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夜籠の鳥(よごめのとり)  作者: 児島らせつ
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十一月四日


 ドスン、と鈍い音が室内に響いた。

「え?」という声が聞こえる。

 私は両手に握りしめたナイフに、もう一度力を込めた。

 左脇腹に突き立てた刃先が、一定の摩擦抵抗を残しながら、吸い込まれるように肉体に埋もれていった。

 深いぬかるみに鉄の棒を刺している感触に近いのだろうか。刃先が埋もれる感触が、ナイフの柄を通じて手に伝わってきた。

 ――これが、人間を刺すという感触……。

 私は、ナイフを握った手にさらに力を込めながら、考えた。大動脈を流れる濃厚かつ大量の血液が、心臓に向かって逆流するかのような興奮を覚え、頬が紅潮した。

 私の身体に突き飛ばされるようにして、彼の大柄な体が、事務所の奥へと続く通路に力なく倒れ込んだ。

 刺したときとは対照的に、ナイフはさしたる抵抗もなく、するりと抜けた。奇妙に思えるほどの手応えのなさだった。刃に目を遣ると、先ほどまで鈍い銀色に光っていた先端に、真っ赤な液体が纏わりついていた。

 床の上に俯せになっている後ろ姿から、呻き声が聞こえた。

 見ると、刺された場所を押さえている指の隙間から、鮮やかな赤色の液体が、心臓の拍動に合わせてなのか、一定のリズムで流れ出していた。

 顔は見られていない。彼は恐らく、誰に、なぜ刺されたかも理解できていないのだろう。

 ――とどめを刺さなければ……。

 ナイフの柄を固く握りしめながら、決意を新たにした。しかし、そのとき私の身体は、今まで無意識のうちに抑え込んでいた、ある感情に支配されつつあった。

 他人を、この手で殺すという行為に対する罪悪感。

 自分の意志と関係なく、手が震えていた。

 額から、大量の汗が噴き出した。流れ落ちる汗を拭こうとして、こめかみに手を当てると、目出し帽が邪魔をした。

 ――彼は助からない。このまま死んでいくのだ。

 自分にそう言い聞かせると、私は部屋の奥に向かってゆっくりと足を進めた。

 部屋の奥には、立派な両袖デスクがあった。私は、デスクの上に伸ばした右手に渾身の力を込めて、天板の上に置かれた電話やパソコン、書類の束を一気に薙ぎ払った。続いて、引き出しの中の書類や本棚の本を片っ端から取り出して、ソファの上に放り投げた。

 私は肩で息をしながら、部屋の中に散乱する書類や本をぼんやりと見つめた。

 ――これでいい。

 私は、安堵と疲労感に包まれ、肩で息をしながら、心の中で呟いた。


          *


 締め切られた窓の外から、ガアガアと、カラスの耳障りな鳴き声が聞こえた。

 気がつくと、私は事務所の片隅で、動くことすら忘れて立ち竦んでいた。

 どのくらいの時間、こうしていたのだろう。随分と長い時間、こうしていた気がする。

 私は左手首に巻かれている腕時計を見る。意外なことに、五分ほどしかたっていなかった。

 すべてが夢の中のできごとのような気がして、頭の中の整理がつかなかった。どうしていいのかわからず、今一度、床に目を遣る。

 糸が切れた操り人形のように力なく倒れている体。その脇腹付近から流れ出た赤黒い液体が、床に不気味な染みをつくっていた。

 突然、恐怖に近い感情が湧き上がり、現実を直視する行為に耐えられなくなった。真っ赤に染まった脇腹から、視線を思わず右に移動させる。

 床の上に力なく伸びている右手のすぐ横に、長方形の黒い財布が落ちていた。

 刺されたときに、ポケットから零れ落ちたのかもしれない。

 そう考えながら、何気なく拾い上げて中に目を通す。四万円ほどの現金と運転免許証が入っていた。

 そのときだった。入口の方向から、大きな機械音が響いた。

 私は、思わず首を竦めた。どうやら、エレベーターのドアが開いた音らしかった。

 外の通路に反響する数人の男の話し声に驚き、手に持った財布を慌てて上着のポケットに捻じ込む。同時に、本が引っ張り出されて半分ぐらいが空になった本棚と、ソファの間にある隙間に身を滑り込ませた。

 息を殺して耳をそばだてていると、隣室のドアが開く音が聞こえて、世界は再び静寂に包まれた。静けさの中で身を屈めながら安堵の息を漏らすと、脳内にもう一人の自分の声が響いた。

 ――ここにいてはいけない。すぐにここを立ち去るべきだ。

 声を聞いて我に返り、腰を上げようとした。しかし、力が入らなかった。

 両膝に掌を突き、ようやくの思いで腰を上げると、未だ収まらない心臓の鼓動を持て余しながら、気配を殺してドアの外に出る。

 現実を上手く受け入れられない状態のまま、事務所前の通路の奥にある非常階段を駆け下り、新宿区歌舞伎町の雑居ビルを小走りで後にした。

 JR新宿駅まで、歩くと十分ほどの道のりを、夢中で走った。

 地下の改札口に向かう階段を駆け降りると、公衆電話が目に入った。

 ――そうだ。せめて通報だけでも。

 階段を駆け下りたままの勢いで駆け寄って、受話器を取った。思うように動かない指先を懸命に動かしながら、一一〇とボタンを押す。相手が出たことを確認して、事務所の場所と、室内に刺された人物がいる事実を早口で告げた。

 最低限の情報を伝えると、私は受話器を置いた。今まで、心と体を内側から縛りつけていた息苦しさが、気休め程度ではあるが、空気中に放出された気がした。

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