙を右手の人差し指で拭いた。そのまま、二本の腕で、莉子を慈しむように包み込む。まるで、すぐに割れてしまう薄いガラスの器を扱うような優しさだった。
――この人なら、私を支えてくれる。
また、涙が出た。涙とともに、自分では抑えることのできない激しい感情が、後から後から流れ出た。嗚咽が止まらない。合間を縫って、途切れ途切れに言葉を繋ぐ。
兄についての話だった。
莉子は兄の存在について、コウ君に包み隠さず話した。陰ながら支援してくれていたこと、歌舞伎町に事務所を構えていること、そして、事務所で刺され、いなくなってしまったことなど……。
「それは大変でしたね」
話を聞き終わると、コウ君は莉子の耳元で囁き、今一度、涙を右手の人差し指で拭いてくれた。
「僕にできることがあれば、何でも協力しますよ」
涙がコウ君の指に吸い取られて、幻のように消えていった。
*
ホテルを出た莉子とコウ君は、ともに新宿駅の方角に向かって歩いた。
コウ君が選んだのは、来たときとは異なる道だった。できるだけ莉子が目立たないように行動するという、コウ君なりの思い遣りがあるのは明らかだった。コウ君の気遣いを、無下にするわけにはいかない。できれば腕を組みたかったが、無言のまま、二メートルほどの距離を保ち続けた。
やがて、ラブホテル街を抜け、繁華街に入った。繁華街でも、やはりメインの通りではなく、裏通りを歩く。
左腕に巻いた腕時計を何気なく見ると、午後五時になっていた。
今の季節は、夜の訪れが早い。西日が差し込まない裏通りに、昼間の明るさはなかった。
周囲に目を遣る。昼間に訪れたときには開いていなかったはずの居酒屋やバーが、明かりを灯しはじめていた。新宿は、少しずつではあるが、確実に夜の街の顔を見せはじめていた。昼間との僅かな違いの一つ一つに、別れの時間が刻一刻と近づいている事実を実感せずにはいられなかった。
――もうすぐ、コウ君とお別れなんだ。
もちろん、永遠の別れではない。再び逢える機会は、遠からず訪れるだろう。それは重々理解している。しかし……。
莉子の心に、寂しさを伴った悲しみが生まれ、少しずつ大きくなっていった。一歩一歩、歩を進めるごとに、切なさが募り、足取りが重くなる。
――時間なんて、止まってしまえばいいのに……。
しかし、そんな事態は現実にはあり得ない。気持ちの整理をつけることができないまま、繁華街の入口に辿り着いていた。コウ君は、繁華街の外れにある大型ディスカウントショップの前で立ち止まり、莉子を振り向いた。
駅へと急ぐ人々。駅方面から繁華街に吸い込まれていく人々。憎らしいほど無関心に通り過ぎてゆく人々の流れを背に、コウ君は今日一番とも思える笑顔を莉子に向けてきた。その笑顔が、莉子を一段と感傷的にさせる。
「次のライブも必ず行きますね」
「うん……」
どんなに離れたくなくても、今は無条件に頷くしかなかった。
靖国通りを挟んだ向かいのビルには、大型ディスプレイが掲げられている。画面いっぱいに映し出されたミュージックビデオの中で、人気アーティストが男女の別れを歌っている。他人事のような歌詞の薄っぺらさに、無性に腹立たしさが募った。石ころでも転がっていれば、ディスプレイに向かって思い切り蹴っ飛ばしてやりたい気分だった。
「あ、その前に、来週の水曜、NPNテレビの『ミュージック・トランジスタ』で新曲を披露するんでしたっけ。録画しとかなきゃ」
コウ君が、今度は少年のように無邪気な笑みを浮かべた。居たたまれなくなった莉子は、目を背けるように視線を斜め下に移動させながら、寂しく笑った。
「私は相変わらず“その他大勢”だけどね」
その寂しさは、“その他大勢”に甘んじている自分に対する寂しさと、コウ君に見送られなければならない寂しさの両方だった。