その10 バスケ部 タオの場合
僕はきっと幸せだ。
楓がいる。来栖部長もいる。楽しいクラスメイトや、先生、両親、ペットのペロも。温かい笑顔に囲まれて、僕は、幸せだ。
瞬、君はどう?今も僕らと笑い合ったあのくしゃりとした笑顔で、笑ってるかな。それとも瑞樹さんに向けていたあの慈しむような微笑みを、今は。
瑞樹さん、瑞樹さんは元気?僕を撫でてくれた優しい手も、抱き締めてくれた温もりも、名前を呼んでくれたあの声も、今は瞬にだけ向けられているのだろうか。
二人だけの世界は、二人だけのものですか?
それならやっぱり、僕は幸せだ。
あの日、二人が消えた日、頭が真っ白で、心にポカンと穴が開いた。そんなよく聞く表現を、二つ同時に体験した。
楓は眉間にシワを寄せて、キョロキョロと目を動かしては、どうにか自分を落ち着かせてた。
僕はといえば、頭も心もその役割を果たさないのに、いや、果たしていないせいか、いやに冷静な態度だった。悲しみや寂しさは後からやって来た。涙が止めどなく流れて、それを見た楓は目を赤くして、また眉間にシワを寄せた。
僕も楓も、瑞樹さんと瞬が本当に好きだったんだ。
知り合った頃から楓は瑞樹さんを本当の兄の様に慕ってた。僕はそれが羨ましくて。彼と仲良くなるにつれ、瑞樹さんともたくさん話した。
瞬は高校に来てから知り合った友達で、それなのに僕たちは小さな頃からずっと友達だったみたいに、すごく仲良くなった。
二人が消えてからみんな口を揃えて言った。
"あの二人が知り合いだった事すら知らない"
誰も知らない、二人の秘密。
それを僕は知っていた。
だって僕が、二人をひきあわせたんだもの。
体育館から見える瞬の横顔はいつも穏やかで、目下にある物語の中へ入り込んでいた。運動神経が良いのにバスケの勧誘には興味を示さず、ただあの部屋で本を読み耽る。そのうちどうして図書室や家で読まないのか、ってたずねようと思ったんだけど、その必要はなくなった。
瞬が時折入り込んでいたはずの物語から抜け出して、僕に横顔を見せつけたまま何かを見つめるようになったからだ。その頻度は日に日に増え、時間を増して。
それがどうしてなのか、僕は自らあの数学準備室へ足を運んだ頃には既に、気が付いていた。
瞬がどんな物語よりも夢中になっていたもの、それは-
僕らの大好きな瑞樹さんだ。
それに気が付いた時、おかしいかも知れないけど、僕は嬉しかった。
あぁやっぱり、瞬は僕らと本当に気が合うって。瑞樹さんの事を紹介した訳じゃなかった。だけど僕らと仲が良いのは知ってたはずだ。僕らは毎日のように、瑞樹さんの話をしていたから。
瞬は、瑞樹さんをその目を通して好きになったんだ。
その好意は僕の目から見てもよく分かった。
生徒会が活動している時はもう殆ど本なんて見ずに、僕が休憩の度に瞬を見付けると、その度に彼は惚けたように、ぼんやりと窓の外を見つめていた。
僕らは、瑞樹さんにも時々瞬の話をしてた。知り合ってまだ半年も経たないのに、昔からの友達みたいなんだって。瑞樹さんはそれを自分の事みたいに嬉しそうに聞いてくれた。太鳳、良かったなって、いつも僕の欲しい言葉をくれた。
瑞樹さん、僕はね。
瑞樹さんがいつも僕らの欲しい言葉を探してくれていたこと、知ってるよ。褒めて欲しい時、叱って欲しい時、瑞樹さんの口から出る言葉はいつも僕を満たしてくれた。そしてそれをすることで、瑞樹さんも満たされていること、わかってたよ。
僕はあなたが思っているより、あなたの事が好きだ。だから僕は、あなたが幸せならそれで良かったんだ。楓もそうだ。
瞬は僕らと似てるから、きっと彼もそうなる、僕らはあなたの優しい陽だまりに包まれて、この一年、過ごすんだろうって。
だからきっかけを作りたくて教えてあげたんだ。瞬にじゃなく、瑞樹さんに。
「窓の外を見て」
そう伝えた。それだけなんだ。僕が二人をひきあわせた言葉なんて。
瑞樹さんはその後たった一度、あの子が熊谷瞬君?と僕にたずねただけだった。
二人がどうして消えたのか、なんて事はあの二人にしかわからない。だけど僕は、あの二人の間に何かが始まったことを知ってたんだ。
でも僕はそれが何なのかを知ろうとはしなかった。瑞樹さんの世界が、瞬の世界が変わろうとしているのが、分かったから。その世界に僕が登場するとすれば、それは二人が僕を招いてくれた時だけだ。
だから僕はそれをただ、待ってた。大切だからこそ、踏み込めなかった。
変だよね、どうせならきちんと紹介していれば、こんな形にはならなかったかも知れないのに。
瞬。君の事、もしかしたら僕よりもずっと知ってる人に会ったよ。剣道部の木村先輩。向こうは僕を知らなかったみたいだけど。この僕の話を、彼だけにした。だって君の通ってたダンススタジオの前で会うなんて、凄いじゃない。先輩も僕と同じ思いでいたんだって、そう思った。
『あいつの世界は動き出したのか』
先輩がこぼした言葉。それを聞いてドクン、と心臓が跳ねた。その時まで僕は、二人が消えて、歯車が止まってしまったと思ってた。
でも、もしかしたら、二人の逃避行が、僕らの歯車を動かしてくれたんじゃないかって。狂っていた、止まっていた僕らの歯車を。繰り返していたただけの毎日を、変えてくれたんじゃないかって。
僕はいつまでも胸の穴を埋められなくて、ぼんやりとして過ごしてた。体育館から見えるこの数学準備室にもう瞬はいない。ここから彼が見つめていたはずの教室には、暖かい陽だまりは感じられない。
僕は二人の両親にも先生達にも何も言わなかった。何も言えない、が正しいかも知れないけれど、あの二人が大切にした何かを、二人以外が知る必要はないと思ったから。
瞬、僕の隣には楓がいる。もう反対側に君がいたらって、今も思う。だけど君が決めた事なら、僕は。
木村先輩は時々僕に声をかけてくれるようになったんだ。僕の世界を、君が変えた。
僕が身動きが取れなくなった時、僕を心配してくれる人がいたことにも、気付けたんだ。
二人の逃避行は、誰かを傷付けたかもしれない。
でもね、少なくとも僕は。今はとても穏やかな気分なんだ。少し前まで、本当に惨めな気持ちだったのに。
二人の逃避行は失敗に終わるだろうか。この時代に行方を探せないなんて事、あるだろうか。いずれ引き戻されてしまうだろうか。二人は新しい世界へ、羽ばたく事が出来るだろうか。
二人の逃避行は、それを知る僕らにとって、どんな形であれ影響を与えたはずだ。
僕は、僕は、この夏を一生忘れないだろう。
窓へ近寄ってグラウンドを見下ろすと、部長がこの教室を見てた。その口がゆっくりと『太鳳』と形どったので、こくん、と頷いた。
ちら、と生徒会室を見ると、瑞樹さんが立っていたであろう場所に楓がいて、驚いてもう一度部長を見ると今度は僕と同じ様に頷いた。
僕はそれがなんだか嬉しくて、少し、笑った。




