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気になる女性の心の声が聞こえたら

作者: まつだつま

 ペダルを踏みこむ足が悲鳴を上げている。

「ハァ、ハァ、ハァ、ハァ」

 口の中の唾液はなくなりカラッカラッになっていた。

 顔を上げると、十メートルくらい先に上り坂の終わりが見えた。

「よしっ」

 サドルから尻を浮かせ、わずかに残った力を振り絞り、全体重をペダルにのせた。額から流れる汗を拭う余裕など全くなかった。

 ペダルををグイッと踏み込み、自転車の前輪がやっと長かった上り坂のてっぺんにのった。そこからもうひと漕ぎして、自転車は上り坂を完全に上りきった。そこで一旦止まり「フゥー」と息を吐いた。

「やっと下りだ」と呟いて、目の前の長い一直線に伸びる下り坂を見下ろした。

 そこからはペダルに足をのせるだけで、自転車のスピードは勝手に上がる。心地よい風が顔に当たる。おかげで汗はひいていく。

 上り坂に比べると天国だ。今にも泣き出しそうな空に視線を上げて、私は調子に乗って「ヒュー」と声を上げた。

 視線を前方に戻すと、視界の隅に何かが入ってきた。目を凝らしてよく見る。

「うわっ」と思わず声が出た。

 ブレーキを思いっきり握りしめた。

『キキーキィーィーィー』とブレーキ音が下り坂に響いた。

 道の真ん中を幼児がヒョコヒョコと歩いている。幼児がもうそこにいる。間に合いそうにないので、ハンドルを右に切った。自転車は尻を振って、幼児の鼻先をかすめた。そのまま横滑りしていった。

『ガッシャーン』

 幼児にぶつかるという最悪の事態は免れたが、自転車はガードレールに激突し、その瞬間私の体は宙に浮いた。見える景色がグルグルと回り、最後にゴツンと音がした。後頭部に鈍い痛みがした。

 チカチカと火花が散って、目の前に見える今にも雨が落ちてきそうな黒い雲が徐々にぼやけていった。目をパチパチと瞬きしたが、視界は薄れていく。最後は目の前が真っ暗になった。


「大丈夫ですか」

 少し掠れた女性の声が聞こえてきた。肩を揺すられる感覚に意識が戻り、ゆっくりと目を開けると、目の前に眉をハの字にした女性の丸い顔があった。

「気がつきましたか?」

 女性が安堵の表情を浮かべエビス顔になった。

「ここは?」

 女性に訊いた。

「あなた、自転車でガードレールに突っ込んで気絶されてたんですよ」

 女性はまた眉をハの字にした。

「そういえば、あっ、子供は?」

 自転車で幼児にぶつかりそうになったことを思い出した。

「息子は無事です。あなたが避けてくれたので、ビックリして転びましたけど、怪我はありません」

 女性が幼児を抱いていた。幼児は女性の胸に顔を埋めていた。

「あー、よかった」

 私は胸に手を当てた。

「よかったです」

 女性がニコリと笑みを浮かべた。

 私は「はい」と言ってから、注意深く体を起こし、頭を振ってみた。特に痛みはなかった。ゆっくり立ち上がり服についた砂をはらった。

「ごめんなさい、うちの子が急に飛び出したものだから」

 女性が幼児を抱いたまま頭を下げた。

「いえ、私の方こそ、前を見ていなかったもので、お子さんに怖い思いをさせてしまいました。運転がどんくさくて、すいませんでした」

 私は女性に向かって頭を下げた。

《ほんと、危ない運転だったし、どんくさかったわね。あれくらいで倒れないでよ。うちの子が悪いみたいじゃない》

 頭のなかで目の前にいる女性の声が響いた。

 しかし、彼女が言葉を発した様子はなかった。今のは何だろう。空耳だろうか。それにしては、はっきりと聞こえたなと、私は首を傾げた。

 女性は私の体が大丈夫だとわかると、幼児を左腕に抱えたまま、倒れていた自転車を右手だけで軽々と起こし、ハンドルやペダルを見ながら、「自転車も大丈夫そうですよ」と言って微笑んだ。

「す、すいません」

 私は彼女から自転車を受け取った。

「それでは」

 女性は最後にそう言って幼児を抱いたまま立ち去っていった。

 立ち去る女性の正方形の背中に向かって「すいませんでした」と大きな声で詫びた。

 すると女性は振り返り頭を下げた。

《ほんと、気をつけてよね》

 また、女性の声が頭の中で響いた。何が聞こえているのだろうかと不思議に思った。

 私は首を傾げて小さくなっていく女性の背中を眺めていた。女性の姿が見えなくなってから、自分の頭を手のひらで叩いてみた。

「どうなってるんだ」


 女性が言ってた通り、自転車はサドルに小さな傷がついてる程度で、乗れない状態ではなかった。

 ズボンのポケットからスマホ取り出し時間を確認した。完全に遅刻だ。仕事場の館長に電話で遅れることを告げてから、自転車に跨がり残りの下り坂をゆっくりと走った。

 健康と節約のために始めた自転車通勤は初日から大変なスタートになってしまった。明日から続けるか、今の時点ではわからなくなった。三日坊主どころか一日坊主になりそうな予感がした。

 駅前のコンビニの前を通り過ぎたところでブレーキを握った。遅れているので気がひけたが、いつも通りコンビニで昼食を買うことにし、自転車から降りてUターンした。

 コンビニの駐輪場に自転車をとめて店内に入った。おにぎりを適当に二つ、カップ麺を一つ、ペットボトルのお茶を手に取りレジに並んだ。栄養バランスを考えると不安なメニューだが、昼食は空腹を満たせればいいだろう。収入が減っているので、ここでも節約だ。

 レジに並ぶと前のお客さんは公共料金の支払いのようだった。年配の女性店員が少し手間取っているようで、私の後ろに列ができてしまった。年配の女性店員はレジの操作に慣れていない様子だった。少し顔がひきつっているように見えた。

 スマホで時間を確認した。館長に遅刻する連絡はいれてあるから、まあいいか。今日の予約のお客さんまでには時間はある。朝一から予約が入っていれば完全にアウトだった。

「次の方、こちらへどうぞ」

 若い女性店員が現れレジをもう一台あけてくれた。色白で目が大きく紅い唇が魅力的な女性だ。ラッキーと思いながら、彼女のレジへと向かった。彼女の前に商品を置いた。彼女は白くて細い指で商品をとり、慣れた手つきで素早く商品をスキャンしていった。

「547円です」

 紅い唇から声が聞こえた。

 私は財布から一万円札を取り出しトレイに置いた。彼女はトレイごと一万円札を受け取った。

「一万円お預かりします」と紅い唇が動いた。

《一万円札か、面倒臭い》

 私の頭の中でレジの女性の声が響いた。しかし紅い唇は動いていなかった。

「すいません、細かいお金、47円出します」

 私は小銭入れを探った。

「はい、ありがとうございます」

 紅い唇が動いた。

 小銭を出すのに手間取ってしまった。

《早く出してよ》

 頭の中で声が響いたので、顔を上げた。紅い唇が動いた様子はない。私は首を傾げた。何が聞こえているのだろう?

 彼女の方もなぜか首を傾げて、私をじっと見ていた。


 私は、このコンビニのすぐ近くにある『占いの森』というところで手相専門の占い師をしている。『占いの森』は雑居ビルの三階のフロアーを借りきって、私以外に六人の占い師が在籍している。

『占いの森』に着き、館長に遅刻を詫びてから自分の鑑定部屋に入った。

 今日の予定を確認していると、ドアが急に開いた。

「阪田ちゃん、おはよー。今日も元気に頑張りましょうね」

 お酒で潰れたダミ声が部屋に響いた。

 私の隣の部屋で霊感水晶占いをしているアキさんが私の部屋に入ってきた。

 アキさんは『占いの森』で人気ナンバーワンの占い師で朝からお客さんが並んでいることも多いのだが、彼女(彼)も最近は暇なようだ。

 アキさんは両手を大きく広げた。アキさんは、やたらとテンションが高く、ついていけない時がある。髪の毛がピンク色で目の周りは紫色、唇は真っ赤という派手なメイクをし、青や紫の頭巾を被っている。怪しい占い師といった感じがするが当たると評判だ。

 占い自体も派手で、占い中に奇声を発することもある。その奇声が私の部屋まで聞こえてくるので、私は鑑定に集中できない時がある。私のお客さんもアキさんの奇声が気になる様子で、壁に向かって舌打ちする人もいる。

 その度に私は「うるさくて、すいません」とお客さんに頭を下げる。

「アキさん、おはようございます。今日もメイクばっちりですね」

「あらそう、ありがとう。阪田ちゃんも少しくらいメイクしたら。わたしがやってあげようか」

「いや、そういうの苦手なんで、遠慮しておきます」

「そんなこと言ってちゃダメ。わたしたちは人気商売なんだから、そんな汚れた服だとお客さんに失礼でしょ。メイクや衣装を変えるだけでイメージはガラッと変わるものよ。そうね、阪田ちゃんは上下黄色のスーツなんてどうかしら。お笑い芸人のゲッツの人みたいに」

 アキさんはゲッツのポーズをしてから続けた。

「それから髪の毛は紫に染めて、その頼んなく下むいた眉毛を少し太く書いてつり上げたらマシになるんじゃないかしら。それから、みすぼらしいちっちゃな目はシャドウでも入れたら。それとも赤い眼鏡やマスクでごまかすのもありかもね」

 アキさんは人差し指を口に当てながら私を品定めするように見ながら言った。余計なお世話だと思った。

「大丈夫です。外見より中身で勝負しますから」

「あら、そう。残念ね」

《外見より中身で勝負? それって、わたしへの嫌味かしら。そんなことよりあんたの占いは中身も空っぽじゃない》

 頭の中でアキさんの声が響いた。アキさんを見ると口を開いた様子はなく、首を傾げて笑みを浮かべているだけだった。

 自転車で転倒して頭を打ってから、変な声が聞こえる。目の前にいる人が言っているように思うのだが、声を出している様子はない。

 もう少しアキさんに話しかけて確かめてみようと思った。

「アキさん、今度飲みに行きませんか?」

 アキさんと飲みに行く気などさらさらないが、訊いてみた。

「あらー、阪田ちゃんが誘ってくれるなんてめずらしいわね。なんかいいことでもあったの」

《あんたと飲む暇あったら、家帰って寝てる方がマシだわ》

 頭の中でアキさんの声が響いた。やっぱり間違いない。

「アキさん、今、なんて言いました?」

 私はアキさんに詰め寄るようにして訊いた。

「なによ、急に。阪田ちゃん、今日ちょっと変ね」

 アキさんは大きな体を後退りさせた。

「アキさん、なんて言いました?」

 アキさんが顔を歪めていたが、構わず繰り返し訊いた。

「阪田ちゃんが誘うのめずらしいから、いいことあったのかって訊いただけよ」

「その後です。その後、なんか言いましたよね?」

「言ったかしら?」

 アキさんが首を傾げた。

「あんたと飲みに行くくらいなら、寝てた方がマシだって言いませんでした?」

「そ、そんな失礼なこと言うわけ、な、ないじゃない」

 アキさんがめずらしく動揺していた。頬がピクピクひきつっているのがわかった。

「そうですか、言ってませんか」

「いくらわたしでも、そんな失礼なこと口に出して言うわけないわ」

「口に出して言わなくても、心の中では思っていたとか?」

「あんた、さっきから何よ。わたし、忙しいから」

 アキさんはそう言って私の部屋をそそくさと出て行った。

 やっぱりそうだと思った。


『トントン』ドアをノックする音がした。

 予約の入っていた今日最初のお客さんだろう。

「はい」とドアに向かって声をかけ、ドアに向かった。

 ドアを開けると、そこには中年の女性が肩を竦めて少し怯えるように立っていた。化粧気のない顔に薄茶色の染みが浮き、肩にかかるくらいの長さの髪には白いものの方が多い。

 部屋の中に通し椅子をすすめた。女性は私の顔を何度も見ながら椅子に腰を下ろした。机を挟んで女性の前に座り、彼女をリラックスさせようと笑みを浮かべてみたが、彼女の表情はかたかった。

「まずは、ここに氏名と生年月日を記入して下さい」

 私はそう言って用紙を彼女の前に滑らせボールペンを用紙の横に置いた。

 女性が記入している間、女性の手元に視線を向けていると、《離婚の相談なんてどう切り出せばいいかしら。夫と別れたいと言ったらいいのかしら、でも、今すぐでなくていいし、それとも……うーん》と頭の中で彼女の声が響いた。

 記入が終わり、女性は用紙を私の方に向けてテーブルの上を滑らせた。

「書けました」

 蚊の鳴くような声だった。

 とりあえず、用紙に視線を落とした。


 氏名 高崎佳代 

 生年月日 一九七〇年 六月十日


「高崎佳代さんですね。よろしくお願いします」

 自然な笑みを心がけ、彼女の緊張をほぐそうとした。アキさんのようなメイクをすると、依頼者の緊張をほぐせない気がする。

「はい、こちらこそ、よろしくお願いいたします」

 高崎佳代は背筋を伸ばし丁寧に頭を下げた。

「じゃあ、さっそくですが、はじめましょうか。まず、手のひらを観せてもらえますか」

 私は自分の両手のひらをテーブルの上に広げてみせた。

「あっ、はい」

 高崎佳代は恐る恐るといった感じで両手のひらを出した。私は彼女の両手のひらを眺めてから「旦那様とうまくいってないのでしょうか。離婚するか悩んでいるようですね」と、さっき聞こえてきた不思議な声の内容を口にしてみた。

 すると高崎佳代は目を丸くして、「な、なんでわかるんですか」と驚いた様子だった。

「やっぱりそうなんですか」

 私も驚いた。さっき聞こえた声の通りじゃないか。

 そこからは普段通り手相鑑定をはじめた。

「結婚線が下向きで二股に分かれています。これは離婚の相なんですね。しかし、心配することはありません。これは今の高崎さんの状態をあらわしているだけですからね」

「離婚の相ですか?」

「離婚と決めつけることはないんですよ。先程も言いましたが、これは今の高崎さんの状態であって、変わることもありますし、変えることもできますから」

《やっぱり離婚の相なんだわ。でも、今は良太の受験があるし、今離婚したら良太の受験勉強に影響するわ。わたしの母も最近体が弱ってきてるから心配はかけたくないし》

 また頭の中で声が響いてきたが、高崎佳代は唇を噛みしめているだけで、言葉を発していない。

「急いで結論を出さない方がいいですね。今はそのタイミングではありません。あなたは家族にとって大きな存在です。身内で体調を壊されてる方もいるようですし、今はお子さんも大事な時期です。少し時間をおいて、落ち着いてから考えたみてはいかがでしょうか。その頃には離婚の相が変わっているかもしれません。とりあえず今は家族といっしょに大切な時期を乗り越えることが先決です」

「えっ、先生はうちの家族の状況なんかもわかるんですか?」

 高崎佳代は私の顔を小さな目を大きく開いて訊いてきた。

「ええ、まあ」

 わかるもなにも、今あなたが言ったことなんですがと思ったが、彼女は言葉を発していない。

 その後も高崎佳代の手相を観て、たまに頭の中に響いてくる声を聞きながら鑑定をすすめた。高崎佳代はすごく当たっていると驚いて、えらく感動して帰っていった。離婚については、もう少し落ち着いてから、考えてみると言っていた。

 あの頭に響く不思議な声のおかげで、鑑定はうまくいったようだ。

 それにしても、頭に響く不思議な声はなんだろう。自転車で転んで頭を強く打った時に、私に凄い能力が身についたのかもしれないと思った。相手が心の中で思ったことが声になって私の頭に響いているのかもしれない。

 それから私の手相鑑定が当たるという噂が広まって私は日に日に忙しくなっていった。本当は手相鑑定そのものが当たっているわけではない。依頼者が勝手にそう思い込んでいるのだ。最初に依頼者が心で思っていることを、私が告げたことで、依頼者がその後の鑑定が当たっていると思い込んでいるのだ。人間は単純だ。


「阪田ちゃん、最近忙しそうじゃない」

 アキさんが休憩中に私の部屋に入ってきた。

「はい、おかげさまで」

 コンビニのおにぎりをかじりながらこたえた。

「鑑定の仕方でも変えたの。参考にしたいから教えてよ」

「別に変えてはないんですけど、私の鑑定が当たる噂が勝手に広まってるみたいです。ネットの力ってすごいですよね」

 ペットボトルのお茶でおにぎりを流し込んだ。

「へぇー、そうなんだ。羨ましいわぁ。阪田ちゃんも努力してたからね。やっと報われたって感じよね。よーし、わたしも負けてられない」

《あんたの手相なんて大したことないわ。たまたま当たってるだけじゃないの》

 アキさんの心の声が頭の中で響いた。


 今日も噂を聞いたという若い女性が朝から鑑定にやって来た。

 いつも通り氏名と生年月日を用紙に記入してもらった。


 氏名 武田結花

 生年月日 一九九八年十月十日


「よろしくお願いします」

 武田結花という若い女性は記入が終わるとペコリと頭を下げた。目鼻立ちのはっきりした可愛い顔をしている。化粧はしていないようだが、しっかり化粧をすればアイドル歌手並みのルックスになるのではないかと思った。黒縁の地味な眼鏡をかけヨレヨレのTシャツにジーンズ姿で服装にもこだわりがないようだが、化粧をして可愛いワンピースでも着たら周りの男は放っておかないだろうなと思った。でも、どこかで見たことのある顔だなと、そんなことを思いながらぼんやりと彼女を見つめていた。

「あのー」

 申し訳なさそうな彼女の声が耳に届いた。

「え、あっ、はい」

 私は彼女の顔を見た。

「鑑定は、まだなんでしょうか」

 彼女は眉をハの字にしていた。

 彼女に見惚れて、鑑定のことを忘れボーッとしてしまっていた。顔が熱くなった。

「すいません、今精神を集中させておりました」

 慌ててごまかした。

「そうでしたか、集中している時に声をかけてすいませんでした」

 彼女は頭を下げた。その拍子にサラサラの黒髪が彼女の頬にかかった。

「いえ、もう大丈夫ですよ。それでは、はじめましょうか。まず両手のひらをみせて下さい」

「はい」

 武田結花が私の前に両手のひらを広げた。

《そろそろ恋愛できるようになむて、結婚したいんだけど、今は出会いすらない。最初はなんて訊けばいいのかな》

 武田結花の心の声が頭の中で響いた。彼女の顔を見たが、やはり声を発した様子はなかった。

「まだまだ、お若いですけど、結婚願望がお強いようですね。男性との出会いについての相談ですかね」

「えっ、あっ、はい。そ、そうなんです。何でわかったんですか」

 武田結花は目を丸くして驚いていた。これでこの女性も、これから私の言うことを信じてくれる。私の手相鑑定が当たっていると勝手に思いこんでくれる。

《いつ頃、結婚できるか訊いてみようか。それより先に恋愛恐怖症になってしまったことを相談してみようか》

 頭の中で彼女の心の声が響いた。

「あなたは魅力的な方ですから、すぐにでもいい人が現れそうです。しかし、何か恋愛に対して悪いイメージをもっていらっしゃいますね。今はそれが邪魔をしています」

 さっき頭に響いた心の声で聞いた彼女の恋愛恐怖症について探ってみることにした。

「えっ、そんなことまでわかるんですか」

「ええ、まあ」

 私は胸を張った。今回も順調そうだ。

「実は、二年前に付き合っていた男性に妻子がいることがわかったんです。あたしは妻子がいることを知らずに付き合っていたんですけど、相手の奥さんにばれてしまって、あたしの家まで怒鳴りこんできたんです。あたしの両親まで玄関先で大声で罵られ大変な騒ぎになりました。近所の人にも聞かれてしまって、母は外も歩けないと嘆きましたし、厳格な父はあたしに二度と恋愛をするなと怒ってしまって……」

 そこまで言うと武田結花は俯いて、手に持っていたハンカチを目に当てた。

「そういうことでしたか。嫌なことを思い出させてしまいました」

「いえ、あの時は、あたしも悪かったんです。もう少し慎重になるべきでした。後になって冷静に考えれば、彼の行動におかしな点がいくつもありました。彼を疑ったことはあったんですが、そう思いたくなくて、彼を信じたくて自分をごまかしてました。これからはそうならないようにします」

 武田結花は顔を上げ背筋を伸ばして言った。今からやり直すんだと決意したように感じた。

「これからやり直せばいいんですよ」

「はい、そうします」

 彼女はニコリと笑った。

「今のあなたの結婚線はとてもいい状態です。寵愛線も出てますし、恋愛運、結婚運は上がっています。財運線もいい状態です」

「本当ですか。なんか勇気が出てきました。これから前向きに婚活していきます。ただ両親が心配しますから、慎重にはしますけどね」

 武田結花は舌を出しておどけて見せた。

《この人があたしの彼氏になってくれればいいのにな。でも、この人は独身じゃないかも。そしたら、また同じ失敗を繰り返しちゃう》

 彼女は今、心の声でなんと言った? この人が彼氏になってくれればいいのにと言った。この人とは私のことなのか。私に彼氏になってほしいということなのか。それは本当か、本当に彼女の思っていることなのか。

 私は浮き足だった。

「気になる男性がいたら、悩まず積極的になった方がいいですよ。今はチャンスです」

 私はそう言って彼女を囃し立て、彼女の目を見た。彼女と一瞬目が合ったが、彼女はすぐに視線を下げた。

「今、気になる男性はいないんですか?」

 私は体を乗り出した。ここは一気に攻めるしかない。

「え? いないわけではない、ですが……」

 彼女は上目遣いで私を見た。

「そ、その男性は、だ、誰ですか? ど、独身なんですか?」

「独身かどうかはわかりません。一目惚れなので」

 彼女はまた俯いた。

「ひ、一目惚れ、ですか?」

「ええ、まあ」

「今は恋愛、結婚運がいい時です。気になる人がいるなら思いきって攻めた方がいいですよ」

 私はなんとか彼女の口から聞きたかった。心の声で言っていた私に彼氏になってほしいという言葉を。

「あたしの恋愛運は本当に今がいい時なんですか?」

 武田結花が訊いてきたので、おもいっきり首を縦に振った。

「そう。そう、今ですよ。今は一番いい。今を逃したら、次はいつチャンスがくるかわかりません。絶対に逃してはダメです」

 私は必死に訴えた。こんな若くて可愛い女性が、私に一目惚れしているのだ。ここで彼女を逃すなんてあり得ない。彼女が口に出さなかったら、最後は自分から言い出すしかない。

 ここで、このまま別れたら、一生会えないかもしれないのだ。絶対に後悔する。

「今がチャンスですか?」

 武田結花は不思議そうに首を傾げた。

「そうそう、チャンスです。あなたは可愛いから、きっとうまくいきます。気になる男性がいるなら、すぐにアタックしてください」

 私は椅子から立ち上がっていた。

《可愛いなんて言ってくれてるけど、本当に思ってくれてるのかな。ただの社交辞令かもしれないし。あたしの鑑定の時間はもう過ぎてそうだから、早く終わらせたいから適当に言ってるんじゃないかな。椅子から立ち上がって、追い出そうとしているみたいだし。この方とお別れするのは名残惜しいけど、あまり仕事の邪魔するのも悪いしそろそろ帰ろうか》

 武田結花の心の声がまた聞こえてきた。彼女はこのまま私のことを諦めて帰るつもりだ。それをさせてはダメだ。こうなったら私から攻めるしかない。

「あの、ですね」

 私は座っている彼女の横に立った。すると彼女は椅子から立ち上がった。

「先生、汗がすごいですよ。鑑定時間過ぎてますよね。ごめんなさい。あたし、これで失礼しますから」

 武田結花はそう言って頭を下げた。

「いえいえ、も、もう少し鑑定しますよ」

 帰ろうとする彼女を両手で制して、生唾を呑み込んでから続けた。「武田さんのような素敵な女性が鑑定に来てくれて、私はすごく嬉しいんです。だから、もう少し、いや、もっともっと、私はあなたのことを知りたい。そしてあなたの力になりたい」

 私の胸は破裂しそうだった。

「あたしも先生のような素敵な方に出会えて良かったです」

 武田結花がそう言って、私の目をじっと見つめた。

「お仕事が忙しいのに、あたしとデートしてくださってありがとうございます」

 武田結花の口から出たデートという言葉に私の心が跳ねまくった。これはデートなんだ。今、前に座っている武田結花という女性は本当に魅力的だ。化粧や服装にお金をかければ、芸能人のように美しくなるだろう。こんな女性が私とデートしてくれるなんて夢にも思わなかった。心の声が響くようになってから、私の人生はいいことばかりだ。

 前に座る武田結花を見ながら、店内に立つ珈琲豆の香りを楽しみ、コーヒーカップをゆっくりと口へ運ぶ。これまでに味わったことのない贅沢すぎる時間だ。

《阪田さん、仕事が忙しいのに、あたしと会ってて体は大丈夫かな。少し疲れているように見えるんだけど》

 武田結花が私の体を心配してくれているようだ。確かに仕事が忙しく、休む暇もない。しかし、少しの時間でも武田結花に会いたい。今は仕事と恋愛と同時にチャンスがきている。今は私の人生にとって大切な時だ。

「門限は八時でしたね」

 私は腕時計を見た。最近購入したお気に入りのブルガリの腕時計だ。武田結花が私の腕時計に視線をやり目を見開いたのを見て得意気になった。その後、俯いて自分の手をテーブルの下へ隠すように持っていった。

《やっぱり有名な占い師の人はすごいな。あたしがいつかは欲しいと思ってるブルガリの時計をさりげなく持ってる。やっぱりあたしとは釣り合わないかな》

 そういえぱ武田結花は腕時計をしていなかった。

「すいません。もともと厳しい父親でしたけど、あの件以来一段と厳しくなってしまって、阪田さんは忙しい時間を無理して会ってくださってるのに、短い時間しか会えなくて申し訳ないです」

 武田結花は唇を噛み丁寧に頭を下げた。

「気にしないでください」

 あの件とは、武田結花が妻子ある男に騙された件だろう。父親が心配するのは当たり前で仕方のないことだ。

「たまに父のことを憎いと思っちゃうことがあるんです」

「お父様にとって、結花さんは可愛い娘さんですからね。大切に思ってるんですよ。変な男に騙されて傷ついてほしくない、幸せになってほしいと思ってるんです。いつか、結花さんもお父様に感謝する時がきますよ」

 それが私との結婚式の時だと最高なのにと勝手に武田結花のウエディングドレス姿を想像して興奮した。

「そうですね。口うるさい父親ですけど感謝するようにします」

《阪田さんはやっぱり大人だわ。それにこの人なら、わたしの両親のことも大切にしてくれそう》

 武田結花の心の声が響いた。彼女も私との結婚を頭に入れてくれているようだ。

「そろそろ、時間ですね。家まで送りましょうか」

「いえ、阪田さんもお忙しいですし、父に見つかると怒りだすかもしれませんので、ここで結構です」

 武田結花は顔の前で右手を小さく振った。

《家まで送ってもらうのは、もう少し後じゃないと。あたしがお父さんに阪田さんを紹介する勇気が出てからでないとダメ。阪田さんはいい人だと思うけど、やっぱりもう少し知り合ってからでないと怖い》

 父親も厳格そうだし、武田結花も恋愛に慎重になっている。あまり強引にいくと、今の関係が壊れそうだ。私も忙しい時期だし、少しずつ慎重に関係を深めていくことにしよう。

「それじゃあ、駅までいっしょに歩きましょう」

「はい」

 武田結花が笑みを浮かべた。

 駅までの時間は五分。この時間を大切に過ごしたいと思った。

《駅まで五分だけど、幸せな時間で大切な時間》

 彼女も私と同じように思ってくれている。一段とこの時間が幸せになった。

 駅について時刻表を確認して、自慢のブルガリの腕時計で時間を確認した。三分後に電車がくる。

「あと、三分で来ますね」

「はい、それじゃあ帰ります」

《帰りたくないけど、今は我慢しないと》

 武田結花の心の声に私の心が跳ねまくる。

「また、会ってください」

「こちらこそお願いします」

「また、連絡します」

「はい、楽しみに待っています」

 武田結花の背中を見ながら両手の拳を握りしめ何度も小さくガッツポーズをした。


 一週間後に武田結花とデートの約束がとれた。私は久しぶりの休みだったが、武田結花が派遣の仕事だったので、夕方六時に前と同じ喫茶店で会うことにした。

「遅れてすいません」

 彼女が喫茶店に現れたのは六時を二十分程過ぎたころだった。

「いえ、お仕事ですから仕方ないですよ」

「こんな日に残業なんて、仕事休んじゃえばよかった」

 武田結花がそう言って舌を出した。

「今日は武田さんにプレゼントを持ってきたんです」

 私は小さな箱をテーブルに置いて、武田結花の前に滑らせた。

「えっ、なんでですか」

「まあ、開けてみてください」

「いいんですか」

 武田結花は首を傾げながら箱を手に取った。丁寧に包装紙を剥がし箱を開けた。入っている物をみて、目を大きく見開いた。品物に視線を落としてから私の顔をじっと見ていた。

「こ、これ、なんですか」

 武田結花の怪訝な表情に私は少し焦った。プレゼントするには早すぎたかもしれない。

《ブルガリの腕時計は嬉しいけど、本当にもらっていいのかな。こんなもの受け取ったら阪田さんに申し訳ない気がする》

 一応は喜んでくれているようだが、気をつかって、戸惑ってるようだ。私に気をつかわなくていい。戸惑う必要もない。

「受け取ってください。ただそれだけです。私のような男とデートしてくれているお礼です。気にせず受け取ってください」

「これって高価な物じゃないですか。受け取れません」

《ブルガリの腕時計は欲しかったけど、これを受け取るのはいけない気がする。けど正直にいうと阪田さんからのプレゼントは何でも欲しい。どうしたらいいんだろう》

 武田結花の心が揺れているようだ。ここはバシッと決めてしまおう。

「絶対に受け取ってください。これからも私はあなたにプレゼントをします。これは私のあなたへの気持ちです。プレゼントで気持ちを伝えるのはどうかなとも思いますが、今は会える時間があまり取れないので、これくらいさせてください。受け取ってくれなければ、私はあなたにフラれたと思うことにします。私を気に入ってくれているなら、受け取ってください」

 武田結花は俯いてしまった。恋愛に慎重な彼女にとって、こういうのはプレッシャーになってしまうかもしれない。しかし、私の気持ちは止まらなくなってきている。

「わかりました。有り難くいただきます。大切に使います」

 武田結花はテーブルに額がぶつかるくらい頭を下げた。

《大切に使おう。いや、すぐに使うのはもったいないからやめておこう。阪田さんをお父さんに紹介する時がきてから使うことにしよう。それまで、この時計を使える日を楽しみにして大切に部屋に飾っておこう》

 武田結花の心の声に涙が出そうになった。なんて健気な娘なんだろう。部屋中、私のプレゼントで一杯にしてやろうとメラメラと燃えてきた。

 それからの私は武田結花と会う度に高価なヴィトンのバッグや財布などをプレゼントした。経済的に豊かになっていたので、私にとってさほど厳しい出費ではなかった。しかし、父親が会社員、母親は専業主婦で、本人は派遣社員の武田結花にとっては、まだ知り合ったばかりの相手からもらうには高価すぎるプレゼントだったようだ。


 私は収入が増え、若くて可愛い女性と付き合えたことに浮かれ過ぎてしまったようだ。

 そこである問題が起こってしまった。彼女の母親が部屋にある高価な品物を見つけ不審に思い、彼女のあとをつけたようだ。喫茶店で私と会ってプレゼントを受け取る娘の姿を見て母親は不安になった。そして私を不審な人物だと決めつけたようだった。

 武田結花は、母親から父親には内緒にしておくから、すぐに私との付き合いをやめるように言われたそうだ。

 武田結花の口からは、母親から反対されて、これ以上は会えないとだけ聞いた。

 武田結花は高価なプレゼントをもらっているうちに自分の感覚が麻痺してしまい、母親に言われるまで自分を見失っていた。母親に言われて、我に返り前と同じことを繰り返していると自己嫌悪になり、少し鬱状態になったそうだ。私の顔を見ると最初の頃の晴れやかな気持ちとは違い息苦しくなると武田結花の心の声が教えてくれた。

 私は武田結花にこれ以上会わない方がいいだろう。恋愛は心の声が聞こえても、自分の感情をコントロール出来なければうまくいかない。もしかすると心の声が聞こえなかった方が私も暴走せず、武田結花のように慎重になれたのかもしれない。武田結花とうまく付き合えたかもしれない。

 武田結花との関係は、私の不器用さのせいで、うまくいかなかった。心の声が聞こえても、それだけで恋愛がうまくいくものではない。相手の気持ちや立場を考えてあげなければいけない。恋愛経験の少ない私にとってはいい勉強になった。

 それからしばらく、私は毎晩枕を濡らした。


 手相鑑定の仕事は心の声が聞こえるおかげで順調なまま忙しい毎日が続いている。特に女性雑誌が取り上げてくれたおかげで一段と若い女性が増えてきた。

「先生、ありがとうございました。自分の気持ちに素直に生きていきます」

 若い女性がドアの前で深々と頭を下げた。

「はい、あなたの持つ運を大切にしてください」

 私はそう言って女性をドアの外まで見送った。女性の姿が見えなくなりドアにかかる『鑑定中』の札をひっくり返した。札は『ノックしてください』に変わる。部屋に入り両手を高く上げて伸びをした。「ファー」と欠伸が出た。右手で目頭をおさえ首を回した。毎日が忙しくさすがに疲れがたまっている。

 今日も朝から若い女性の予約でいっぱいだった。やはり恋愛や結婚に関しての相談が多い。世間は結婚したい女性が減少していると聞くが、私にはその実感はなかった。

 今日の予約はあと一人だ。予約の時間まで十五分ほどある、少し休んでおこうと椅子に腰かけて目を閉じた。

 今日は心の声が聞こえにくくて苦戦した。疲れていると聞こえにくいのかもしれない。こんな日は早く帰って寝た方がいい。そう思っているうちにスーッと意識が遠くなり吸い込まれていくような感覚がした。

「トントン」

 ドアをノックする音にビクッと立ち上がった。

「トントン」またノックする音がした。

「はい」ドアに向かって返事をした。

 腕を高く上げ伸びをし首を回してから、今日最後の依頼者を迎えに向かった。私はゆっくりとドアを開けた。

 ドアの向こうには女性が立っていた。マッチ棒のように細くて弱々しい女性だった。顔をみると色は青白く髪の毛はボサボサだった。失礼だが夜道で彼女を見たら、幽霊と勘違いして腰を抜かしていたかもしれない。

「予約されてた西崎さんですか?」

 私の声は自然と小さくなっていた。大きな声を出すと、彼女が怖がりそうな気がしたからだ。

「はい、よろしく、お願い……」

 震える小さく消え入るような声だった。

「では、中に入って椅子におかけください」

 私はそう言って部屋の中に招き入れ椅子の方に右手を向けた。私が先を歩き椅子をひいて彼女を待った。彼女はゆっくりでフラフラとした足取りだった。若そうだが歩き方は足腰の弱ってしまった老婆のようだった。

「ありがとうございます」

 私に向かって小さく頭を下げて椅子に腰をおろした。

「それでは、さっそくはじめましょうか」

 私はテーブルを挟んで彼女の前に座った。さっきより少し声を張った。

「よろしくお願いします」

 彼女がゆっくりと頭を下げてから、少しだけ笑みを見せてくれた。

 笑った顔は小動物のように可愛いかった。特に黒目が大きくてとてもきれいだ。もっといい表情をすれば魅力的なのに、もったいないなと思った。

「では、この用紙に氏名と生年月日を記入して下さい」

 私はいつも通りに用紙を彼女の前に滑らせた。


 氏名 西崎美和

 生年月日 二〇〇〇年十月七日


 彼女は記入が終わり、私の方に用紙を向けた。

「これでよろしいですか」

 私は用紙を取り視線を落とした。文字もうすく弱々しかった。

「ありがとうございます」

 疲れていたが出来るだけ、笑みと明るい口調を心がけるようにした。

 彼女の様子を見る限り、深刻な相談の可能性もある。まず、心の声が聞きたいと思った。

「それでは、鑑定を始めましょうか。両手のひらを見せて下さい」

 私はテーブルの上に両手を広げて手のひらを見せた。西崎美和は恐る恐るといった感じで両手を私の前にそっと差し出し、泣き出しそうな声で口を開いた。

「これからのあたしの人生はどうなるんでしょうか?」

 西崎美和のいきなりの質問に戸惑った。これから間違いなく彼女の口から重大な相談を聞かされることになるのだろう。

「は、はい、こ、これからあなたの手相をみますので、あ、あせらずにね」

 私の方があせっているのかもしれない。落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせた。

《今さらこんな事きいても仕方ないんだけど。あたし、どうせ死んじゃうんだから》

 西崎美和の心の声が聞こえてきて、私は動揺を隠せなくなった。《どうせ死んじゃう》とはどういう事なのだろう。不治の病なのかもしれない。西崎美和の顔をじっと見た。顔色は青白いし、ここに来るより医者に行くべきではないかと思った。

 少し自分を落ち着かせて、西崎美和の手相をみることに集中することにした。

 彼女の折れそうな左腕を見てから左手のひらに視線を落とした。外見とは違いしっかりした生命線が走っていた。それを見てすこしだけ私は安堵した。これで生命線が切れていたり弱々しかったら、何と言えばいいか思い浮かばなかった。

「生命線はきれいでしっかりしていますね。これは長寿の相ですよ」

 私は長寿を強調して言った。

 西崎美和は黙ったままだが、小さく頷いたように見えた。

《あたしって、長寿の相なんだ。そんなのいらないのに。生きていても良いことないし、あたしの長寿の相を誰かにあげたいわ》

 西崎美和の心の声が聞こえたが、意味がわからない。長寿の相なんていらないと言うことは、不治の病ではないということか。なら、《どうせ死んじゃう》と言った心の声はどういうことなのか。

 考えられるのは彼女自身が生きていたくないから、自ら死んじゃうつもりということだ。

 それだと、もっと大変なことだ。自殺するつもりだが、その前にここに来たということになる。

 ここに来たのは、自殺するかまだ迷っているということだろうか。私に助けを求めているということだ。それだと絶対に彼女の自殺をやめさせなくてはならない。私は深呼吸をして慎重に言葉を選び口を開いた。

「どうされましたか? 悩み事があるなら何でも言って下さい。ご相談にのりますからね」

 まず、自殺しようとする理由をききだしたい。

「えっ、悩んでることわかりますか。でも……、大したことじゃないんです。少し落ち込んでしまって……」

 自殺しようとしているんだ。大したことないはずがない。何とか本心をきき出さないといけない。心の声よ、人助けだ。今すぐ聞こえてくれ。

「大したことないんですか? それならいいんですが、どちらにしてもほとんどの悩みは後で冷静になってみると、簡単に解決できることが多いんですよ。悩んでいる時は、冷静な判断が出来なくなりますので、変に行動を起こさないでじっとしておいた方が良いです。嵐はいつか過ぎ去って、あなたにはきっと素晴らしい将来がやってきますから」

 ありきたりな言葉しか思い浮かばなかった。当たり前の事だが、早まらないでほしいと思った。素晴らしい将来が待っていることを伝えて希望を持ってほしいと思った。それに、素晴らしい将来が待っているという話も、西崎美和の場合、まるっきりのデタラメなものではない。西崎美和の手相を観るかぎり、彼女の将来は希望が持てるものだった。幸せを示す太陽線が強く出ているし財運線もきれいで強い。今を乗り切ればきっと幸せになれるはずだ。

《この方は、あたしの悩みに気付いてくれてるみたい。すごい方だわ。でも、あたしは、もう無理だわ。貯金が底をついちゃったし、人間不信で仕事にも就けそうにない。もう人生をやり直すチャンスは無いわ。人生の最後にこんな素晴らしい男性に出会えただけで幸せだったわ》

 彼女の心の心が聞こえた。しかし、ダメだ。自殺する気持ちは変わっていないようだ。どうしたらいい。何をどう伝えればいいんだろう。彼女は経済的に苦しいのだろうか。何故、人間不信になったんだろうか。仕事に就けないのは何故だろうか。

「仕事はなにをされてるのですか」

 あせらず時間をかけてゆっくりだ。それしかない。

「あっ、はい、フリーターでしょうか」

《無職で、お金も無いなんて恥ずかしくて言えない。死ぬ前なのに少しプライドが出ちゃったかも。特にこの人には、なぜか恥ずかしくて言えない。死ぬつもりなのに、あたし恋をしちゃったのかもしれない》

 絶対、彼女を死なせてはいけない。借金をかかえてるのだろうか。お金があれば何とかなるのだろうか。仕事が見つかれば何とかなるのだろうか。しかし、もっと根本的な悩みがありそうなんだけど。そこについては彼女の心の声は聞こえてこない。

「財運線を見ると、少しお金で苦労しそうですね」

 私は嘘をついた。彼女の財運線は悪いものではない。どちらかというと良い方だ。しかし、現在お金で苦労していることを探るために言ってみた。

《この人は、すべてお見通しなのかもしれない。正直に全て話す方がいいのかな。でも、やはり言えない》

 もう少しだ。もっと心の声が聞こえてくれたら、彼女を助けられるかもしれない。

「やっぱり、わたしの財運は悪いんですか」

 彼女はがくりと首を折った。

《やっぱり、わたしはダメなんだわ》

 しまった。財運が悪いなんて言ってしまったから、一段と落ち込んで悪い方に流れてしまった。

 彼女は下を向いたまま何も話そうとしなくなった。私は彼女の心の声を聞き出そうと必死だった。聞きたい時には聞こえないのが、本当にもどかしい。

 少し沈黙が続いた。私はどうすれば彼女を救うことができるのか必死で考えていた。その時やっと彼女の心の声が聞こえてくれた。

《やっぱり、無理みたい。あんな男に騙されたあたしが悪いんだし、もう諦めよう。借金まみれで体を売るしかないなんて、この人に相談しても仕方がないことだし》

 心の声が聞こえた。やっぱり、借金だ。それも悪い男に騙されて借金で苦しんでいるんだ。どうすればいい。

「お金で苦しんでますよね」

 あまり重苦しくならないように、かといって軽くならないように注意して訊いた。

「……」

 彼女は無言で小さく首を縦に振った。

《今日中に三百万円用意するか、体を売るか決めないといけない。三百万円は用意出来そうもない。けど体を売るくらいなら死んだ方がまし》

 今時、借金で体を売るなんてことがあるのかと驚いた。どちらにしろ彼女にはお金が必要なんだ。

 私が借金取りと話をつけるわけにもいかない。どうせボコボコにされるだけだろう。かと言って彼女が自殺しようとしているのに、このまま帰すわけにもいかない。

 取り敢えずお金を貸してあげようか。三百万円なら、今の私ならなんとか用意できる。しかし、いきなり、お金貸しますよと、言うわけにもいかないし、どうしたらいいだろうか。私はいろいろと考えた。

「手相家をしてますと、いろんな悩みを抱えた人と出会います。異性関係で悩む人、仕事で悩む人、お金で悩む人、本当にいろんな悩みを持った人がいます。しかし、解決出来ないものは何一つありません。みなさん、それらを乗り越えて、幸せになっていきます。あなたも今は苦しくても必ず乗り越えられます」

 こんなこと言っても慰めにもならない。ありきたりなことしか言えない自分のバカさ加減に腹が立つ。

「はい、ありがとうございます。その言葉、勇気になります」彼女はそう言って頭を下げてから続けた。「鑑定料をお支払します」薄汚れたリュックから財布を取り出した。財布も若い女性が持つようなものではなかった。中学生が持ちそうな布製の色が変色した財布だった。

《これで、もう未練はないわ》

 西崎美和の覚悟を決めた心の声にあせった。めちゃくちゃにまずい展開だ。

「ダメです。絶対にダメです」

 つい声を上げてテーブルを叩き、立ち上がってしまった。西崎美和は驚いたように財布を持ったまま私を見上げた。

「はあ?」

 西崎美和は口をポカンとあけている。

「あっ、いや。取り乱してすいません。でも、本当にまだダメなんです。しっかり鑑定しないと、鑑定料はいただけませんから」

 私はそう言って椅子に座り直した。

「クスッ」

 彼女からはじめて笑みが漏れた。よし、笑ってくれた。なんとかこの流れで自殺を思いとどまらせなくてはならない。

 私がお金を貸してあげるしかない。人助けだ。それが一番簡単な解決策のはずだ。

「先程も話しましたが手相鑑定の仕事をしてますと色々な悩みを持った人に出会います。あなたのように借金で苦しむ人も多いです。なので、私はたまに貸金をやることがあります。それで助かる人も多いものですから、もし良かったらご利用になりませんか。金利は大して高くないですよ」

 私は嘘をついた。貸金業の資格もないし、これまでに他人にお金を貸したことなど一度もない。この西崎美和という若い女性の自殺を思いとどまらせる為だ。きっと神様も、この嘘は許してくれるだろう。

「今会ったばかりの人にそんなことお願いできません」

 西崎美和は俯いて激しく首を横に振った。

《これから死ぬのにお金借りても仕方ないわ》

 ダメだ。まだ自殺するつもりだ。何とかしなければ。

「ダメです。絶対にダメです。体を売るのもダメですが、死ぬのはもっとダメです。三百万円あれば何とかなるんですよね。それなら私が貸しますから、それを使ってください。返済はいつでもいいです。いや無理なら返済しなくてもいいです」

 私は椅子から立ち上がり身を乗り出し大声を出していた。

 西崎美和がビックリした表情で私を見ていた。「えっ?」と口に手を当てていた。

 ビックリするのも当たり前だろう。三百万円の借金のことや体を売らなくてはいけないこと、自殺を考えてることを私が知っているはずがないのだから。でも、そんなこと今はもうどうでもいい。

「全て手相に出てますよ。絶対に早まってはダメです」

 そんなことあり得ないが、全て手相に出ていることにしておいた。自殺を思いとどまってくれれば、もうなんでもありだ。

「本当に良いんでしょうか」

「私たち占い師は依頼者を幸せにするために占いをやっています。困っている人を助けるのは当たり前のことです」

「で、でも、……」

 彼女の瞳に光るものが見えた。

「遠慮することはありません。あなたの通帳の口座番号を教えて下さい。今からすぐに振り込みます」

 私は彼女の目をじっと見た。絶対に自殺しないでくれと心の中で念じた。

「ありがとううございます。ここに来て本当によかったです。絶対に返済します」

「返済なんていいです。落ち着いたら元気な顔をみせてくれれば、それだけで充分です」

「……」

 西崎美和は唇を噛みしめ無言だった。大粒の涙が頬を伝いテーブルに落ちた。


「先生、本当にありがとうございました」

 彼女が席を立ち腰を直角に折った。

「これからの人生を素晴らしいものにして下さい。それとこれをどうぞ」

 私は彼女の前に立ち封筒を出した。現金十万円を入れてある。

「えっ」

 彼女はビックリした表情で私を見た。

「これも受け取って下さい。十万円だけですが、借金返せても生活するお金も必要でしょ」

 私はニコリと笑みを浮かべて言った。

「そんな」

 彼女は手を出そうとしないので、無理やり彼女の腕をとり手の上に封筒をのせた。

「はい、気にしないでいいから。これで、人生やり直して」

「ありがとうございます。じゃあ遠慮なくいただきます。そしてもう一度やり直してみます」

 彼女が笑った。

「そうそう、その笑顔」

 私は彼女の笑顔を指差した。

「世の中は悪い人ばかりじゃないんですね」

 彼女がなかなか出て行こうとしないので、私も少し名残惜しかったが、「早く行きなさい。人生をやり直す為に」と言って彼女の肩に手を置いた。

 彼女は「はい」と言ってゆっくりと歩き出し、ドアの前で振り返った。

「頑張ってね」

 私は右手を上げた。

 彼女は私に向けて深々と頭を下げた。

「本当に、本当に、助かりました」

 床にポタポタと涙が落ちた。

 西崎美和が部屋から出ていった。その後、私は彼女の出ていったドアをぼんやりと眺めていた。

「よかった」と椅子に崩れるようにして腰かけた。いつも以上に緊張していたのだろう体中汗でびっしょりになっていた。

 隣の部屋から奇声が聞こえた。「そーうりゃー」アキさんの声だ。西崎美和の鑑定の時も聞こえていたが、全く耳に届かないくらい集中していた。

 私は疲れたが、人助けをして気分は良かった。これから行きつけのやきとり屋で一人で祝杯をあげることにした。


「阪田さん、いらっしゃい。今日はえらいご機嫌そうだね。なんか良いことあった?」

「大将、わかる?」

「阪田さんの顔見りゃわかるよ」

「そんな顔してるかな」

 私は頬を撫でた。

「占いに来た若い娘を助けたんだね。阪田さんも隅に置けないね。若い娘だったから張り切ったんじゃないの」

「えっ、大将、何でわかったんです?」

「あっ」

 大将が慌てて口に手をやった。

「大将?」

 私は首を傾げた。

「そうだよな。ヘヘヘ、つい口が滑っちまったわ」

 大将が後頭部を掻きながら笑っていた。

「えっ、大将、どういうことですか」

「いやね、実は最近、阪田さんの思っている事、心の声っていうのかな、それが俺の頭の中で響いてくるんだよ」

「私の心の声が大将には聞こえるんですか」

「そうなんだよ。それで、さっきも阪田さんが店に入ってきたら、若い娘を助けられて最高の気分だって、阪田さんの心の声が言ってたからさ。それでわかったんだよ、ヘヘヘ。これまで黙ってて悪いね」

「大将は私の心の声が聞こえてるんですか?」

「聞こえるっていうか、頭の中で響くって感じかな」

 私と同じだ。

 そう言われて見れば、最近大将が気が利くなと思うことがいくつかあった。焼酎が飲みたいと思ったら、「麦にするか」と訊いてくるし、お腹が空いてる時には、「茶漬けかおにぎりでもするかい」と声をかけてくれた。

「それって、おかみさんにも聞こえてるのかな」

「いーや、俺だけみたいだけどな」

「大将だけ?」

「他はわかんねえけど。とりあえずこの店では俺だけみたいだな」

「大将は、私以外の人の心の声は聞こえるんですか」

「いやいや、俺が聞こえるのは阪田さんだけだよ。阪田さんは、他の人の心の声も聞こえるみたいだね」

「知ってるんですか」

「ああ、前に阪田さんの心の声がそう言ってたよ」

「なんで、大将にだけ私の心の声が聞こえるんでしょうか」

「さあな」

 大将は腕を組んで右手を顎に当て首をひねった。しばらくしてパンと手を打った。

「もしかして、あれじゃない」

「あれ?」

「そう、阪田さんの誕生日は十月二日でしょ。俺は十月五日で近いから。同じ天秤座だし、天秤座だけの秘密みたいなので聞こえるとか。いや、そりゃないかな。ハハハ」

「同じ、天秤座か」

 もしかしたら天秤座の人はみんな私の心の声が聞こえているかもしれないのか。

「いやー、わかんねえけど、そうかもしんないし、そうじゃないかもしんないな。阪田さん、そう難しく考えんなよ。でも、阪田さんは俺の心の声も聞こえてるから、阪田さんの前では阪田さんの悪口は考えないように注意したよ。心の中で阪田さんのことを褒めまくったよ。ハハハ」

「そうだったんですか」

 私は唇を噛みしめ宙に視線をやった。

「阪田さん、冗談だよ、冗談。阪田さんのことは本当にいい人だと思ってるからよ。別に心の声が聞こえようが聞こえまいが、俺は阪田さんのこと大好きだよ」


 西崎美和は『占いの森』を後にし、駅へと早足で歩いていった。こんな姿を人に見られたくない。

 息を切らし駅に着くとコインロッカーへと向かった。誕生日と同じの番号の一〇七番の鍵をポケットから取り出しコインロッカーを開けた。中からプラダのバッグと財布、そして衣類の入った紙袋を取り出した。そのままそれらを持って駅のトイレへと向かった。

 トイレの個室に入りリュックに入っている十万円の入った封筒を取り出し、プラダの鞄に詰め込んだ。布製の汚い財布の中身を抜き取りプラダの財布に入れかえ、ヨレヨレのティシャツとジーンズを脱ぎ捨て、紙袋に入っているワンピースに着替えた。脱ぎ捨てたティシャツやジーンズ、リュックと財布を紙袋に詰め込んだ。所属する劇団の小物を勝手に拝借したものだ。見つかる前に返しておかないといけない。

 トイレの個室から出て、鏡の前で、いつものメイクに変えた。これで全てが終わった。鏡に映る自分の顔を見て笑みを浮かべた。

「グッジョブ」

 トイレから出てから、スマホを取り出し電話をかけた。ワンコールでつながった。

「もしもし、今終わりましたよ」

「どう、うまくいった?」

「はい、三百万円プラス現金で十万円ゲットです」

「えっ、全部で三百十万円?」

「はい、うまくいきました」

「あたしは、何回もデートしてブランド品をプレゼントしてもらってから現金に代えたのに、あんたいきなり三百十万円ゲットはすごいわ。それも一時間くらいでしょ」

「結花さんの言う通りにやれば簡単でしたよ。あの男の心に向かって話しかけると簡単に信じてくれました」

「やっぱり美和にはかなわないわ」

「なんか、劇団で演技するよりうまくできましたね」

「それは、あたしもだったわ。お金がかかるとあたしたち強いわね」

 電話の向こうで笑い声がした。

「あと、うちの劇団だと祥恵も天秤座なんですけど、教えちゃいます?」

「祥恵かぁ。あの子もお金に困ってたからね。教えてあげたいけど、さすがに間をあけた方がいいんじゃない。あいつもそこまでバカじゃないでしょ。気づかれたらマズイし」

「そうですね、祥恵に教えるのは、もう少し後にします。結花さん、教えてくれたお礼に、美味しい物ごちそうしますよ。今からどうですか」

「ありがとう、じゃあ遠慮なく焼肉が食べたいかな」

「じゃあ、二人で祝杯をあげましょう」


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[良い点] 知らぬが花ではありますね。 金は天下のまわりもの。たまに詐欺られてもお客様はたくさんきそう
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