メンヘラ失格(8)
8
あれから一週間が過ぎました。凛からの連絡はその後もありませんでした。一花は相当に落ち込み、何度も夜に呼び出されては、あやして家に返すのを繰り返していました。そして、二人で勝手に、これは失踪ではなく、失恋だと思うように決めました。彼が死亡としたという情報もありませんし、ただ単に音信不通になってしまった、それだけだと思うようにしたのです。本当にそうかもしれませんし、私はやはり彼に生きててほしいのでそちらの可能性のほうを望んだのです。一花もそれは同じです。
その間、私は仕事や次の家を探したりなど忙しく、疲労を極めておりました。やっと家も決まり、仕事も珍しく早めに終わり、家で久々の休息を取っていました。携帯でツブヤキッターを見ながら、多分、彼女からまた連絡があるんだろうなと思いつつ、しかし、女子高生の失恋をむげにできずにいる自分の優しさというかお節介精神に、疑問を抱き始めてました。
そうしているとやはり、携帯が震えだし、着信音を鳴らし始めました。私は待ってましたと言わんばかりに電話に出ました。
「もしもし、葉ちゃん。今から高円寺の高円寺レジデンスっていうマンションに来てもらっていい?」
やはり呼び出しです。でもいつもは『今いいかな?』とか『来れる?』とちゃんと質問してくれるのに、今日は違いました。
「行けるけど、どうして?」
「いいからきて、待ってるから」
私の質問に間髪入れずに即答し、そしてそのまま彼女は電話を切りました。時刻を見るともう20時を超えています。このまま行かずにそこにずっといる彼女を想像すると、行かないわけにはいきません。そもそも断るつもりは私にはありませんでした。
電車を乗り継ぎ、高円寺には、電話をしてから三十分後くらいに着きました。幸い、仕事から帰ってすぐなので身支度は整えていました。スーツのままですが、この姿で会うのは初めてではないのでそんなに気にしませんでした。指定されたマンションはこの近くで一番高いマンションでした。そして、そのマンションの駐車場の近づくと、そこに一花らしき姿を見つけました。私は近づいていって、彼女がこちらに気づくか見てました。しかし、彼女は一点を見つめたまま動きません。その先が気になり、見てみるとそこには花束が添えられていました。
「一花ちゃん、どうしたの?」
私が声をかけると、はっと我に帰ったようにこっちを振り向きました。
「葉ちゃん、来てくれてありがとう」
そう言って、また花束の方を見ました。私は一花の横に立ち、一緒にその花束を見ました。花束以外にも手紙やぬいぐるみ、可愛く包装された箱などが置かれてありました。
「さっきね、怜菜の、ご両親から、連絡があったの」
一言喋るごとに、彼女は大きく息を吸い込み、次の言葉を選びながら喋りました。
「最近、怜菜から連絡が来ないなとは思ってたの」
私もそれを感じていました。テスト期間と聞いていましたが、それでも連絡してきそうなのにと思っていたからです。しかし、それを気にする余裕がないくらいここ最近は忙しかったのです。
「私はテスト期間だからって聞いたよ」
私がそう挟むと、一花は頷きました。
「私もそう聞いてた。だから気にしてなかった」
私が次にまた質問しようとしたら、彼女は左手を伸ばし、私の腕を掴みました。
「でもね、違ったの。怜菜は、怜菜は」
服だけしか掴まれてませんが、彼女がどれだけ強く掴んでいるかがわかりました。
「亡くなったの」
全身から魂が吸い取られて、肉体だけが外の寒さを感じてる。そんな状態に一瞬にしてなりました。
「え?」
そう言葉を発するしかありませんでした。一花は小さく嗚咽混じりに、涙を流してます。
「このマンションで、飛び降りたの。五日前に」
ここに置いてある花束が、彼女がここで亡くなった証拠かのように見えました。あの子は亡くなったのです。私たちには見えないところで、知らないところで、何も言わずに亡くなったのです。
「ご両親が連絡遅れてすまないって。彼女、遺書も残さなかったから、いろいろバタバタしてたって」
彼女は遺書も残さず飛んだのです。
「どうして」
私は思わずそう呟いていました。納得はできても、それでもどうして彼女が飛び降りたのか、やっぱりわかりません。答えを求めても帰ってくることのない問いをしたくてたまりませんでした。
「私にはわからないよ」
怜菜に対して出した問いが怜菜から返ってくるわけもなく、代わりに一花が答えました。
「でも……」
私も涙が自然に溢れてきました。頬を伝う涙が、体温を奪われた皮膚には温かく感じました。
「でも、だって、あの子は、私たちとあんなにも楽しそうに笑ってた。少し前に遊んだ時は、あんなにも、笑ってた」
私は大人げなく、大人であることなんて忘れて、ただの駄々っ子かのように泣きながら訴えました。
「そうだよ。でも、怜菜は死んだ。私たちを置いて」
一花がそう泣きながら言います。そうです、私たちは置いて行かれたのです。引き止める権利すら与えられず、彼女は静かに飛んで、静かに消えました。
「どうして、わからない」
私にはわかりません。死にたくなったことがないなんて言えません、それでも、本当に死のうとして死の淵に立ったことはありません。だから、彼女がどんな思いで飛んだのかがわかりません。怖くなかったの?その死の恐怖よりも勝る絶望があったの?そしたらなんでそれを私たちに教えてくれなかったの?そんな意味もない問いだけが頭を支配するように浮かんできます。
「なんで、私には救えなかったの」
私はグループの中で最年長でした。彼女たちよりも5歳以上も年上でした。唯一の大人でした。それなのに、だれも救えませんでした。凛が消えたことも、それにより一花が傷ついたことも、そして、怜菜が死んだことも、誰一人、何一つ救うことはできなかったのです。
「私たちに救えたの?」
一花は私にそう聞いてきました。
「救えたかもしれないじゃない。彼女が、私や一花ちゃんに連絡や相談をしてくれていたら」
私は責任感に押しつぶされそうになっていました。
「そしたら、葉ちゃん。彼女に死にたいって言われて、目の前で飛び降りそうなときに、何ができたの?」
泣きながらも、必死に一花は喋りました。彼女も、恐らくここ数日で死に至るほどの悩みを抱えてきたのでしょう。だから私に聞いてくるのです。死を止めることなんてできるのかどうか。彼女は今、怜菜と同じような考え方をしているのです。もう、死ぬしかないと、それ以外の結論がまるで見えないと、そんな暗闇にいるのです。
「目の前で飛び降りようとしていたのなら、私は」
そういいながら、実際の状況を想像してみました。目の前に、怜菜がフェンスの向こうに立っています。たぶん、彼女は泣いていません。泣いていなくて、ただ地面を見つめています。今から自分を迎え入れるその地面をただ見つめ、表情一つありません。私はその怜菜の背中を見つめて、かける言葉を探しています。でも出てきません。そして必死になって捻りだしても、それが彼女にとって必要じゃない言葉なのがわかります。
『生きてたらいいことあるよ』
『死ぬにはまだ早いよ』
『別のことを考えようよ』
大人が子供に対して投げかける愚かな言葉がどんどん湧き出て、目の前にある悲壮感を感じさせる背中が、発する前にいらないと語りかけてきては消えていくのです。私にはかけれる言葉がありません。それでも、手を伸ばせば、手を伸ばせば彼女を救える、そんな気がしてならないのです。
「葉ちゃん、私たちにはできないんだよ。救えないんだよ。だって」
彼女はそういって、左腕の袖をまくりました。その腕には傷の一本もなく、ただただ白い肌でした。彼女はそれを見つめながら、そこに涙をこぼしました。
「私はりぃと同じ世界にいたくて、怜菜と同じ世界にいたくて、ずっと隠していた。隠して、同じ世界にいるよって嘘ついてた。葉ちゃんには話してたけどね、私は怜菜と凛にはリスカしてるって嘘ついてたの。だって、同じ世界にいるって思ってほしかった。理解したかった」
そして、花束を見つめながら、私にではなく怜菜に語りかけるように続けました。
「でも、私にはあなたたちのことを理解できない。私たちとは違いすぎる。私の腕には傷がない。だからその痛みが分からない。私たちは精神薬を飲まない、だからその苦さを知らない。私たちは死にたくなっても、カラオケにいったり、おいしいもの食べたりしたらどうでもよくなっちゃう。だから、その長く永遠のように続く苦しみとかがわからない。わからないんだよ。だけどさ、私はわかりたかった。できなくても、感じたかった。だって私はりぃのことも、怜菜のことも大事で大切で愛していたの」
一花は泣きながら訴えた。
「私だって、愛していた。大事だった、大切だった。友達だった。だからこそ、わかりたかった。必死に勉強して、話も聞いて、何度も何度も考えて、あなたたちの立場になって考えてきた。でも、答えが見つからないの。どうしても理解できなかったの。あなたたちの気持ちを、あなたたちの立場を。あなたたちがどうしてその行動をするのかが」
私は思わず一花に続けて喋ってました。
私は自分がメンヘラだと思って病み垢を始めました。静雄に対して、他の人とは違う重い愛情を抱えていました。でも、やはりそれだけではありませんでした。静雄のためとはいえ、ここまでするのはいささかやりすぎだと感じます。だってそれは好きだから、愛しているから、それでは済まされないくらいだと思います。本当は人に捨てられるのが怖いのです。だから10代の女の子の恋の悩みに夜中に呼び出されても行ってしまうのです。彼女にさえ、捨てられるのが怖いのですから。凛に対してもそうです。彼に捨てられるのが怖くて、浮気をしている彼の行いを許せなくても相談に乗ったりしていました。怜菜に対しても、彼女が安心さえしてくれれば私を捨てずにいてくれるから、ずっと安心させるように努力し続けました。
人に捨てられたくないという不安を同じように抱えているはずなのに、なぜだか私には彼らのことをやっぱり理解できないと思ってしまうのです。
「考えてもわからないの。私はメンヘラなはずなのに、彼らと同じ行動をとることができないの。私は……」
何の行為も伴わず、ただ勝手に自分で自称するだけであるなら。
「メンヘラ、失格。」
私の呟くように言ったその言葉を聞いて、一花は私の手を握りました。
「失格でいいんじゃないかな」
一花は、手を握りながら私の目をまっすぐと見つめました。
「メンヘラって別にリスカとか自殺をする人のことをいうわけじゃなくてさ、自分で勝手にそう自分を分類するだけじゃん。だから、失格も何もないよ。それに、葉ちゃんが言う様に、行動が伴わなければメンヘラじゃないなら、私たち失格でいいよ。だって生きててほしいんだもん、私も生きていたいよ。誰かを失うのは悲しいよ。失いたくないよ。私は葉ちゃんを失いたくない。凛のことも、怜菜のことも、失いたくなかった」
ついに、一花は泣き崩れて膝を地面につけた。私も花束を見つめながら、怜菜のことを思いながら、涙を流しました。怜菜は『心配しないで』って言ってるのでしょうか。『苦しいんだよ』と言ってるのでしょうか。もう、声は聞こえません。言葉は、聞こえません。感じられません。
それから、私たちは一花からご両親に連絡してもらい、怜菜の家に行ってお線香をあげてきました。社会人でしかもスーツの私が家に突然お邪魔して、びっくりはされましたがちゃんと事情を話し、そして彼女の様子も聞くことができました。
彼女はずっと何かにおびえて生きていたそうです。子供のころからずっと、そして、それがいつも襲ってきては暴れたり腕を切ったり血を抜いたりしていたそうです。それでも私たちの前で笑っていたのは、無理をしていたのか、それとも安心していたのか、私にはわかりませんでした。
帰り道、夜遅くなってしまったので、一花をタクシーで送っていきました。
「私は彼らのことを理解する必要なんてないと思う」
タクシーの後ろの席で、彼女はずっと窓の外ばかり見ていた一花はそう話し始めました。
「どうして?」
たしかに、理解できないという結論に一緒に至りました。しかし、私はそれでもまだ私は理解したいと思ってました。
「だって、理解したところで彼らはその予想を裏切ることばっかりするよ。実際、凛の行動にはいつも悩んでたし」
泣き疲れて彼女は少し弱った声で言いました。
「それでも、私は理解しようと努力し続けたい。だって、だれかが理解しないと、誰も救えないから」
私の言葉を聞いて、一花はこっちを見て、くすっと笑いました。
「葉ちゃんってホントそういうところあるよね。私のほうが大人みたい」
そして続けて言った。
「頑張ってね」
私は笑顔で「うん」と答えた。そして、タクシーは彼女の家の前に止まり、私はタクシーの運転手に待っていただくように伝え、こんな時間まで連れまわしたことをご両親に謝った。事情を知っていた彼らは全く怒らず、逆にお礼を言ってくださいました。
「それじゃあね、葉ちゃん。また遊ぼうね」
「うん、またね。一花ちゃん」
そういって私たちは解散しました。